◎【第二章】神仏と冥想の関係
7.死後の輪廻転生はマンツーマン輪廻といえるとは限らない。
(1) マンツーマン輪廻とは
一般的には誰もが、自分は死んだら自分の霊魂があの世に行って輪廻するものと思っているものだ。
マンツーマン輪廻とは、一人の人間が死ぬとあの世では一人の霊になるという輪廻説の事。仏教では六道あって人間に生まれ変わるのは、上位から2段目であり、人間以外の畜生などのルートもあって、一見一人対一人のマンツーマン輪廻説をとっているかに見える。
なおキリスト教にもユダヤ教にも転生はなく、死後人は人として、天国か地獄か煉獄に進み再生しない。これは、まさにマンツーマンどころか輪廻転生を否定する説である。
(2)一対多輪廻とは
だが、仔細にマンツーマン輪廻説を検討していくと、そうではないという有力覚者が何人かいる。
それは、ダライ・ラマであり、ダンテス・ダイジであり、一対多があり得ること説明している。
ダライ・ラマは、人によっては、一つの輪廻から十の輪廻を実現するどころか、数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうことができることを認めている。
ダンテス・ダイジは、人は死ぬと宇宙意識(アートマン、第六身体)という無限の海原に行くが、その海原の中には無限のイメージが蓄積されており、そこからそのイメージが、時にイメージ自体で現れたとき、それを幽霊と呼ぶ。またイメージが仮に肉体として現れた時、転生と呼ぶ。そしてその転生が一対一であるなどということは言えないとする。
また転生自体が、今生の個人Aが来世では個人Bになるというような個人から出て直接個人に転生するわけではなく、個人Aは死において、過去現在未来と宇宙全体を含むアートマンに一旦戻り、それから個人Bに転生するとする。
そして転生前と転生後の個人は、まったく別人ではなく、大体似ているが少々違いがある。もっとも大体似ていないと転生とは見れない。
(3)マンツーマン輪廻も一対多輪廻も本質ではない
OSHOバグワンは、輪廻転生からの解放とは、あなたが二度とここに生まれてこないということではなく、「もは や "来ること"も"行くこと"もないということだ-どこにも、どの次元にも。」と言う。これを「自分が本当にいる場所にいる」とし、ここではじめて、真の喜び、幸福を見出すことができるとする。つまり、輪廻のなかを通っていくということは、幻想の場を彷徨っていくということだ、とする。
一般に輪廻転生の終了と言えば、七回とか百回転生すれば、輪廻が終了して二度と人間に転生して来ないことだと想像するものだ。OSHOバグワンは、そうではなくて、今ここに居ること、つまり大悟覚醒こそが、輪廻転生の終了だと唱えている。
ダンテス・ダイジは、転生ルートとは、個人A⇒アートマン⇒個人Bだと説明しているが、実は経由するアートマンの部分が大悟覚醒にあたる。チベット死者の書では、このアートマンのところが原初の光にあたる。
以上をまとめれば、すべての人は輪廻転生の途上で、肉体死に際し必ず輪廻転生から解脱しているという論理になるが、そうでもあり、そうでもないというところが、人間の重大なテーマとなっている。
その問題意識の下では、マンツーマン輪廻も一対多輪廻も本質ではないのだ。