アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

イスカリオテのユダは特別扱だった

2024-06-16 12:29:22 | キリスト者の秘蹟neo

◎13番目の係累

(2015-12-26)

 

「原典 ユダの福音書」からイスカリオテのユダについてイエスが言及している部分。

※[]は、英訳者が推定して復元した部分。

イエスは、弟子たちに、あなた方には、私がわからないだろうと、やや挑発する発言をした。

『これを聞いて弟子たちは腹を立て、怒りだし、心の中でイエスをののしり始めた。

彼らが[理解]していないのを見ると、[イエスは]彼らに[言った]。

「なぜこの興奮が怒りに変わったのか。あなたがたの神があなたがたの内にいて、[・・・]があなた方に心魂の[中で]腹を立てさせたのだ。あなたがたの内にいる、[勇気のある]完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい。」

彼らは口を揃えて言った。「私たちにはそれだけの勇気があります」

しかし彼らの霊は、イスカリオテのユダを除いて、[イエス]の前に立つだけの勇気がなかった。ユダはイエスの前に立つことができたが、イエスの目を見ることができず、顔をそむけた。

ユダはイエスに[言った]。「あなたが誰か、どこから来たのか私は知っています。あなたは不死の王国バルベーローからやって来ました。私にはあなたを遣わした方の名前を口に出すだけの価値がありません」』

(原典 ユダの福音書/編著者ロドルフ・カッセル他/日経ナショナルジオグラフィック社P27-28から引用)

 

「あなたがたの内にいる、[勇気のある]完全なる人を取り出して、私の眼前に立たせなさい。」とは禅問答でよくある質問。これに対してユダだけが出てきたのも、師イエスに近い悟境の人物がまともな回答をしてくるという頻出パターン。彼らのグループが自由で真剣な冥想修行の場であったことがうかがわれる。

ユダが目をそむけたのは、この時点では、師より一段遅れていることの自覚であろう。

この問答のあと、イエスはユダだけに「王国」の秘密を教えてくれる。王国とは不死の王国だが、当然来るべき千年王国のことでもある。秘密を教えられてユダは王国に達することはできるが大いに嘆くことになるだろうと、イエスは不気味な予言を残す。

イエスは、その嘆きの原因を、12使徒が再び全員揃って神とともにあるために、だれかほかのものがユダにとって代わるからだと、説明する。これによってユダは、王国側に入りながら13番目の使徒という位置づけになった。

ユダが、イエスの磔刑のプロデュースができるには、そうした高みが必要だったが、嘆きという代償を払う。いわゆるメジャーな社会組織の側には居られないということなのだろう。これは13番目の係累はいつもそうなのだということを示す。

不死の王国バルベーローとは、言葉で表現できないからバルベーローなのだろうが、正統的表現である。

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ケルソス反駁に見るユダ像

2024-06-16 12:27:09 | キリスト者の秘蹟neo

◎不安定な悪役

(2015-12-09)

 

ケルソス反駁という文章は、オリゲネスが著したもので、何かとイエス・キリストの事績を批判するケルソスに対し、オリゲネスが公平な立場で、ある程度イエスを擁護していくものいである。

 

福音書を見る限り、銀貨30枚で師匠を売り渡したユダは、イエスに接吻することで、イエスに対して尊敬の念を持っていたようである。またイエス刑死後は、銀貨を返しに行ったり、反省の念からか自殺するという挙に出ている。ユダはイエスを敬慕していた。

 

ところが、イエスは官憲から逃亡の旅をしているところ潜伏先を急襲されて逮捕されたのではなく、ユダヤ官憲に誰がイエスかと問われ、自分がイエスだと答え進んで官憲に我が身を引き渡している。だから、官憲に対してユダが潜伏先情報を銀貨30枚で売ったからイエスは身柄を確保されたという推理は弱い。むしろイエスは自ら官憲の手に落ちたのだろう。

 

また本当にユダがイエスへの裏切りをしたのであれば、破門されるべきであって、十二使徒から除名ぐらいの話はあるべきだが、そうした記述はない。仮に福音書の想定するように、イエスの逮捕から刑死までの間、ユダはアンチ・キリストな心情であったとすれば、ユダは少なくとも磔刑執行の間、官憲支持に回ってそれを喝采しながら見ている方が自然だろう。

 

こうしたユダの不自然な悪役ぶりであるが、これによってキリスト教は世界宗教としての教義の体裁を整えることができたとも考えられる。

 

というのは、キリスト教が人類普遍救済の世界宗教となるには、神の子が刑死するというあってはならないイベントを、預言者の刑死は神との約束である予言の成就であったと宣伝することで、昇華させた。これにより、ユダヤ教の文脈とも折り合いをつけることができ、刑死と復活を経てなおイエスが救世主であるとすんなり考えることができるようになったからである。

 

しかし禅ならば、これと全く異なる立場がある。道で達磨に逢ったら達磨を殺せとか、不思善悪などである。誰が悪人だとか、誰が裏切ったなどということはどうでも良いのである。

 

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ケルソスの語るイエス一家

2024-06-16 12:24:51 | キリスト者の秘蹟neo

◎イエスの生い立ちの真相

(2015-12-10)

 

ケルソスは、イエス一家の姿について当時の有力説を以下のようなものだと披瀝する。

 

イエスは、ユダヤの村の出身で、田舎の貧しい糸紡ぎ女から生まれた。

彼女の夫は大工で、彼女は姦淫の咎めにより、夫から追い出された。

彼女は夫に放逐されて恥辱に満ちた放浪を続けているときに、ひそかにイエスを産んだ。

イエスは貧困のためにエジプトに出稼ぎに行き、そこで超能力(奇跡力)を披露して、ユダヤに帰還したときに、この超能力ゆえに神と自称したと。

(出典:キリスト教教父著作集第八巻オリゲネス/日本教文館P35)

 

この話は、広く伝わっていたがゆえに真相に近いものだったろう。我らは週刊誌ではないので、生い立ちについてはあまり興味はないのだけれど。

 

2000年前に、すでに救世主イエスは、現代の覚者のように弟子たちを友人として遇した。イエスは、処女懐胎した母から生まれたのでなく、大工の夫の夫婦から生まれたのだろうし、イエスは大工で稼いでいたのだろう。

 

イエスを個人として見れば、一人の政治的にも無力な、経済的にも取るに足らない人物が、宗教的に頑張りすぎてしまって、官憲に捕まり十字架上で刑死するという非業の最期を遂げた。

 

神の国を実現するためには、2000年前のようにイエス一人、大工一人にがんばらせるのではなく、多くの人、ほとんどの人が神に近づこうとする努力を日々重ねているようでなくてはならない。

 

そうでなければ、イエスが、『もはや、わたしはあなたがたを僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。』(ヨハネ福音書15-15)

と呼びかけた甲斐はあるまい。

 

今の時代に貧しい大工一人ではどうにもならない。皆が神に近づこうとしなければ。

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義の教師メモ

2024-06-16 07:05:08 | キリスト者の秘蹟neo

◎十字架で殉教せず

(2012-11-11)

 

死海文書が発見されてから、義の教師という聖なる修行者が当時いて、義の教師は十字架にかけられて殉教し、彼の弟子らは、義の教師がメシアとして復活するだろうと考えたということが定説の一つとして流布している。

 

これに対して、「イエスと死海文書/ジェームズ.H.チャールズウァース編著/三交社」では、次のような結論を下している。

『(1)義の教師が殉教したとか、十字架刑を受けたという証拠は何もない。

(2)彼は確かにある点ではイエスの先駆者であったが彼は十字架につけられはしなかった。そして確実に彼は、十字架につけられたメシアとして崇敬されはしなかった』

(イエスと死海文書/ジェームズ.H.チャールズウァース編著/三交社P403から引用)

 

要するに義の教師とイエスは別人だという説である。

 

なんでもユダヤ戦記によれば、紀元66年から70年までのユダヤのローマに対する反乱の時期には多くの捕虜になったユダヤ人が十字架にかけられ、あまりにも多かったので十字架の木材が足りないほどだったという。

 

この「イエスと死海文書」では、イェホハナンという名の紀元1世紀前半に十字架につけられた男の遺骸が、エルサレム北部で見つかったことを重く見ているが、それがイエス本人かどうかはあまり問題ではないように思う。

 

神人が横死すれば、その周辺にはいろいろなことが起きる。その一部始終を霊眼で見ていた人たちからは、様々な解説が記録として伝承され、またその原因となった人々にもいろいろなことが起き続けている。

 

イエスはこの2千年成功して、マラキ予言のように、その成果を刈り取れるかどうかという時期に立ち到ったのだ。

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愛、不思議に静かな夜だった

2024-06-16 06:50:52 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-13-9

◎冥想自在-9

◎冥想自在の構造-9

◎救いなどない絶望の極みから愛が開ける

 

愛とは、慈悲のこと。大慈大悲のこと。愛とは、とてもとても悲しいということ、悲しみの極み。

 

好きだ嫌いだの愛情と、愛とは違う。愛が悲しみであるということはダンテス・ダイジの胸のアナハタ・チャクラの説明に出てくる。

『ステップ4.

 

すべてが自己である愛・慈悲

大いなるすべてのものに対するいとおしさ

すべてが一体であるという感謝

底知れぬ生命の絶望と悲しみ』

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)

 

愛が極まる超能力とは、他心通なのだろう。

 

人間には七つのチャクラに配当される属性があるが、なぜ愛だけが推されるのだろうか。

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』の只管打坐の章は、二段に分かれている。最初の段は、高校不登校で毎日真っ暗闇だったダンテス・ダイジが、古代ローマの殉教映画クオバディスか何かを見ている際に、愛という言葉が胸に響くと同時に、人間もあらゆる万物も絶対的に救われないという悲しみがやってきた。気が狂ったように泣いた。涙はとめどなく溢れてきた。

万物の決定的絶望の極みの中で、その時万物万象を含む愛が開かれた。

この時自然に坐り、これが只管打坐の姿勢となった

 

只管打坐の章なのにニルヴァーナである身心脱落を説かないのは、変だと思った人は多いと思う。二段目に身心脱落を説いてはいる。

 

愛を開く、人間も万物も救われない悲しみを感得するというのは、現代人として、この地獄的文明生活を越えて一歩出るということ。

 

オカルティストは、地球の課題は、マニピュラ・チャクラである欲望満足・自己実現からアナハタの愛に進むことだと説明するのだが、人類滅亡を回避するためには、力、自由、安心など下位三チャクラに力点を置くことはやめて、アナハタ以上の三チャクラ主体で進まねばならない。

 

出世競争や武道などで丹田強化(スワジスターナ・チャクラ)が言われるが、この時代の丹田強化は、争闘強化と人類滅亡を促進する面が強い。よって、「愛」をことさらに言わねばならなかった。

 

また身心脱落では、クンダリーニ・ヨーガの窮極と同様に七つの身体を上昇するが、急速に起こるために、本人が「愛」などを通過した自覚がない場合があるという。身心脱落では七チャクラそれぞれの属性に対応する悟りが起こっているはずであって、「愛」だけ起こっているはずはないということ。

 

イエスは、十字架上で大悟する以前は、未悟だったが、ひたすら愛を説いた。ユダに銀貨30枚で売られ、愛弟子ペトロに知らんぷりされるという裏切りに遇っても、ひたすら愛、自分がまだ神人合一していなくてもひたすら愛。

こうした義の教師の生きた姿を深く感じた古代ローマ人と西欧人はまことに見る目があった。

こうしてイエスは、愛への時代2千年を支配した。今は各人が自分で愛を知る時代。

 

以下にダンテス・ダイジの箴言4つを挙げる。

 

『【オカルティックに】

 

この中有界タイプの世界文明は、

20世紀末に終わる。

現代文明とは、マニピュラ・チャクラとアナハタ・チャクラとのバルドのことである。

欲望満足と『愛』との上下運動のことである。

 

文明の終末なぞ、別にどうということはない。

この世のあらゆるものは産まれ生き死ぬ。

呼吸は、出息で死に入息へと再生する、

入息は終り出息が始まる。

そのように、あなたは死ぬのだ!

 

おお、限りなく愛しいマーヤよ!

六道のつじよ!  

さようなら・・・・

すべては、あなたのためにあるのではない。』

(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)

※バルド:中有

※マーヤ:迷い、無明

 

『現実として、一切万象の中に単独として存在しているものはない。

重要なのは、 万象の一体性が、絶対愛だということにある。 』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP 137から引用)

 

『本当のこの世との一切の別れは、 

本当にこの世のすべてを理解するのは、 

あなたが、あなたの肉体の頭部の光の智恵に導かれて、 

限りない道の広がりへ出てゆく時である。 

つまり、あなたは、 

唯一の限りない出会いと一瞬一瞬に 

別れを告げているということなのだ。 

それが愛の始まりであり、 

それが愛の終わりなき終わりなのだ。 』

(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジP56から引用)

 

『真実の愛は、 

絶体絶命なる虚無性を、 極め尽くさねばならない。』

(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジP 110から引用)

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