◎問い詰められてすぐ死んじゃった初首座
洞山録から。先生とは洞山のこと。首座はランキング上位の弟子。
『【首座を問いつめる】
先生は、泐潭(ろくたん)で、初首座に会われた。かれはこういった、「すばらしや、すばらしや、仏道の 世界は測ることもできん」
先生はそこでたずねる、「仏道の世界のことはおいて、たとえば仏道の世界を語る君は、どういう世界の人なのだ」
初は沈黙して答えない。
先生、「どうして早く返事せぬ」
初、「せかせてはいけません」
先生「まともな返事すらできないで、せかせてはいかんなどとよくもいえたものだ」
初は答えない。
先生、「仏といっても道といっても、みな名前にすぎん、とある。どうしてお経を引用せぬ」 初、「お経にはどういっている」
先生、「意味を把めば言葉はいらん、とある」
初、「君はまだ経典によって心の中に病気を作りだし ているぞ」
先生、「仏道の世界をあげつらう君の病気の方はいったいどれほどだ」
初はこんども答えられぬ。そして次の日、にわかに死んだ。
人々は先生のことを、首座を問いつめた价と呼んだ。』
(禅語録(世界の名著)/中央公論社P315から引用)
※价とは、洞山良价のこと。
※<泐潭> 江西省洪州南昌県。当時、ここに「大蔵経」があった。
禅問答は、そもそも解答のない問題に自分自身がなりきり、その不条理を体感しきった先に起こる何かを求めようとするもの。この問答は公案ではないが、求める解は同じ。
人は、大災害に突然出くわすと、心を石のように閉ざすか、自殺するか、心をオープンにして大悟するかのいずれかに分かれるなどと言われる。
禅語録では、不条理に迫られた求道者が、悟れないまま禅堂で暮らし続けるか、退去を求められるかなどするケースがあるが、死ぬケースはさほど多いものではない。
悟りを開くには、人生を卒業するに足るあらゆる実感を経験していることが求められる。そうした蓄積がなければ、準備ができていないということになるわけだが、特に禅では、今日只今悟っているかどうかを求めるために、覚者老師の側は、準備ができていようができていまいが、そんなことはおかまいなしのところがある。
洞山には他にも、彼が死んだばかりの僧(悟りきらないまま死んだ若い僧)の頭を三度棒で打ち、輪廻から抜けられないぞと独白するシーンがあり、結構素人目には酷薄な言動の目立つ人だったのかもしれない。
悟りを開くには、高額な金を払えばよいとか、何かスペシャルなあるいはバーチャルな環境に身をおけばよいとか、悟りを促す姿勢保持をサポートする機器を使えばよいなどといろいろなことが言われる。だがそんなうまい話はない。
また今はスマホ1台で、居ながらにして大蔵経のテキストを読める時代になったが、当時希少な大蔵経にアクセスできる洞山の僧堂にあって、お経の意味を把めば言葉はいらんなどと、言っていることは、現代と何も変わらない。自分で飛び込んでいくしかないのだ。