◎複数の輪廻が同時に可能
ダライ・ラマの輪廻の見方。これは現代の人らしく、もっと直接的な表現でもって輪廻転生を説明してくれている、ダライ・ラマの輪廻転生説も、マンツーマン転生、つまり一対一オンリーの転生観ではない。
ここで彼は一対多の輪廻転生を開陳しているが、それですらも、人間個人の生き方はどうあるべきかを考える上で、大いに当惑させられる見方である。
たとえば、ハタ・ヨーガで一生を費やして鍛え上げた肉体は次の生でだれがそれを引き継いでクリヤ・ヨーガにチャレンジするのか。
それから袁了凡の積善陰徳。これも何千もの善行を積み上げてその徳の果報を受けとらないうちに死んだらその徳は何人前として発現するのか?これはちょっと功利的な考え方ではあるが。
『一つの輪廻から十の輪廻を実現する形態がある
飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねてきた魂、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな一つの肉体が必要というわけではない。むしろ、そんなものは不必要である。
そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうものなのだ。
深く深く精神の最深部にまで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。もちろん、これは言葉で表現できないほどに困難な道ではあるのだが。
複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じることは容易なことではない。
こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。学び、経験し、相当の水準に達した者にとってさえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。そういう私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。輪廻思想は奥深いものだ。』
(ダライラマ 死の謎を解く/ダライラマ/クレスト社P72から引用)
人の誕生において、ダライ・ラマは、このように一つの輪廻から複数の輪廻があり得ることを語る。反対にダンテス・ダイジは座談の中で、一つの肉体に複数の輪廻が共存することもあり得ることも語る。
「ヒマラヤ聖者 最後の教え」では、老ヨーギが自分の老いさらばえた肉体から自発的に脱出し、以前から目をつけていた若者の肉体に乗り移るという話が出てくる。
このケースでは、一つの肉体に先住輪廻者と後発輪廻者が共存する。
これは、ダライ・ラマともあろう方が常識はずれなことを語るものだと読み飛ばさないで、現代社会が一つの精神に一つの肉体という固定観念に毒されすぎであることに対して、ことさらにこのような話を出してきていると読むのだろう。
神の心は石ころの心。神は、時に人間の都合などまったく顧みないが、そこから流れ出すのも愛なのである。その流れの中に生と死がある。
この時代は、基本的人権の尊重で個人の権利がアプリオリに保護されるせいか、無意識にマンツーマン輪廻が当たり前と思い込んでいる人が多いが、生命の実態はこのように予想に反するものである。
まともな感性の人ほど、心配しすぎとか、気にしすぎとか、どうでもよいことにこだわるとか見られがちなものではある。
また真剣な求道者ほど、俗人にわからない細かく微妙なルールでもって生きているものである。