◎ジェイド・タブレット-12-13
◎ニルヴァーナ-13
◎人生、輪廻転生、運命とニルヴァーナ-3
◎何もかもが 時間でない今を楽しんでいる
さらにダンテス・ダイジの老子狂言から。
『まるで一輪の野の花のように・・・
何が何だと言うのだ
これはこれなんだ
いいや、これはこれだという必要もない
何もかも、何もかもいいんだ
こんなことを言うのも愚かしい
それ位、これはこれなんだ
生命はジグザグに進む
絶対の到達点などありもしないからだ
この静けさをわかってくれるだろうか?
しかも、生命は流れる
ニルバーナといったところで
それもまたひとときのふるさとにすぎない
何もかもがすてきだ
何もかもが
時間でない今を楽しんでいる
極限の極楽と
極限の地獄とを戯れている
私は何と無駄な言葉を書いているのだろう!
とことん無駄だと知りながら・・・
まるで
一輪の野の花のように・・・ 』
(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)
この詩では、ニルバーナという体験とはいえない体験以前に、
『ニルバーナといったところで
それもまたひとときのふるさとにすぎない』とか、
『何もかもがすてきだ
何もかもが
時間でない今を楽しんでいる』
と言うのは間違いである。
禅語録によく出てくるが、悟った者が御簾を巻き上げるのは正しく、未悟の者が御簾を巻き上げるのは正しくない。同様に坐禅中に悟った者が居眠りするのはよいが、未悟の者が居眠りするのはまずい。
こうした韻文は、よくよく字面の奥を考えねばならない。
一輪の野の花は深い。
『とことん無駄だと知りながら・・・
まるで
一輪の野の花のように・・・ 』とは、無用の用の謂いである。