◎人生は浅い夢、深い夢
人間の脳は、映画のスクリーンであって、そこに自分を主人公とする映画が映し出される。
映画館を出た後、しばらくは映画の世界にまだいるような気分がするものだが、そのように自分は、自分を主人公とする夢の世界に没頭して生きている。
ところが、自分が演じる夢の世界は二重構造になっていて、「起きて活動している時間帯の自分という夢」と、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に実は分かれている。
最初の「起きて活動している時間帯の自分という夢」の中では、自分が主人公として活躍しているが、その夢を見ている者は完全に忘れ去られている。
悟っていない普通の人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」こそが人生だと思い込んでいて、それこそが喜びも悲しみもある人生だと思い込んで、何回でも生まれ変わりを繰り返す。
一方、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」においては、その夢を見ている者は意識されている。
さて、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」は、意識の隙間と呼ばれて知られている。
まるで映画という動画にはアナログでもデジタルでも隙間があるが、その隙間にこそ真実が隠されているかのように。
さてこのように人生は二重の夢見だ。浅い方の夢が停止した時に、深い方の夢に気づくことがある。それが悟りと呼ばれる。
人間に突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法はあるものだ。代表的なものが只管打坐だが、実際には、人生が嫌になって石を投げたら竹に当たった音で悟ったとか、石に蹴つまづいて悟ったとか、重い鍵束をガチャリと置いたら悟ったとか、黙って坐る黙照枯坐だけのワンパターンで悟るわけでもない。
また、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法が強烈過ぎたり、起きるのが早すぎる場合がある。その結果、それに耐えられなかったり、精神障害になったり、自殺したり、脳がこわれたり、死んでしまうこともある。人はあまりにも長く「起きて活動している時間帯の自分という夢」だけを現実として生きてきたせいで、その夢がなくなると自分が誰だかわからなくなりさえする。
人は、「起きて活動している時間帯の自分という夢」なしで生きるのはむずかしい。だから突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法は、あまり一般的に用いられることはなく、むしろクンダリーニ・ヨーガ型の漸進的な段階的な徐々に進む手法が用いられることがある。
覚者たちは、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法のことを、乾いた道、近道などと呼んで、ちゃんと承知はしているものだ。
人生を二重の夢、浅い夢と深い夢と見れば、深い夢が悟りであって、その意味では、誰もがいつでもどこでも悟りを生きている。ところが、自分が悟りを生きていることに気がつかないだけなのだ。真の現実とは深い夢の方だが、深い夢である「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に気づくのは、なかなか容易ではないのも現実。
このような意味で、人は今ここで悟っている。自分が悟っていることに気がつくか、つかないかだけの差である。だから悟りに時間はいらないとも言える。
だからと言って、突然の悟り、急速な目覚めをもたらす手法が万人に有効とはいえない。
そうすると漸進的な段階的な手法一択かと考えがちだが、さにあらず。ダンテス・ダイジは、この時代、人類が存続するようなら禅が流行し、人類が滅亡するようならクンダリーニ・ヨーガが流行すると予言している。この禅は、只管打坐のことであり、突然の悟り頓悟の手法。冥想手法もあざなえる縄の如し。