◎海神になったが悟ったわけではない
(2012-01-26)
古代ギリシアのグラウコスは、草原の草を食べたら海神に変身した人物。それをオウィディウスは、変身と分類するが、転生とか、意識の転移という表現のほうが的を得ているように思う。
『どこかの神がそれをしたのだろうか。それとも
草の汁のしわざだろうか。それにしても、どんな草に
これほどの力があるのだろう。
私は草を何本か摘むと、
それを噛んでみた。私の知らない液汁が、
喉を通っていく。
と、突然、
心の琴線が震えるのを感じた。私の魂は
別世界に憧れて、消え入りそうになった。
もう待つことはできない。「さようなら」と叫んだ。「さようなら、
この大地はもはやけっして私の故郷ではない」というと、
私は海の中ヘ飛び込んだ(オウィディウス 変身物語)。』
(麻薬の文化史/D.C.A.ヒルマン/青土社P165から引用)
これは、帰って来なかった。
ただ起きた出来事は、中国の故事にある呂洞賓の邯鄲の夢のような、完全な別人生を短時日にして最後まで体験するエピソードの一種であって、元の人格にまだ戻っていないものであると見ることができる。
荘周胡蝶の夢では、蝶が自分か自分が蝶かと惑うが、それは実は問題ではないことを示している。
果たしてグラウコスは、人間に戻ることについて何の未練もないように感じられる。魂が乗り物であるボディを替えるというのは、クンダリーニ・ヨーガの秘儀というよりも死をきっかけに人間には必ず起こる日常茶飯事なのかもしれないと思った。
このシーンでは、きっかけが、たまたま草原の草であったことをあまり重要なものと見るべきではないと思う。きっかけよりも意識の変容の質である。グラウコスは海神となったが、悟ったわけではないのだ。
もっとも悟った悟らないを問題にしない人に向けては、この逸話のように海中に入ったり、金星や火星に生きたり、白日昇天したというような寓意でもって、全くの異世界、異次元に進むという感触を与えることを狙う場合もある。