◎ジェイド・タブレット-13-4
◎冥想自在-4
◎冥想自在の構造-4
◎君子、神の子、神の生き宮、菩薩
菩薩は、元々は、釈迦成道以前の釈迦を指して、悟りが確定した人という意味だった。
釈迦の成道は明星望見なので、正確には見仏であるように思う。
つまり成道以前の釈迦は、未見仏であるにもかかわらず、悟りが確定していたと考えられていたわけである。これが菩薩の原義。
ところが、成熟バロメーターには見仏見神を入れていない。その理由は、見仏見神後において、悪の側に戻るケースがあるからである
よって釈迦は未見仏であるにもかかわらず、悟りが確定していたというのは、ジャータカなどの過去の無数の前生の釈迦の事績を考えれば当然と言えば当然だが、一般的とはいえない。
普通の人は、見仏見神してももとに戻るのに、いわんや未見仏で究極に対して不退転になるなどとはとても言えない。釈迦は特殊な例なのだと思う。
また人は、神、仏、ニルヴァーナ、宇宙意識に対して、そこから発した個としてのポジショニングがある。その本来あるべき個としての姿を、君子や、神の子、神の生き宮、菩薩と呼んで、宗派を問わず、とても大切な基本概念としてきた。
君子や、神の子、神の生き宮、菩薩は、完全人、アダムカドモンという人間の極みというニュアンスではなく、完成途中の仕掛りの人間のニュアンスである。すなわち冥想修行者である。
こうした人間について中間的位置づけがある原因は、宗教の基底には、一般に神あっての人間、人間あっての神という発想があるせいだろうと思う。
成熟のバロメーターには、見仏見神見性を入れてはいないが、かなりの宗派で、見仏見神見性を修行の一里塚として評価していることは無視しないほうが良いだろう。かなりの宗派で見仏見神見性した者を一人前の冥想修行者として扱っているからである。
一人前の冥想修行者と師に認められれば、師の指導はそれ以前のものと質が異なって来る。
華厳経に出てくる菩薩の52段階などは、いかに修行レベルとしての菩薩が重視されていたかという証左である。
翻って、見仏見神見性を未悟の者にとってのメルクマールと考え、別途敷衍したい。