◎「内側などというものはない」と叫ぶ時代
OSHOバグワンは、西洋はその精神的発展の帰結として、冥想へと向かい、物質文明を捨て精神文明へと進む結果、二世紀の間に、西洋は貧困の淵へと沈むと予言してみせた。
『二世紀の間に、西洋は貧困の淵へと沈むだろう。 東洋では、それが起こった。 マハーバーラタ(古代インドの大戦争) の時代、東洋では、今とほとんど同じ科学技術が発展を見せていた。そしてそれが無用なものとみなされた。
もしインドが科学技術のほうに転じれば、二世代のうちに宗教は消え失せるだろう。もう消え失せているも同然だが······。そして「瞑想」という言葉は、まさに時代遅れと映るだろう。内側について語る者がいたら、人々はその正気を疑うだろう、「内側とはいったいどういう意味か。内側などというものはない」
これは言語のせいで起こる。つまり言語は選択であり、マインドは極端へと向かう。マインド が一方の極端へと向かうとき、他方の極は失われる。その他方とともに、いろんな側面が消え失 せる。そうした側面が消え失せると、それに対する飢えが感じられる。そこで再び、そちらの極端へと向かう。するとまた別の何かが失われる。
だから全面的な文化は、まだ生まれていない。そしてそれが生まれるのは、人が静寂になることを学んだときだけ、静寂が人間のマインドの核そのものになったときだけだ。言語ではなく沈黙だ。沈黙の中で、あなたは「全体」だ、しかし言語の中で、あなたはつねに「部分」だ。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P237から引用)
マハーバーラタ(古代インドの大戦争) の時代には、空飛ぶ円盤が飛び交い核戦争が行われたらしい記述がある。それは物質文明の極みであって、極まって精神文明に転じた結果、いまだに精神的なものに価値があるというのが社会通念であるインドとなっている。
西洋はキリスト教をバックボーンに2千年やってきたが、いまや「内側などというものはない」と叫ぶ時代となった。これは、物質文明が極まって反転する徴候。
それは、ベトナム反戦運動を起爆剤にヒッピー文化として1970年代に既に始まっていた。その時代にクリシュナムルティがいて、OSHOバグワンが活躍して、ダンテス・ダイジも奮闘して、彼ら3名は、1990年代初めまでには世を去ってしまった。
それから以降は、生きている大物聖人聖者なしに、神仏を見たり、神仏になったりするということを、他ならぬ自分自身がやっていくしかない時代になった。
全面的な文化とは、個人の体験とは言えない体験という見地から言えば、万人すべてが最低でも見神見仏体験を有し、その中でもいくらかは神人合一体験がある人がいて、さらに言えばその体験を持ちながら物質面でも不足を感じない人が存在していること。そんな人をダンテス・ダイジはトースとダンテスの合体とも呼び、人間という存在が持ちうる最後の体験とも表現している。
つまり、ここでOSHOバグワンの語っている全面的な文化とは、物質面も精神面も両方発展隆盛している文化のこと。それは、トースとダンテスの合体の文化的表現でもある。
またOSHOバグワンは、物質文明の隆盛の極みと精神文明への反転がなぜ起こるかについて言語のせいで起こるとする。端折って言えば、世界言語となった英語のせいで起こる。物質と精神双全となるには、精神の側の極みである神仏を体現した日常の心の動きや挙措を顕す言語が日常に用いられねばならない。
どちらかを選ぶような選り好み言語を使っているようでは、まだまだなのだ。