アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

宇宙飛行士と老化、放射線障害-1

2023-02-18 06:42:57 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)neo

◎浦島太郎の玉手箱

(2011-06-16)

 

今を時めく放射線障害に宇宙船内の飛行士はいつも晒されており、かつ無重力という特殊な環境で、宇宙飛行士の老化の進行は早い。

 

さて、体内で、フリーラジカルとは、余分な電子をもっているために、他の分子から電子を奪い取る力が高まっている原子や分子のこと。これは、イオンよりも活性度が高く、分子を引き離したりして、生細胞を完全に破壊してしまうことがある。

 

フリーラジカルは、酵素を使ってブドウ糖からエネルギーを作り出すときに細胞の中に出現する。このフリーラジカルが、他の分子から電子を奪うのが酸化で、酸化の連鎖は、細胞の膜を傷つけたり、DNAを損傷させたりする。

 

身体内の酸化が進むのは、老化であって、より損傷した細胞が増えた状態である。

放射線にさらされると体内の酸化が進むので、東日本の人々は老若男女を問わず、平常時より老化が進む環境に晒されているということになる。放射線障害では、放射線により、DNAが損傷し、体内の酸化が進行して、居住地域による程度の差はあれ、より老化が進みやすい状態となる。

 

若くして老化が進む典型例として宇宙飛行士の宇宙滞在がある。

宇宙飛行から帰還した宇宙飛行士は、次のような状態になることが知られている。

 

1.骨からカルシウムが溶け出して骨量が減少する(骨粗しょう症)。

2.赤血球の数が減って貧血状態

3.背骨を支える筋肉と下肢の筋肉が衰える(筋肉が落ちる)

4.腸の働きが悪くなり小腸からのカルシウムの吸収効率が低下

5.免疫系の働きが悪くなり、体調が不安定。

6.暑さ寒さをとても敏感に感じるようになり、眠りが浅くなる。

7.視力が低下してものがぼんやり見える。

これらの症状は、全体として見れば急激な老化であって、浦島太郎の玉手箱状態である。宇宙飛行士の体調不良は宇宙酔いだけでなく、もっと深刻だ。

(参考:宇宙飛行士は早く老ける?/ジョーン・ヴァーニカス/朝日新聞社)

 

そこで、我々の放射性障害に対する対策は、宇宙飛行士がとっている体調回復策を参考にすることができるのではないかと考えた。(対策篇に続く)

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88歳の佐保田鶴治

2023-02-18 06:39:26 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)neo

◎健康第一

(2011-01-17)

 

佐保田鶴治は、ハタ・ヨーガの第一人者であったが、先年騒がれた某教団の研究テキストの主たる部分は、佐保田鶴治の紹介したシヴァ・サンヒターであったのではないかと思う。佐保田鶴治がシヴァ・サンヒターをもたらした意義は大きかったように思う。

 

佐保田鶴治は、以下に自分の解脱観を紹介しているが、これを見ると、彼はクンダリーニ・ヨーギではなく、ハタ・ヨーギであったことがよくわかる。健康第一で、人間としての現実感が揺らいでいないようにみえるのだ。

 

『落ち着いた、静かな、そしてあったかい、そういうものが人間の中でどんどん成長してゆき、その反対のものが押さえられてきて、自分のエゴというものがそれほど力を持たなくなると、やがてその果ては、無限の世界、自由な世界となってゆくんです。

これが解脱だなあ、とおもうんです。

だから私は解脱には行っていませんけれど、解脱の方向に行ってるということは感じているんです。』

(八十八歳を生きる/佐保田鶴治/人文書院P104-105から引用)

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きくち体操半年

2023-02-18 03:30:21 | 天人五衰、ロコモ、フレイル

◎意識して肉体を動かす

 

今日で丁度きくち体操を始めて半年。きくち体操は、老人向けに特化した老化防止と、脳と筋肉の若返りを狙う体操。

 

老化とは、20代の後半から自覚されるものだが、60代に入るといろいろな形で実感されるものだと思う。

 

きくち体操本は6、7冊読んで、youtubeで練習を重ねている。創始者の菊池和子先生は、幼くして右手の指にやけどを負い動かない指があったが、菊池体操で中年になってからその指の感覚を取り戻し動くようになったという。

 

もちろんそれはきくち体操の功徳であるが、そこに至るまでの様々な苦心と工夫、一途な願いの結実だと思う。きくち体操では、身体を意識的に(脳で)動かす、動かす部位を見て意識する。感覚のなくなったり薄くなった部位をさすったり、触ったりして感覚を呼び戻すなど、どういうポーズ、ポスチャーを何回とるということよりも、そうした意識の使い方の方に主眼があるように思う。

 

さらに意識してか知らずか、下腹を引いて腹筋を使いなさいという指示がよく出る。どこを動かすにも丹田を使って手足の先までつなげて動かしなさいという配慮の気配がある。

 

私は、過去半年は、日常の動作がスムーズにできることと運動のスタミナをつけることを目標にしてやってきた。ここにきて、だいぶ普通に動けるようになるという成果はあったが、むしろどのような部分の老化が進んでいるのかを知ることになったのが大きな進歩と感じている。

 

具体的には、足腰回りはかなりよくなったが、

腕・手・手指の老化がかなり進んでいたことに気がつかされた。それで最近は、腕・手・手指に力点を置いて運動するようにしている。

 

老化と言えば筋肉の痩せだと思う人が多いが、それを能動的に動かす脳と筋肉のつながりが切れてしまうのも老化。菊池先生は、認知症になるときくち体操は効果がないとおっしゃる。意識的に筋肉を動かすことができないからである。

 

有る部位の筋肉を強化する運動をしてもその強度が残るのは、この年齢ではせいぜい3日。友人から筋肉復活といっても筋肉は一気につくものではなく、一度には薄皮一枚つくだけと聞いた。

 

この半年に感じたことは、普段動かしていない部位、あるいは痩せてしまった部位を動かすと、リンパあるいは血液が集まり張りが出るが、筋肉ではない。これを継続するとなぜかその付近のすじや筋肉の軽い痛みが継続する。が、筋肉はついていない。やがてその痛みがなくなった頃、その部位が少々太くなり、筋肉がついたようだとわかる。

 

宇宙から帰還した宇宙飛行士は、毎日ハードなリハビリを3時間で3か月やれば復活するそうだが、この年ではケガをしないようにやることが肝要。

 

そういえば、この半年間で、両脚の膝の外側の筋肉に負荷を掛け過ぎ、二日間自宅に蟄居したことがあった。これはきくち体操の先生の指示通りやったら、そうなったので、以後その部位は軽くやることにしている。筋肉は痩せると萎縮して固まるもの。この件では、無理はできないことを痛感した。

 

また年を取ると頭に霞がかかるというが、慢性的貧血のようなことに脳がなっているのだろう。

これも実は、筋肉量の減少によって起きているものらしく、頭をはっきりさせるには、筋肉をつけねばならないという事も改めて意識させられた。

そしてそれに関連して心肺機能の低下も筋肉量の減少によって起きているものらしく、筋肉量を増やさないと心肺機能も改善しないことがわかった。

 

菊池和子先生は、過去何十年も人の老化例を無数に見てきており、半言隻句に意味があることが次第にわかるようになってきた。

特に私はお粗末に聞いているのかもしれないが、5つ指図されて3つしかできていないということがままあることがだんだんわかってきて汗顔の至り。

 

菊池和子先生の言うように意識して肉体を動かすというのは、大切であると思う。

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きくち体操考-3

2023-02-17 21:57:39 | 冥想の準備neo

◎きくち体操はすごい

(2022-09-27)

 

きくち体操を始めて1か月経過。諸事情であまりあからさまに書けない効果もあるが、中野ジェームズ修一氏流ストレッチや古神道の振魂、鳥船では伸び悩んでいたのが、めきめきと効果が出てきている。

 

1.頭がはっきりしてきた。

2.普通股で歩けるようになった。歩行スピードも速くなった。

3.腰をかがめる等の何気ない姿勢がより自然にできるようになった。

等々。

※きくち体操本を見ると無数の治癒例が載っています。

 

菊池和子先生曰く、老いるとは筋肉や血管が縮んで痩せていくこと。痩せ始めるとすごい勢いで筋肉が落ちていく。そうなると、歩けなくなったり、紙おむつになったりする。

 

菊池和子先生(87歳)は老人ホームにお住まいで、そうした人を多数見ており、同年配の人に「どうすれば治るでしょうね」と問われて、「どうですかね」などとはぐらかす由。言外に、きくち体操で治せるとしても相当に時間がかかったり、どうしようもないことを知っている雰囲気を感じさせられる。

 

だからレッスン中に「身体の動くうちに一生懸命やるのよ」という言葉になるのだろう。

 

だが、実際に彼女の「らくスクワット」の本を見ると、それこそ寝たきりになった人がどのようにきくち体操をやるかまで、身体が不自由になった人にまで、レベルを落としに落として、文字どおり老婆親切な方向性で教えてくれている。

 

それときくち体操の要諦は、ポーズと回数、ポーズの継続時間ではないということ。実際は、明らかにあるポーズを何秒以上やろうという意図は感じられるものの、根本思想は、手指、手首、足指、足首を意図的随意的に動かさないと筋肉ができてこないから、それを「脳を使いなさい、頭を使いなさい」としている部分。だから他人とおしゃべりしながらやったり音楽を聴きながらやったりしてはいけない。身体各部がちゃんと動けるようになるように、祈り、さわって、本気で慈しむことを求めている。

 

つまりポーズと回数は半分で、そうした気持ちの持ち方が半分なのだ。だからご本人がきくち体操50年やったわりにあまり広まらなかったのは、それが原因などとおっしゃっている。

 

だが、素直にそれをやれば、まだある程度身体が動くうちであれば、めざましく効果が出る場合があるのではないだろうか。

 

全体として、レッスンの中で動かなくなった身体の部分を自分で発見させ、自分で治させるというのがよい。

 

ただ、老化で一旦痩せて縮んだ筋肉を戻していくというのは、大変なこと。そのためには、それなりに本気で取り組むことは勿論のこと、当該の筋肉を日常生活の中で使って維持していくことで、はじめて戻った筋肉を使えるようになることをご自分の体験から説明している。(片足が動かなくなり感覚がなくなった時期に必死に足首回しをやったが、足を動かす感覚が戻らず筋肉も痩せていく一方だったが、実際に歩き出してから感覚も筋肉も戻った由)

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きくち体操考-2

2023-02-17 21:54:10 | 冥想の準備neo

◎老化と癒し、パーツと身体全体の調整

(2022-08-31)

 

きくち体操を始めてから1週間程度だが、明らかに何十年鍛えていなかった、ふくらはぎ裏、もも裏、足首回りの筋肉が痛いのと、手指の一部の血行がよくなっている感触がある。

 

菊池和子氏は、ひざ裏などを延ばすことに熱心であり、中野ジェームズ修一氏が筋肉は15秒過ぎてから自分で延びて来るとするのだが、きくち体操では、平気で1分くらい延ばさせたりもしている。

 

きくち体操は、時により足の指広げと握り・放しとマッサージと足首回しだけで15分以上かけたりするのだが、これが必ず毎回メニューの最初に入って来る。

 

椅子生活中心に変化した現代人が最も触らない部位は足裏であり、足裏・足指から鍛え始めるというのは、きくち体操の発見であり、オリジナルであるというのは、もっともなことであると思う。

 

冥想に関心を持ち始めるのは、大体が10代、20代の頃。一般に20代前半では老化ということは念頭にはないが、20代後半には、老化が始まる。

 

実際に老化が問題になってくるのは40代後半であって、それまで激重のカバンを持ち歩いていたのを、軽量なのに変えていくことは、自分でもそうだったし、他人でもよく見かけたシーンである。

 

駅前ヨーガ教室の中心メンバーは、せいぜい50代以前であり、きくち体操の主要対象は60代以上などと言われるのだが、60代以上は、整形外科や街の整体が中心なのだろう。整形外科や街の整体をおおまかに「他力」と呼び、きくち体操は、自ら「自力」と呼ぶ。冥想の準備として、20代の健常者向けの柔軟中心の片手間メニューと、老化が相当に進んだ60代以降向けでは自ずと体操メニューの力点は異なるべきである。

 

菊池和子氏の話のはしばしに、老人ホームで、身体が硬くなり相当に動かなくなった人の身体をどうにかしようとした体験が出てくる。たとえばブリッジも10cm20cm高以上は危なくてやらせられないなど。

 

中国では、戦後歴史的に食料も医師も人口比不足していて、太極拳を中心とした気功を国家的に進めることで対応してきたところがある。これは、「自力」の対応の一種。

 

癒しを冥想技法で、観想法や、エーテル体以下の技法でやる技術は確かにある。メディスンマンのそれや、白隠軟酥の法である。きくち体操では、手足の指先を起点として体操で刺激し、かつ「意識」して肉体運動をやらせ身体全体の調整を狙うところが、「他力」系のものとは異なる。

 

きくち体操のメニューには、「らくスクワット」というヒンズー・スクワットとは異なり、動かさない相撲の四股みたいなものがあるが、これなども筋力が弱った人向けの優しいメニューである。

 

きくち体操のメニューはこうした結構身体が硬くなって筋力が弱った人向けのものがそろっており、かつ彼女の老人向けの50年の指導経験が反映したものとなっている。

 

朝日新聞に“連載 「いっしょに! きくち体操」” https://www.asahi.com/relife/series/11032509

があり、これに29メニュー上がっていて大要はこれでわかるし、youtubeでも20本くらいメニューの断片を拾うことができる。だが実際のところは、各ポーズで、力まないとか、ここを伸ばしたままにするとか、どこを意識するとか、口伝の部分がある。

 

きくち体操体験談集が単行本に載っているが、慢性病や医者に匙を投げられた多種多様な病気が軽快している例が多数ある。彼女は、まず数か月の継続を求めている。

 

人口の三分の一が老人という人類未体験の環境である。そこにはこうしたオリジナルな技術が登場すべきなのだろうと思う。

 

それにしても崑崙山中の500歳の神仙はどんな体操で健康維持していたのだろう。

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きくち体操考-1

2023-02-17 21:50:33 | 冥想の準備neo

◎ハタ・ヨーガ以前の状況だがいろいろなトライもある

(2022-08-16)

 

きくち体操は、中高年、どちらかと言えば老人向きの体操。最近YouTubeできくち体操の動画を集め、早速全体の三分の二くらいやってみた。同時に『日めくりきくち体操』というのも購入し、全体のメニューも確認し、YouTubeに上がっていないポーズも確認している。

 

私は若い時から八段錦とか脚の屈伸とかスクワットなどは毎朝欠かさずやってきているのだが、60代になってどうも体操メニューが足りないという印象を持っていた。

 

そこで中野ジェームズ修一氏の『体が硬い人のための柔軟講座』(ストレッチ系)を買ってきてNHKの番組を録画で確認したが、すべてのメニューの半分もできないことがわかり、追加で『ものすごく体が硬い人のための柔軟講座』を買ってここ2,3年やってきている。

 

これは、最初の半年くらいは効果が出たもののその後はかばかしくなく、ネットで見つけた十種程度の歩行強化用メニュー(筋トレ系)を追加したところ足腰の筋肉はついてきたという効果は感じられるようにはなったが、何かとスムーズではない感じが残っている。

 

また古神道の振魂と天の鳥船を1年くらい前から始めたが、回数が少なかったのと、渾身で行っていなかったので、最近は下方三チャクラを意識して上下のバランスをとる狙いで、回数を増やし渾身でやることを意識して、それなりの効果が挙がっている。

 

これでもまだ不足感があり、お昼の情報番組や朝日新聞に掲載されている『きくち体操』に取り組んでみることにした。すると驚いたことに、平素その姿勢をやりたがらないことからできないポーズが結構あり、衝撃を受けると同時にそうしたポーズは数分程度やったそばから効果を感じて、これは相当なものであると思った。

 

白隠ではないが上下のバランスを崩したり、老いれば筋肉は一様に落ちる。『きくち体操』はネーミングがキャッチーではないが、手足の指先の血液の流れを感じ取るとか、指とか筋肉などの部位を自分でさわるとか、動かさずにポーズを固定したままにすることが多いとか、各部位の動きを意識するとか、エーテル体の動きも促進する注意点も散りばめられており、見かけ以上に効果があるように思う。それと開祖の菊池和子さんが「人の身体は千差万別」と強調しているのもよい。対策も千差万別。

 

思えば、このブログでも冥想の準備として

⑴ラジオ体操

⑵太極拳

⑶八段錦(太極拳の一種)

⑷ハタ・ヨーガ

 通常10種類程度のアサナで十分。

  屍アサナ、前屈、コブラ、魚、ねじり、弓、首立ち、スキなど。

⑸インディアン体操

 

などを挙げているが、基本的にせいぜい20代、30代までの基礎体力にあまり問題のない世代が柔軟性強化のためにやるものばかりであった。今自分が老化してきて筋肉も落ち柔軟性も以前とはくらべものにならないくらい落ちてきた段階を思えば、自ずと筋肉強化、柔軟性強化のメニューも変えたり増やしたりして行かなければならないと痛感している。

 

一日の正味の余暇が30分程度の生活を過去何十年続け、また休日に暇があれば読書やら資料探しを優先する生活をしていれば身体も硬くもなろう。

 

この話は、毎度LAVAとかTipnessとかアシュタンガに通っているような元気な人には無用の話だと思うが、老人向けの『ものすごく体が硬い人』のための体操メニューが意外に見つかりにくいということから、自分の現状と遍歴を紹介してみた。

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三位一体と西洋の二位一体

2023-02-17 03:27:36 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎海幸彦と山幸彦の予言

 

出口王仁三郎は、三位一体の三にはこだわっておらず、あくまで神人合一を目標とすることに揺るぎはない。

 

以下の文のとおり、キリスト教は太母なき実質二位一体だが、太母を認めれば三位一体の完成を見るだろうとしている。実際にカトリック教会は、1950年に聖母被昇天を認めた。

『ミロク三会

 

天のミロク、地のミロク、人のミロクと揃ふた時がミロク三会である。天からは大元霊たる主神が地に下り、地からは国祖国常立尊が地のミロクとして現はれ、人間は高い系統をもつて地上に肉体を現はし、至粋至純の霊魂を宿し、天のミロクと地のミロクの内流をうけて暗黒世界の光明となり、現、幽、神の三界を根本的に救済する暁、即ち日の出の御代、岩戸開きの聖代をさしてミロク三会の暁と云ふのである。要するに瑞霊の活動を暗示したものに外ならぬのである。天地人、又法身、報身、応身のミロク一度に現はれると云ふ意味である。法身は天に配し、報身は地に配し、応身は人に配するのである。昔から法身の阿弥陀に報身の釈迦、キリスト其他の聖者が現はれたけれ共、未だ自由豁達進退無碍の応身聖者が現はれなかつた。故に総ての教理に欠陥があり、実行が伴ひ得なかつたのである。ミロク三会の世は言心行一致の神の表はるる聖代を云ふのである。人間にとれば天は父であり、地は母であり、子は人である。

 

キリストは三位一体と説いて居るが、その三位一体は父と子と聖霊とを云ふて居る。聖霊なるものは決して独立したものでなく、天にも地にも人にも聖霊が主要部を占て居る、否聖霊其ものが天であり、地であり、父であり、母であり、子であり、人である。故に三位一体といつても其実は二位一体である。キリスト教には父と子はあつても母が無い。マホメツト教も亦其通りである。仏教は一切が無であつて、父も無ければ母もなく、唯人間あるのみと説いてゐる。なぜならば唯心の阿弥陀に己心の浄土と云つて居るでは無いか。今日までの既成宗教は総て父があつても母が無かつたり、母があつても父がなかつたり、変性男子があつても女子が無かつたり、不完全極まる教理であつた。天の時来つて真の三位一体即ちミロク三会を説く宇宙大本教が出現したのである。

 ああ惟神霊幸倍坐世。』

(水鏡/)出口王仁三郎から引用)

 

そして、神人合一を目指すことを述べる。

『元来宗教なるものは、仏教にもあれ、基督教にもあれ、人と神(仏と人、大我と小我)との融合一致に重きを置くものなり。即ち四諦観といひ、三位一体説といふも、其の意義に於て異ることあるなし。所謂天人合一を主とするに在るのみ。』

(出口王仁三郎全集 第2巻 第2章 宗教の害毒から引用)

 

このように出口王仁三郎は、三位一体を完成形と見ている。

※三位一体:天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産霊大神。

『真神である天之御中主大神が、その霊徳を完備具足したとき、天照皇大神という。また撞の大御神という。火の御祖神を高皇産霊大神と唱え、厳の御魂と申し奉る。水の御祖神を神皇産霊大神と唱え、瑞の御魂と申し奉る。以上の三神はそのご活動によって名称・働きに種々あれども、三位一体にして、天之御中主大神(大国常立命)に帰着する。故に独一真神である。一神即多神、多神即一神であり、短く「主」という。厳の御魂は霊界人の主であり、瑞の御魂は現界人の心身内を守り治める主である。』

(霊界物語 第17巻 霊の礎(三)から引用)

 

古事記において、天の安の川原で天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になって、伊都能売神になったが、これで三位一体は成った。

 

ところが時代は下って、海幸彦に代表される功利優先にして母性をないがしろにする、死を忌避するアポロン型の近代西欧文明が地球を席捲する時代となった。ここに山幸彦が一旦は人間以下ともされる竜宮にまで落ちて修行し大悟覚醒し直して、地上に上陸して神主主義の文明、至福千年、みろくの世を開くというプロットが古事記についている。

 

現代は、いろいろな宗教や文明が乱立しているが、最も強盛なのは、キリスト教をバックボーンにした死を忌避する、母性を二の次に置く近代西欧文明と言ってよいだろう、これが世界中が海幸彦のやり方に染まった姿。日本のシンボルである山幸彦は、辛苦の末に最終的に海幸彦を従わせることになる。

 

ここまでが古事記の上巻であり、出口王仁三郎は予言として実現すると言っている。

 

心理学者ユングはどうしても四位一体と唱えたいようだが、古神道では三位一体。無理に四に合わせることもないように思う。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-9

2023-02-16 06:45:47 | ダンテス・ダイジの風光

◎宇宙意識の感情的表現

 

冥想道手帳の続き

『【宇宙意識の感情的表現】

 

つぎに述べる情感が、君の中に響いていなければ、君の冥想修行が中途半端な状態であるか袋小路に迷いこんでいるといってよい。

 

安らかさ・喜び・さわやかさ・力強さ・解放感・清らかさ・充実感・深い悲しみ・なつかしさ・すべてを美しくいとしく感じる・やさしさ・楽しさ・ありがたさ・落着いた静けさ・その他あらゆる肯定的感情。

 

君が宇宙意識とふれ合う時、君は自己れんびんやセンチメンタルとは無縁の透明な涙を知るだろう。また、嘲笑や自虐性やこっけいさからのそれでない大いなる笑いやおおらかな微笑があふれ出すだろう。

そして君は知る、完全な沈黙や深くやすらかな静寂が何であったのかを。

 

形而上学や哲学や神学や教義イデオロギーの論義は、もういらない。君が、どんなに整然とそれらの論理的構造を理解したとしても、君がハッピーそのものでなければしかたがないんだから』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMO ダンティス・ダイジから引用)

 

宇宙意識(ニルヴァーナ)を神学的に究極の属性から説明した次には、感情的表現として肯定的な情感を並べ上げる。肯定的感情からも宇宙意識に入ることがある。それはクリシュナムルティの瞑想録などにも肯定的感情からニルヴァーナを兆すシーンがよくあるが、そういうものが例の一つでもある。

 

禅語録を読めば、大悟覚醒した際に、全身全霊がその感動で我慢できず、思わず師家にまで失礼千万な態度をとることがよく描かれているものである。ダンテス・ダイジの沖縄万松寺の隻手の公案シーンでもぶち抜けたシーンが描かれている。OSHOバグワンも爆発した。

 

またマントラ念唱から肯定的情感経由で入る道もある。

一休は、最初禅で極めたが、蓮如の弥陀の本願に抱き参らせるというふんわり優しい情感にころりと参り、念仏の信徒にもなった。

「襟巻の あたたかそうな 黒坊主 こやつが法は 天下一なり」 一休

と、蓮如を賛した。

 

また、

「極楽は十万億土と説くならば足腰立たぬ婆は行けまじ」 一休

と、極楽は遠すぎると皮肉ったところ、

「極楽は十万億土と説くなれど近道すれば南無のひと声」 蓮如

と返歌したという。もっとも禅は極楽を目指す宗教ではないが、極楽的な生き方となる宗教ではある(諸悪莫作衆善奉行=悪いことをしない、善いことをする)。

 

最初の大悟覚醒シーンには、感動的爆発が大体あるものだ。その一方でしみじみというのもある。

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暗夜から光へ-8

2023-02-15 18:28:59 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-5

(2006-09-04)

 

その後、バーナデット・ロバーツは、四人の子供の母親としての日常生活を継続することができなくなって、シエラ山の森林で雪が降るまでの5か月間キャンプをすることになった。家の中での雑事や雑音にはとても耐えられないし、絶えず起こる混乱に対処するための力が失われていたので、四人の子供の母としての役割を果たすことはできなくなっていた。

 

あらゆることを管理する自己がないので、肉体の条件反射だけで対処せざるを得ないが、それでは参ってしまうと感じ、長い間静寂を乱されずに自然に接することが必要だと考えたのである。

 

山の中での生活では、

『一言でいえば、今までただの一日もほんとうに生きたことはなかったと思ったほどでした。確かに私は「大いなる流れ」の中にいて、それと一つになっていました。そういう時によく言われるような、エクスタシーとか愛とか歓喜というような言葉が無意味になるほど、単純明瞭に一つになっていたのです。

 

森の生活には投げやりや怠慢の入る余地はなく、そこではすべてが鋭敏に感知され、はつらつとしています。しかし自由な生活というようなものではなく、「大いなる流れ」に引き込まれてすべてが流れて行き、少しでも流れの外に出て休んだりするひまはありません。つまり余計なものはただの一つもないのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P29から引用)

 

大徳寺の大燈国師が悟りを開いた後に、京都の鴨川の川原で何年も乞食をしていたが、これは、聖胎長養とよばれ、漠然と悟りという神秘体験を日常化・定着化するものだと理解していたが、この心境の流れを見ると、ものの見方が100%逆転してしまっているので、聖胎長養というものをしないと、とてもではないが、日常生活に適応していくことはできないので、そのための訓練という側面があるように感じる。勿論これは人間社会の側からの見方ではある。

 

また山に入って自然そのものの生活リズムに入り込むことが、逆転したものの見方をノーマルな形で調節していく機能があることがわかる。ここに修験道という、山での修行を本旨とした修行の存在意義、必要性というものが現れてくるように思う。バーナデット・ロバーツに限らず、神の側に取り込まれ始めた人が、山や野での生活に本能的に入って行くのは、このような背景を抱えてのことではないかと推察することができる。

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暗夜から光へ-7

2023-02-15 18:20:04 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-4

(2006-09-03)

 

『この10日ばかり後にビッグ・サーの修道院で静修をしました。その二日目の午後遅く、海を見下ろす丘に立っていた時、かもめが一羽風に乗って滑るように飛んできました。私はそれを生れて初めて見るように眺めました。まるで催眠術にかかったようで、かもめと私の区別がなく、私が飛んでいるのを見ているようでした。

 

しかし区別がないというだけではない何か、本当に美しく未知の何かがそこにありました。そののち私は修道院の後ろの松林の丘に目を転じましたが、やはり自他の区分がなく、一つ一つのものと風景全体をとおって、「何か」が流れていました。すべてのものが合わされた「一なること」を見るのは、まるで特殊な立体鏡をのぞいているようでした。

 

そこで私は、ああ神はどこにもいるというのは、このことなのだと思ったのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P26から引用)

 

カモメと私の区別のない体験は、荘周胡蝶の夢と同じである。荘周胡蝶の夢とは、荘周が夢の中で胡蝶と化して楽しく飛び回り、自分は胡蝶なのか荘周自身なのか、区別できなくなったという故事。自己というものがなくなりつつある過程の中で、神が自己の側に到来・浸透しつつある段階において、この状態が、起きていることに注目したい。荘周は、老荘の荘子のこと。

 

また自他の区別がない見方において、はじめて「神がどこにでもいる」ということを実証、納得するものだということがわかる。「神がどこにでもいる」は、ちょっと爽快で高揚した、しみじみとした気分の時には感ずることがあるものだが、ホンチャンの「神がどこにでもいる」実感は、このレベルで初めて出てくるものなのだろう。

 

そして、すべてのものが、本当に美しく未知で、初めて見る見知らぬものであるという印象。これぞ、自他と区別のない「見方」で特有の印象なのだと思う。この辺がバーナデット・ロバーツの体験が正統的なものであるという証左だと感じる。

 

蛇足だが、龍も天使も出て来ていないことにお気づきと思います。

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暗夜から光へ-6

2023-02-15 17:45:45 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-3

(2006-09-02)

 

彼女には四人の十代の子供がいた。

 

自分の内部に何もなくなった彼女は、次に外を探し求め、枝をつかんだり、土を手ですくったりして、自分の中には何もなくとも、あたりに生命があふれているので、これで良いのだと思った。

 

当時家の中にいると、あまりにも機械的で、索漠として耐えがたく、自分の力がないので、最小限の日常の仕事をするのがやっとの状態だった。そこで一週間丘や川岸や浜辺を歩き回り、戸外にあふれる生命を感じ、忘却と平安の中にいるようにした。

 

けれども、彼女の中に生命がないのと同様に、個々の松の木や野の花にも生命がないけれども、あたりは生命に満ちているという、つまり周囲の自然のどこかに生命があるだろうという予期の中にあった。

 

そして、絶壁の上にある糸杉の根の間で坐っていた時にバーナデット・ロバーツは、自然の秘密を見た。

 

『個々のものの中に神あるいは生命があるのではなく、逆にすべてが神の中にあるのです。それも海中の一滴というようにそこだけ取り出せるというものではなく、うまくいえませんがたとえばゴム風船の一点のように、そこだけを切り離せば破裂して全部なくなってしまうというようなものです。

 

何ものも神から切り離すことはできないので、別々であるという考え方を捨てさえすれば、神であり、生命でもある全体の中にすべてが戻っているのです。(中略)

 

以上の洞察で新しい扉が開け、私は物事を別の見方で見るようになり、生命を捜し回るのを止めました。生命は明らかにどこにもあり、実はそれしかないのです。(中略)

 

自己を捨てたのは、私でなく神でした。そして自己を超えてしまえば何もかも、私が残ると思っていた「それ」さえもなくなってしまうのです。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店から引用P24-25)

 

バーナデット・ロバーツは、最初に内に生命を求め、次に外に生命を捜すというあてのない試行錯誤に苦しんだ。その結果、すべてが神の中にあると知った。

 

ここで特徴的なことをいくつかあげると、彼女には特定のグル・師匠がいなかったこと。キリスト者でありながら、そのシンボルである「神の栄光の中にあるイエス」なんかを見なかったこと。この点で、毎日観想に明け暮れていたイグナティウス・ロヨラがキリストの人間性を内的な眼で見たりしたのとは相当に異なっている。彼女は観想はあまりせず、生活者だったからだと思う。日常生活を普通に営みながら神を求めていく人の、神に行き着く形の一つの典型はこのようなものなのだと思う。

 

自己を捨てたのは、私でなく神と述べているので、これは第三夜の特徴。

 

そして彼女は、知性は普通の常識的な考え方から出てくるものなので、本当の洞察を汚すような動きをするから、本当の洞察を知性で操作、評価しないことが大切と指摘する。

 

彼女の境地は更にこの後深まりを見せる。

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錬金術師マリア・プロフェティサの公理

2023-02-15 07:03:11 | 両性具有or天国と地獄の結婚

◎第四のものとして全一なるものの生じ来る

 

マリア・プロフェティサは、3世紀アレクサンドリアの錬金術師。『一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとして全一なるものの生じ来るなり』という錬金術1700年の歴史を貫く公理を呈示した女性。

 

この公理について見事に説明し得た文が以下にある。

『さらに、ユングが述べるのは、三位一体が男性的な数、三の象徴に基づいているのに対して、錬金術は神が四一性の(quaternarian) 観点 (四は女性的な数)に傾いているという事実です。続けて、次のような結論を述べます。

 

それゆえ、三位一体は決定的に男性的な神性であり、キリストの両性具有(アンドロギュノス)、そして、神の母に授けられた特別の地位と尊崇はその男性的神性に十分対等のものではない。

 

〔キリストやマリアの位置づけは〕いわば、女性的な側面へのわずかな譲歩であって、真実、同等のものとはなっていないということです。

 

このような断言を読者は奇妙に思うかもしれないが、これによって、錬金術の中心をなす公理の 一つに到達するのである。つまり、マリア・プロフェティサの命題にである。「一が二となり、二が三となる、第三のものから第四のものとして一なるものが生じる。」

本書は、書名からわかるように錬金術の心理学的意義が問題となっている。・・・・・・ごく最近まで、錬金術に学問的関心がもたれたのは、化学の歴史で果たした役割に対してでしかなかった。・・・・・・歴史上の化学の発展に対する、錬金術の意義は明白である。それにひきかえ、精神史上の意義は依然としてあまりにも知られておらず、その意義がどこに存するかをわずかな言葉で述べるのはほとんど不可能と思われる。

そのこともあって、この序文で、宗教的、心理学的問題の概説を試みたのである。······ポ イントは、錬金術が表層で支配的であったキリスト教に対する低層流のようなものを形成している、ということである。錬金術のこの表層との関係は夢の意識との関係に相当する。ちょうど、夢が意識の葛藤を補償するように、錬金術はキリスト教の対立物の緊張によって開かれたままになっている亀裂を埋めようと努める。

おそらく、この事態を表現するもっとも意味深長なものは、先に引用したマリア・プロフェティサの公理である。・・・・・・このアフォリズムにおいては、キリスト教教義の奇数のあいだに偶数がはさみこまれている。偶数は女性的なるもの(女性原理)、大地、地下的なるもの(地下領域)、〔それどころか〕悪そのものをも意味している。これらは「メルクリウスの蛇(セルペンス・メルクリー)」、つまり、自らを創造し、破壊する、「第一質料―プリママーテリア」をも表す龍として、人格化される・・・・・・・。

世界史上で、意識が「男性的な」側へと移行したことが補償されるのは、〔なによりも〕 無意識の地下的、女性的なるものによってである。キリスト教以前の諸宗教のなかには、すでに男性原理が父・息子の特殊化したかたちでの分化を開始していた宗教が存在する。』

(ユング思想と錬金術/M-L.フォン・フランツ/人文書院P47-49から引用)

(文中の引用部分は、ユングの心理学と錬金術ⅠのP40付近)

 

一は、主なる神。これがマーヤ、無明、現象に分化して二。父なる神と聖霊とイエス(男性なる人間)が出現して三。これで家父長的な三位一体は成る。

 

ここでマリア・プロフェティサは、キリストが脇腹から女を引き出して山頂で交わった幻視を得た(出典:錬金術の世界/ヨハンネス・ファブリキウス/青土社P343)というが、これが四。

 

M-L.フォン・フランツは、男性原理が父・息子の特殊化したかたちでの分化を開始していた宗教の例としてエジプトを挙げる。

 

我が日本神話では、天の安の河原での誓約で天照大神の霊と、素盞嗚尊の霊とが一緒になって両性具有たる伊都能売神となったのが、三位一体の外での四位一体の完成。これでも女性原理の復活はまだ不足だったのか、さらに山幸彦である火遠理命が地より更に下の竜宮にまで落ちて後、地に復帰して世界統一をするのが太母の体験を経て、四位一体を更に完成する姿にも見える。

 

似たようなモチーフが二重三重に繰り返されることがあって、はぐらかされがちだが、それでも真理を見ようとする目があれば、わかる場合があるのではないか。

 

なおユングは、キリスト教の四位一体を次のように示している。

       聖霊(鳩)

キリスト    +     父なる神

       聖母マリア

(出典:結合の神秘Ⅰ/ユング/人文書院 P237)

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預言者エリヤのクンダリーニ上昇

2023-02-14 16:45:37 | キリスト者の秘蹟neo

◎つむじ風

(2010-02-01)

 

預言者エリヤのクンダリーニ上昇の材料として旧約聖書テクストを見る。これによると、クンダリーニ上昇の叙述は簡潔であって、最初に火の車と火の馬があらわれて随伴者エリシャを隔て、つむじ風に乗ってエリヤを天に昇らせたというだけである。火はクンダリーニの火、馬が車を引くので馬と車はセットだが、車はチャクラ。昇る時はつむじ風のように迅速であり、らせんを巻いているという比喩だろうか。

 

この上昇の評価はこの事件を目撃した人間の力量によるが、釈迦の涅槃を目撃した人ほどの精密さはなかったのか、あるいは見るには見たが理解できなかったか、あるいは起きたことを見て理解もできたが、秘儀にあたるそれを描写するのは避けたか、これらのいずれかだろう。

 

これだけ簡潔な表現は、道教の白日昇天の記述に似た印象を受ける。余計なことは書かないということ。

 

またこの本文には、ヨルダン川の水を打って水面を二つに分けて、露出した地面を渡る超能力が披露されているが、これは本筋の話ではない。

 

旧約聖書列王紀下第2章

『2:1主がつむじ風をもってエリヤを天に上らせようとされた時、エリヤはエリシャと共にギルガルを出て行った。

2:2エリヤはエリシャに言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをベテルにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはベテルへ下った。

 

2:3ベテルにいる預言者のともがらが、エリシャのもとに出てきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。

2:4エリヤは彼に言った、「エリシャよ、どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをエリコにつかわされるのですから」。しかしエリシャは言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そして彼らはエリコへ行った。

 

2:5エリコにいた預言者のともがらが、エリシャのもとにきて彼に言った、「主がきょう、あなたの師事する主人をあなたから取られるのを知っていますか」。彼は言った、「はい、知っています。あなたがたは黙っていてください」。

2:6エリヤはまた彼に言った、「どうぞ、ここにとどまってください。主はわたしをヨルダンにつかわされるのですから」。しかし彼は言った、「主は生きておられます。またあなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そしてふたりは進んで行った。

 

2:7預言者のともがら五十人も行って、彼らにむかって、はるかに離れて立っていた。彼らふたりは、ヨルダンのほとりに立ったが、

2:8エリヤは外套を取り、それを巻いて水を打つと、水が左右に分れたので、ふたりはかわいた土の上を渡ることができた。

 

2:9彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。

 

2:10エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。

 

2:11彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。』【口語訳旧約聖書(1955年版)から引用】

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エノクは神に連れ去られた

2023-02-14 16:37:44 | 究極というものの可能性neo

◎さてその後は死ぬるばかりよ

 

古代ユダヤでは、どうもエリヤとエノクがクンダリーニ・ヨーガの奥義を体得した人物のようである。2人とも死んでいないとされるからである。

 

エノクは、ノアの曾祖父であって、旧約聖書創世記5章に、

『エノクは六十五歳になって、メトセラを生んだ。

エノクはメトセラを生んだ後、三百年、神とともに歩み、男子と女子を生んだ。

エノクの年は合わせて三百六十五歳であった。

エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。』

とあり、召命の後、死んではいない。

 

 

よの中はくうて糞して寝て起きて

さてその後は死ぬるばかりよ 一休 

 

このデリカシーのなさ。

けれども“死ぬるばかり“になりきらぬと、死の本性が見えてこないのであって、前半の” くうて糞して寝て起きて“ばかりに気を取られると、生き地獄から抜け出せないままに終わる。

 

幸運にも抜け出したのが、エノク。

 

エノクはこの世の初めから終わりまでを語り聞かせ、予言したというが、これは、悟った人はそういうのをなぜか語りたがるものだ。

 

エノクの生きた超古代には、文化、時代の風光、言葉、流行語などあらゆるものが今とは違っていたのだろうが、時代を超えたものだけが、あるいは今の時代に通用するものだけが、聖書外典などで伝承されてきたと思って間違いないのだろうと思う。

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達磨の利根、鈍根

2023-02-14 16:00:20 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎師の教えにしたがって悟るのは鈍根

(2017-12-01)

 

達磨の語録に、『師の教えに頼らず、事上に法を見る人は、利根とよばれる。師の教えにしたがって答えを得るものは鈍根とよばれる』というのがある。

 

釈迦は、鞭の影を感じて走る馬は上根とし、鞭で叩かれないと走らない馬は下根とする。

 

特に禅では、境涯が師匠を超えない場合、師匠の咎とされるという側面もあるので、師匠の指導どおりで悟ったのは鈍根なのだろう。

 

また達磨は古典によって悟った人は力が弱く、日常の事に即して悟りをつかむ人はどこにでも法を失わないとする。

 

このことは、高さだけでは、現実のより深刻なイベントに対処できないので、禅堂を出ていろいろ経験しなさいという聖胎長養の必要性にまで言及している。

 

特定の師匠につかず闇雲に坐りながら、世間で働き続ける修行スタイルは、江戸時代の至道無難。彼は関ケ原の宿屋の親爺として働きながら修行したが、何か月も高名な師匠のところに行ったきりというのが何回かあったらしいので、関ヶ原に閉じこもっていたわけではないようだ。現代でも冥想フリークはそんな生き方をする人がいる。

 

達磨は、師匠の言いつけどおりでないほうが良いとか、古典で悟りを学ぶのは弱いとか言うが、実際のところそれを実行するのもそんな簡単なことではない。利根、鈍根は自分では選べないところがある。

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