◎正受慧端の団扇バトル
(2005-07-29)
江戸時代のまだ関が原の合戦の硝煙の匂いも消え去らぬ頃に出た至道無難、その後継者たる正受慧端、白隠と3代続けて実のある禅者が出ている。現代においても、丹田禅で目を開いた人が出ているのはこの3代によるところが大きいのではなかろうか。
ある日、20年の修行により、各流派の奥義を極めた一人の剣術家がやってきて、剣術の奥義を問うてきたところ、正受慧端は、この剣術家を、拳で三回打ちすえ、さらに一踏みに踏み倒してしまった。
これを聞いた長野飯山の郷党の武士が、「先生は、法においては、すぐれているだろうが、剣術においては、先生は私どもには及ぶまい」と言い、剣術の試合を申し入れた。
正受慧端「お前らが私を打とうと思うなら、勝手に打って来なさい。ただし恐らく打ちこめないだろう。」
武士たちは、互いに顧みて、「先生を打つことはむずかしいものか。先生、試みに刀を使うことをお許しになりますか。」
正受「許す。」
武士たち「どうか先生も刀をお取り下さい。」
正受「私は仏弟子だ。どうして刀などを用いるものか。このままでよい。」と小さな団扇を持って、「試しに打ってみよ、もしわずかでも打てたら、お前は妙手だと認めてあげよう。」
武士は、声をあげて立ち向かい、千変万化してその技を尽くしますが、木刀の触れるのは団扇だけです。ついに正受を打つことはできず、一同は無礼を謝して帰りました。
後に白隠が正受に、この秘訣を訊いたが「正しい眼力が明らかならば、どうして剣術だけにとどまるものか。お前はわずかに言葉を聞いただけで、すぐ思い違いをする。もし剣の来る道がはっきりわかれば、来る途中で打ち落とせるものだ。もしそれができれば、万に一つも心配することはない。」
《出典:日本の禅語録/無難・正受P31-32》
白隠は、この話を聞いて、仏法と剣術は別のものであると思い込んでいたが、正受慧端は、仏法も剣術も奥義は同じであることを諭している。
丹田禅においては、気の源泉たるスワジスターナ・チャクラを鍛えていくことになり、大安心を得ていく。丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕というのは、気を自由自在に使える超能力の発現につながっていくだろうことは想定されるので、丹田禅を極めた正受慧端が、団扇で木刀を翻弄することに、何の不思議もないように思う。
明治の剣客山岡鉄舟もこのような剣を使うという話を読んだことがあるが、団扇で応対した話ではなかった。
合気道の創始者植芝盛平は、立ち会いに際して、剣の切っ先がくる前に白い光が来るので、それを避ければ剣を避けることができ、また弾丸の来る前に白い光が来るので、それを避ければ、弾丸も避けることができると言い、そのエピソードも残っている。
植芝盛平は、大正8年36歳の時、一家を上げて、大本教の本拠たる綾部に移住し、大クンダリーニ・ヨーギ出口王仁三郎師の厚遇をうけ、鎮魂帰神、その他の幽斎修行、顕斎修行につとめ、同師の勧めにより、道場を開設したとのことで、合気道の出所は、クンダリーニ・ヨーガの技術のようだ。というのは、植芝盛平も「気の妙用」だと言っているので、スワジスターナ・チャクラに関連する「気」を用いた技であることを十分に承知していたように思われるからである。
ただ植芝盛平は、鎮魂帰神によってすべてが分かると述べ、クンダリーニ・ヨーガでその境地を極めたのに対し、正受慧端は、丹田禅でそれを極めた。一つの頂きにも登山路が複数あるわけだ。