アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

正受慧端-1

2023-04-26 15:44:00 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎正受慧端の団扇バトル

(2005-07-29)

 

江戸時代のまだ関が原の合戦の硝煙の匂いも消え去らぬ頃に出た至道無難、その後継者たる正受慧端、白隠と3代続けて実のある禅者が出ている。現代においても、丹田禅で目を開いた人が出ているのはこの3代によるところが大きいのではなかろうか。

 

ある日、20年の修行により、各流派の奥義を極めた一人の剣術家がやってきて、剣術の奥義を問うてきたところ、正受慧端は、この剣術家を、拳で三回打ちすえ、さらに一踏みに踏み倒してしまった。

 

これを聞いた長野飯山の郷党の武士が、「先生は、法においては、すぐれているだろうが、剣術においては、先生は私どもには及ぶまい」と言い、剣術の試合を申し入れた。

正受慧端「お前らが私を打とうと思うなら、勝手に打って来なさい。ただし恐らく打ちこめないだろう。」

 

武士たちは、互いに顧みて、「先生を打つことはむずかしいものか。先生、試みに刀を使うことをお許しになりますか。」

正受「許す。」

武士たち「どうか先生も刀をお取り下さい。」

正受「私は仏弟子だ。どうして刀などを用いるものか。このままでよい。」と小さな団扇を持って、「試しに打ってみよ、もしわずかでも打てたら、お前は妙手だと認めてあげよう。」

 

武士は、声をあげて立ち向かい、千変万化してその技を尽くしますが、木刀の触れるのは団扇だけです。ついに正受を打つことはできず、一同は無礼を謝して帰りました。

 

後に白隠が正受に、この秘訣を訊いたが「正しい眼力が明らかならば、どうして剣術だけにとどまるものか。お前はわずかに言葉を聞いただけで、すぐ思い違いをする。もし剣の来る道がはっきりわかれば、来る途中で打ち落とせるものだ。もしそれができれば、万に一つも心配することはない。」

《出典:日本の禅語録/無難・正受P31-32》

 

白隠は、この話を聞いて、仏法と剣術は別のものであると思い込んでいたが、正受慧端は、仏法も剣術も奥義は同じであることを諭している。

 

丹田禅においては、気の源泉たるスワジスターナ・チャクラを鍛えていくことになり、大安心を得ていく。丹田(スワジスターナ・チャクラ)の開顕というのは、気を自由自在に使える超能力の発現につながっていくだろうことは想定されるので、丹田禅を極めた正受慧端が、団扇で木刀を翻弄することに、何の不思議もないように思う。

 

明治の剣客山岡鉄舟もこのような剣を使うという話を読んだことがあるが、団扇で応対した話ではなかった。

 

合気道の創始者植芝盛平は、立ち会いに際して、剣の切っ先がくる前に白い光が来るので、それを避ければ剣を避けることができ、また弾丸の来る前に白い光が来るので、それを避ければ、弾丸も避けることができると言い、そのエピソードも残っている。

 

植芝盛平は、大正8年36歳の時、一家を上げて、大本教の本拠たる綾部に移住し、大クンダリーニ・ヨーギ出口王仁三郎師の厚遇をうけ、鎮魂帰神、その他の幽斎修行、顕斎修行につとめ、同師の勧めにより、道場を開設したとのことで、合気道の出所は、クンダリーニ・ヨーガの技術のようだ。というのは、植芝盛平も「気の妙用」だと言っているので、スワジスターナ・チャクラに関連する「気」を用いた技であることを十分に承知していたように思われるからである。

 

ただ植芝盛平は、鎮魂帰神によってすべてが分かると述べ、クンダリーニ・ヨーガでその境地を極めたのに対し、正受慧端は、丹田禅でそれを極めた。一つの頂きにも登山路が複数あるわけだ。

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吉凶禍福、占いの予言と結果

2023-04-26 06:29:36 | 吉凶禍福、占い、癒し

◎外面的に恵まれていること、内面的に恵まれていること

 

これは、至道無難の自性記に出ている話。

 

『ある人が罰について訊ねた。

 答へて云ふ。 過去と現在の罰がある。 一般に、人はあるひは死ぬと か、あるひは子孫が絶えるとか、あるひは身体を失ひ、あるひは祿を失ふのを罰といふ。それも尤もだが、常に願ふことが叶はず、何や彼やが思はくと違 ふといふのは、特に目には見えないながら苦しむ。

これが人知れぬ罰。』

《日本の禅語録/無難・正受p169-170から引用》

 

世間では、漠然とバチが当たるという。

さて上の文では、表に現れる罰と、蔭に隠れた人に知られぬ罰があるという。表に現れるのは外面的なものだが、蔭に隠れたものは内面的なものであって、実は本人にとっては大きな影響を与えている。この辺がうつ病の生涯有病率が15人に一人とか言われていることや、癒し・セラピー・占いの大流行につながっているように思う。

 

さて世の中には、霊感も含めていろいろな占いがある。四柱推命、紫微斗数、西洋占星術・ホロスコープ、人相、手相、易占、タロット・カード、オラクル・カード、ルノルマン・カード、風水、気学、地相、家相、墓相、数秘術・・・・。こうしたもので吉凶禍福を予言する。

 

そこで、こうした技法は、表に現れる吉凶禍福と、蔭に隠れた人に知られぬ吉凶禍福を両方占断できているのだろうか。人間は表も蔭(裏)もそろって一人の人間。外面は内面に影響を与え、内面もまた外面に影響を与える。

 

その成功・願望成就の歓喜はいつまでも続くのだろうか、またその失望・絶望・苦悩はいつ止むのだろうか。その繰り返しに愛想が尽きはしないのだろうか。

 

現代人はその発達した知性で、自分の欲望を極限まで拡大し、拡大に成功し続ける限り欲望の拡大は終わらないが、英雄の夢はいつか破れる。

 

ところで、出口王仁三郎は、神は罰を当てないが、人は罰を当てるから気をつけよという。これは別の話だが、人一人のできることはたかが知れているので、それも気にしなければならない。人は自分で髪の毛一本白くも黒くもできないのだ(イエス)。

 

願望成就というが、まずは謙虚、謙譲であって、マインドコントロールを避けて無駄な余計な願望を起こさせないようにし、そうであれば、本源的な願望しか残らないのではないか。人には人間として生まれて来た理由、本源的な願望はあるものだ。

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至道無難-5

2023-04-25 19:55:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎冥想教育の可能性

(2005-07-30)

 

次の時代は学校で冥想教育をする時代だが、そのあり方を感じさせる一文がある。

小学校から、15歳くらいまでの間に、見性させるくらいの冥想カリキュラムが自然な姿かもしれない。

 

『ある子供で頭の良いのが、仏はいかなるものかと問うたので、そこで坐禅をさせると、何の心もなくなった。それを常に守れば良しと教へ、さて程経ていろいろになった心を訊ねたら、納得して去った。

 

男女に限らず、まず本性を悟らせて、それから坐禅させると良い。本性の悟りが十分にできたとき、万事に対応することを教へよ。

 

悟ったと同時にそれを守らせよ。悪念が生まれることが無い。年久しくこの心を養えば、道人となるのである。

 

悟ったと同時に、万事は是だと教へると、大方悪人になるものだ。悟りばかりを守る人は、大方坐禅に取りついて、律宗になるものだ。大道を早く教へて悪いのと、その人に依って異なる。よくよく心得て教へよ。誤ってはならぬ。』

(龍沢寺所蔵法語/日本の禅語録/無難・正受 P191-192から引用)

 

※律宗:仏教13宗の一つ。戒律の実践を成仏の因とする。本山は唐招提寺。

 

子供に幼少から冥想をさせると、思春期には見性するということを聞いたことがある。

この「あたまの良い子」は、すっと見性した。そこで、見性を守らせ、見性が十分に深まるのを待った。そこで、万事にどう対応するかを聞いたら、心得て去ったのである。

 

至道無難は、まず見性し、その見性を深めるために、坐禅させると良いと言う。見性で見つけた牛は、簡単に逃げるもののようなので、見性したと同時にその状態を守らせることが大事なのだとする。

 

「悟ったと同時に、万事は、これだと教えると、大方悪人になるものだ。」とは、見性した時の感動は、全身心で手の舞、足の踏むところを知らずといったものだから、それを得て高ぶったところに、「あなたは、仏の境地を知ったのだから、その正しい境地から行動しさえすればよいのだ」などと師匠がアドバイスした途端に、「私は、仏そのものなのだから、何をしてもいいんだ」と思って、以後勝手放題に行動して、悪人となる消息も想像される。

 

よくカルトの教祖が、悪人になってしまうことがあるが、カルトの教祖でも見性体験があって、そこで、このようなヒントやアドバイスをもらって悪人となる例もあるのではないだろうか。

 

次の2首で、見性したくらいでは、その行動はすべて善となるわけではないことが戒められている。同様にスピリチュアル体験しただけでは、その行動がすべて善になるわけではないので、よくよく気をつけないと。

 

やがては人の師になろうとする人に

無一物になった時には何事も罪にならぬと思ふ悲しさ。

(無一物になりぬるときに 何事も とかにならぬと見るそ かなしき)

 

ある法師に

悟ったからと言っても、自分で心を縛ったら、その束縛の解けないうちは凡夫なのだよ。

(さとりても 身より心をしはりなは とけさるうちは ほんふなりけり)

 

※(2023-4-25)

至道無難は、何よりもまず自分自身の悪を除去することが大切と説いた。悪の不在を目指す。

OSHOバグワンは、善とは悪の不在のことだとする。

○○することが善であると教えても、実際にそのTPOでそれが善であるかどうかわからないことの方が実際の場では多いのかもしれない。それで、至道無難はまず悪を除去せよといい、OSHOバグワンは、悪の不在が善だと唱えるのだろう。

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至道無難-4

2023-04-25 17:10:26 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の悟境

(2005-07-28)

 

 生死即涅槃

 生死もしらぬところになをつけて

 ねはんといふも いふはかりなり

(生も死も、わからぬものに名をつけただけで、

 涅槃というのはそういうだけのもの) 

 

涅槃(ニルヴァーナ)を直接見た者であって初めて、涅槃とは言葉では表現できないものに対して、仮そめに名をつけたものであるというものであることを確認できる。この言葉があることにより、至道無難が涅槃(ニルヴァーナ、宇宙意識、タオ)を知っていることがわかる。

 

 

 仏道はありがたしといふ人に

 ものごとに心とむなととくのりの

  法にこころをとむるひとかな

(仏道はありがたいという人に対して、

ものごとに執着するなと説く仏道の

その法に執着するとはおかしい人だな)

 

 あらゆるものが、仏道の現れであることを知る体験が、仏道の側から起きれば、仏道は確かにありがたいことを知るが。その体験なしにただ「仏道はありがたい」と唱えても、その「仏道はありがたい」という執着すらも捨てないと、仏道の正体にはたどりつけないということだと思う。

 

 強いて仏になろうと願う人に

 さかさまにあびじごくへは 落つるとも

 仏になるとさらにおもふな

(何とか仏になろうとする人に対して、

たとい逆しまに阿鼻地獄へ落ちようとも

 仏に成ろうなど決して思いなさるなよ)

 

仏というものは、自分を離れてはないのであって、本当の自分ではない「仏」という、よそのものに間違ってもなろうとしてはいけない。

 

最初の一首は、仏そのものの実感を言い、後の二首は、修行者向けの警句である。

ちゃんと本当のものを知っている人がいて、それを見抜く目を持った周りの人がそれを伝えて、臨済宗の法灯が伝わっていく。臨済宗でなくとも、神道などでも、このようにして、過去連綿としてそれを伝えてきたはずだけど、今の時代に、その生きた真理そのものを持っている人がどの程度残っているのだろうか。文明の衰退とはそんな人が少ないことを言うのだと思う。

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至道無難-3

2023-04-25 17:06:02 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎一生ずっと坐禅、一度だけ坐禅

(2005-07-27)

 

『伊勢の国に一生坐禅して死んだ人がある。その人自身のために貴いことだ。かつその人自身坐禅して死んだのはよいことだ。もし病気で苦しむようになれば、坐禅できるかどうか覚束ない。

 

我が師愚堂国師は、一度の坐禅も、これが一生涯一度の坐禅、と思ってやれとおっしゃった。有りがたいことだ。』《至道無難/自性記》

 

坐禅して死んだとは、メンタル体で肉体から出たことを言っているようです。

 

人生一回きりなんだから、死んで天国に行ったらいい目を見れるから、今善行を積みましょうなどという宣伝には乗れないですよね。その理屈は、まずこの人生の可能性を捨てて、死後の生に賭けろと言っているわけですから、どこか欺瞞の雰囲気があるように思います。

 

輪廻転生とか前世があるではないかという反論もあろうかと思いますが、輪廻転生も前世も、いわゆる大悟は、それらを問題にはしていません。

 

また積善は、積善という行為を通じて、自我というものをなくして行こうとする行為であって、決して来世での恵まれた生活のための打算的行為であってはならないと思います。

 

一日の生活もこれが一生涯最期の一日としてやれということでしょうが、そこまで追い込んでも、成道できるかどうかは別の問題。ただ自分をそこまで追い込んでいくほどの情熱がなければ、そういうチャンスも訪れないでしょう。

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至道無難-2

2023-04-25 16:58:04 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の無私

(2005-07-26)

 

『鎌倉での話。ある金持ちの老人が無難を尊崇して、庵を作って住まわせ、常に敬ひ事(つか)えていました。しばらくして老人の家の女が懐妊しましたので、いろいろに責め問いただすと、和尚が忍び忍びに通われた結果だと答えました。

 

老人は憤って、今まで貴く思っていたのに、とんでもないことだ、早々に庵を出て、何処へでも行きなさいと罵ります。禅師は一言もいわず出て、雪の下あたりの親しい者の所へ行きましたが、この人も禅師の信者で、空いている寺を世話して食事などを運びました。

やがて例の女は、実は誰それと通じて孕んだので、和尚とはお話をしたことも無いと白状しました。

 

老人は驚いて雪の下へ駆けつけ、涙ながらにお詫びすると、禅師はにこにこ笑っただけでした。そして老人の請いに応じて、再び元の庵に戻ったという話です。』

《日本の禅語録/無難・正受 P18-19から引用》

 

懇意にしている人から、根拠のない言いがかりをつけられて、それに反論もせず相手のいいなりになってあげる。

 

これは、世間から見れば、極端に人の良い人ということになる。こういった人の良い人というのは、多重債務者と並んで、マルチ商法や違法金融やリフォーム詐欺などの標的になりやすく、「優良顧客リスト」に載って名前が出回り、複数の業者から狙われるようなことが知られて、昨今問題になっているほどである。

 

このように、悪辣な手合いが多い現代では、禅師のように自己防衛機能が低い人間は、むしろ生き抜くのが極めてむずかしいとも考えられるのである。十牛図の入鄽垂手などを見る限りでは、覚者が陋巷(ちまた)で生きるのは、気楽なものと感じられやすいが、覚者がそのまま現代で生きるのは、至道無難のような人ですら至難と思われる。相手の悪意や誤解の如何によらず、財産や金をむしりとられるがままにされているはずだからである。それが衆善奉行、諸悪莫作の道なのである。

 

従って、このように覚者がまともに生きるのを許さない現代社会は、誠にもって邪境とか、クレイジー・ワールドと呼ぶしかない社会であるということになる。これも現代文明が危機であり、破綻に瀕している証拠の一つである。文明の華は、芸術ではなく、実はそういった聖者が出ることであるから、華を認めない文明が、いつまでも存続できるものなのだろうか。

 

またこの話は、昔ながらの「聖者は、人格的にできている」という教訓話とも読まれることもあろうが、どうかと思う。

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至道無難-1

2023-04-25 16:29:09 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎至道無難の愛と大安心

(2005-07-25)

 

至道無難禅師は、慶長8年(1603)に、関が原の三輪家の長男として生まれた。臨済禅の灯火を伝えた重要な人物である。

 

『ある日至道無難禅師が懇意な商家に行くと、折節その家が大がかりな掃除中で散らかしてあり、空いている一間に主人と話していました。

そこに別の商家の使いが来て、紙に包んだ金を渡して帰りました。

長らく話をして、禅師が去った後、主人は金のことを思い出して、懐や、たもとなど探したが見つかりません。しかたなく禅師の許へ行き、もし何かの間違いで持ち帰られたのではないか、と訊ねると、禅師はそれだけの金を取り出して主人に与えました。

 

数日後に主人は、例の一間の鴨居の塵を払っていると、紙包みの金が落ちて来ました。主人は驚き、禅師のところへ走り、金を返して詫びると、禅師は何事もなかったように、それは思い違いをなさったのでしょうと、無心にその金を受け取ったのでした。』

《日本の禅語録/無難・正受p18から引用》

 

事実とは相違する言いがかりをつけられ、事実とは異なるのに、その言いがかりを認め、弁償までしてやった話である。

 

これは、単純に善行を行い、悪行をしないという「道徳的姿勢」では対応できないシチュエーションである。これは、功利的な「目には目を」的な発想からすれば、とんでもない話であるが、「自分がどうなろうと自分の知ったことではない」という姿勢が骨身に徹していないと、身に覚えの無い罪をかぶせられて、躊躇せず金を渡してやることなどできることではない。

 

そして、「自分がどうなろうと自分の知ったことではない」という姿勢は、利己的なものがないだけでなく、自分も他人も同じ仏のあらわれであるという窮極のところを承知していないと出てくる姿勢ではない。それは、仏があなたや私として現れているということであり、仏(神、ニルヴァーナ)の一つの属性である「愛(大慈大悲)」(アナハタ・チャクラ)と「大安心」(スワジスターナ・チャクラ)の働きとしても見える。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-20

2023-04-25 06:35:06 | ダンテス・ダイジの風光

◎時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に

 

地水火風、特殊冥想ときて、ようやくすべてに共通する要素である空冥想を語る。

 

『空・冥想自在

 

生きることなく生き

死ぬことなく死ぬ

雨の一しづくに涙を流し

火の中に安楽に坐る

海のようにすべてを飲み込み

一服のマリファナに大喜びではしゃぐ

この世とあの世の何もかもが

本当の私の身体だ

冥王星の売春婦が

赤ん坊を産む時の苦しみが私だ

苦しみのない寂静それ自体が私だ

 

冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。

時間も空間も現象もない君が、時間と空間 と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。

 

言うそばから嘘になってしまう、かつて一度たりとも何かが語られたことはない。そして嘘という真実。

 

愛する二人に

言葉はいらない

 

二元論に非ず、一元論に非ず、不二一元論に非ず、悟りに非ず、迷いに非ず、決して語ってはならない、君の恋心を。

 

夢、語るとはするな

汝が恋を

語るにも語るすべなき

恋なれば』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

『生きることなく生き 死ぬことなく死ぬ』と、生死を越えている。

 

『雨の一しづくに涙を流し』は、出口王仁三郎の高熊山での一週間の断食絶水修行で顔に落ちてきた一滴の露に涙を流したことを思わせる。

 

『火の中に安楽に坐る』は、最乗寺の慧春尼が、薪を積み上げて燃やした上に自ら平然と坐り、兄の了庵が、「慧春、熱いか、熱いか」と問うと「冷熱は生道人の知るところにあらず」と答えた故事を思わせる。

 

『この世とあの世の何もかもが 本当の私の身体だ』とは、第六身体アートマンの謂い。その立場で、『冥王星の売春婦が

赤ん坊を産む時の苦しみが私だ

苦しみのない寂静それ自体が私だ』と、苦しみのあることも苦しみもないことも二つながら私だと語る。これはOSHOバグワンの、天国と地獄は自分に付いているものだという表現に近い。

 

そしてさらに一見謎めいた言葉が続く。『冥想自在とは出入自在のことである。君は あらゆる宇宙を自由自在に出入する。』

これは、第七身体ニルヴァーナに到達して初めて、第六身体以下のすべての世界に出入自在となることを言っていると思う。

 

世間では、とかく下位互換があたりまえになっているから、例えば第四身体(メンタル体)を使えるようになれば、それ以下のアストラル体、エーテル体、肉体が使えるようになるのではないかと推測しがちだが、そうではないようだ。下位互換が成立するのは、ニルヴァーナに至ってからである(OSHOバグワン)。また自由な力には定力が必要。

 

『時間も空間も現象もない君が、時間と空間と現象の中に、あらゆる物語を戯れている。それと同時に、君は君にしかできない生き方で生き切り、そして死んでゆく。』

 

この一節は、自家撞着だが、アートマンとニルヴァーナとの関係のない関係を語る場合には、常にこういう言い方になるものだ。

この『空・冥想自在』節の立場は、見神見仏見性が前提ではなく、究極の悟りニルヴァーナが前提になっている。

 

これで語るべきことはすべて尽くされ、続いてアートマンなる世界全体とニルヴァーナを韻文で歌いあげる。

言葉で語れるものは真実ではないが、嘘という真実。それすらも肯定的に叙述するのが、タントリズムということなのだろう。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-19

2023-04-24 06:52:26 | ダンテス・ダイジの風光

◎ドラッグやセックス、君の大好きな何かをやり通す冥想

 

『風・特殊冥想

 

ドラッグやセックスから入る冥想である。

あるいは、君の大好きな何かをやり通す冥想。

特殊と名づけたがこの道にふさわしい魂にとっては決して特別なものではない。

いづれにせよ、自我欲の不安からくる快楽

のためのものではない。

 

君は、ドラッグとかセックスとかの余りに人間的な逃避的な営みを越えて、人間を越えた無限にジャンプ・アウトして再び余りに人間的な世界にもどってきて天命を生きるのだ。

 

この道には、清く正しい日々の生活訓練が絶対に必要であることを忘れないように。

ミイラ取りがミイラにならないことを祈る。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

まず清く正しい日々の生活ペースが確固としてある。そこで特殊冥想。ドラッグの側(ソーマ・ヨーガ)の代表は、カルロス・カスタネダのシリーズにほぼすべてが尽くされている。

 

セックスの側の代表といえる著作はないが、ダンテス・ダイジやOSHOバグワンの断片的な記述を見ると、二者は全く別の冥想法を説いている。平たく言えば、ダンテス・ダイジは、不倫関係ではセックス冥想(カーマ・ヨーガ)は成立しないとしているが、OSHOバグワンは、不倫・フリーセックスでもよいとしている。

またOSHOバグワンは、谷オルガズムというものを出してきているが、ダンテス・ダイジの言うところのカーマ・ヨーガとは異なる。

 

過去、中国房中術書や、カーマスートラなども読んでみたが、あまりはかばかしいものはなかった。

 

ただダンテス・ダイジ座談で、釈迦はカーマ・ヨーガにトライするチャンスがあったが、あまりの困難さにトライを避けたという話が出てくる(出典は不明)。

 

ソーマ・ヨーガでは、ティモシー・リアリーや、オルダス・ハックスレーなどが、いろいろドラッグの効果を称揚したりはしているが、ソーマによる求道という点では、徹底していない。その点では、古代イラン・インド時代のソーマ讃歌の方がちゃんとしている。また欧米では、ラリった者の文学もあるが、出来栄えは感心できない。

 

ラリった者の音楽もビー○○ズ以来多数あるのだろうが、求道につながっているかどうかは別の問題である。

 

さらにドラッグやセックスが基調の生活となれば、生業も家事も冥想も行わず、快感、感覚刺激を求める日がな寝ころぶのが中心の阿片ジャンキーみたいな生活になる可能性もある。それをミイラ取りがミイラになると戒める。人間から動物レベルに落ちるのだ。

 

『君の大好きな何かをやり通す冥想』といえば、事上磨錬ということになる。これは元は王陽明の用語だが、現代では毎日の仕事を一生懸命に精密にやることで開悟することを求めるもの。一生懸命に「精密」にやるのだ。そこでは、健全な日常生活を送る中で、それが何の確固たる基盤もなかったという隙間を感得する道でもあるのだろう。一行専心である。ニルヴァーナを求める手法としては、世間的にはこの道は迂遠に見えるし、容易なものではないのだろう。

 

また仕事以外に、ゲームとかギャンブルとかアビトラージとか相場や楽して簡単に金が儲かる利殖に打ち込む冥想もあるのだろうが、精神を病んだり破産したり家庭が崩壊したりなど、いくらでも隘路は用意されているものだ。だからこのカテゴリーは特殊冥想なのだ。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-18

2023-04-23 06:28:46 | ダンテス・ダイジの風光

◎神の絶対なる愛と自由に立って、霊界イメージをコントロール

 

『水大・神霊道

 

神の絶対なる愛と自由に立って、霊界イメージをコントロールするのである。

あらゆる神通力・超常現象は、この神霊道――密教の中にある。

 

霊力・神通力という支配欲のトリックにだ まされるなかれ。神の愛に立っていない霊力は、はかない人間の悪あがきの一つにすぎない。

 

君が一瞬にして太陽系を消滅させるほどの霊力を持っていたとしても、神を知らなければ、空虚なままの君に変りはないのだ。

 

この世とかの世の宇宙の一切は、愛の実現としてしかありえない。

 

釈迦が遠い昔に

神通力を得たという。

だが、その釈迦は

今どこにいるんだい。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

神霊道、密教とは、神通力・超常現象、超能力を駆使して、人間を助けて行こうとするもの。古神道、ユダヤ教、道教内丹、日本密教、チベット密教、西洋魔術、クンダリーニ・ヨーガ等々を指す。

 

こうした宗派の書物には、大規模に超能力を駆使する話がしばしば登場してきて、地道に日々努力して積善陰徳する人々の耳目を驚かせることがある。

 

だが、それですら神を知っていることが前提でなければ、はかなき支配欲、権力欲のあがきになる。見仏見神見性体験なくしての超能力志向は、いたずらにこの世を混乱させるだけに終わる。

 

こうした密教系の修行体系では、わりと最初の方に見仏見神見性体験が必須として出てくるが、その体験なくして超能力が発現するケースもあることもまたあっさり書かれており、ひいてはそうした超能力者を中心としたカルトを結成したり、巻き込まれて一生を棒に振る人も少なくない。それを前提にした書きぶりである。

 

『火・神秘学

 

神秘法則・霊的エネルギーなどと宇宙意識との結合による新しい文明への探究である。

ネオ・アトランティスあるいは千年王国の精神文明は、あと二十五年にまで近づいている。

 

だが、君がどれだけ神秘学、神智学、神霊学などの知識にたけていようと、君の意識が新しい変容を完成していないのなら無意味なことだ。

君は、何よりも神の子として神秘学にたづさわらねばならない。

 

いづれにせよ、まったく新しい精神文明が来るであろう。そして、それは、たった一人の君の内的自覚から始まっている。』

(上掲書から引用)

 

神秘法則・霊的エネルギーとは、四柱推命、紫微斗数、西洋占星術・ホロスコープ、人相、手相、易占、タロット・カード、オラクル・カード、ルノルマン・カード、風水、気学、地相、家相、墓相、数秘術、言霊、神智学、神秘生理学、経絡等々。

 

知識、書物でもってこうしたものにアプローチする人が一般的なのだろうが、秘伝の類は、高額な金を払えば伝授されるようなものは、秘伝奥義ではない。だからステップ形式で値段が上がり、技法テクニックを伝授するようなものには、本物はないと言える。

なぜならどのメソッドの窮極も最後は文字や言葉では表せないからである。

 

今の時代は、物欲優先の時代ではあるが、こうした神秘学、神智学、神霊学の起こりを考えてみると最初は、少なくとも見仏見神見性体験のある開祖がいて、それが現実生活を扶ける技術としてこうした神秘学、神智学、神霊学の類を伝授したのだろうと思う。具体的には、予言、病気治し、人生上のアドバイス万般になるのだろうが、神知らぬ技法だけでは、混迷、困窮を一時的には脱したかに見えるが、本人あるいは相談者・被施術者が神を知ることに至らねば根本的な解決には至らない。

 

最近は、大人気のマンガの影響か、超能力、霊能力がある方がよいと思っている若い人が多いのかもしれないが、それについての大霊能力者の見解は一様に否定的である。また最近は、向精神性薬物等の服用によって、悟りを得ぬままに霊能力、霊感が開けるケースもあるようだが、それもまた問題が多い。

 

ダンテス・ダイジは、いつの時代も悟りなくして神秘学、神智学、神霊学だけを研究、利用する人々が多いことを見て取って、やわやわとそれを諭している。

 

それらを真に活用できるのは、万人が悟りを開いた時代以後のことである。

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ニュートンの世界観

2023-04-22 11:24:45 | 錬金術neo

◎第五元素の説明

(2006-12-30)

 

錬金術書の挿絵や説明が、ユング派の心理学者が主張するような人格の成長やら自我の形成・確立という心理現象に留まるものではないように、ニュートンの物理学的世界観には、物質、時間、空間を一歩超えている形跡を見ることができる。

 

第五元素とは、地水火風の四元素の次のものであるが、ニュートンの手稿によれば、そのような捕らえ方となっている。

『とくに興味深いのは、ニュートンの一覧のなかに第五元素が含まれていることである。イシス、ユノ、ケレスと、さまざまな民族によってさまざまに呼ばれたこの元素を、ニュートン自身は「クィンテセンティア〔第五元素〕もしくはエレメントールム・カオス〔諸元素のカオス〕、すなわちムンドゥス〔世界〕」と呼ぶのだと言い、それは錬金術ではアンチモンあるいは「マグネシア・ゲブリ〔ゲーベルのマグネシア〕」と表わされるのだと注記している。「マグネシアとは、火でも空気でも水でも土でもなく、それらのすべてである」と彼は述べている。

 

それは火のようでも、空気のようでも、水のようでも、土のようでもある。熱であり、乾であり、湿であり、冷である。水のような火であり、火のような水である。物質的霊であり、霊的物体である。それは濃縮された世界霊である。

 

要するに、天界の第五元素が天を地に上から結びつけているがごとく、下から地を天に結びつけているのが錬金術師の第五元素なのである。 』

(錬金術師ニュートン/Bドッブズ P195-196から引用)

 

このように第五元素とは、四元素とは全く同列ではなく、もはや物質とは呼べない物質のことである。ここで形容されている第五元素(マグネシア、アンチモン)の属性は、冥想体験の深化の中で、自分というものを持ちながら、神を見た時に得られるビジョンと同様であるので、ニュートンは錬金術研究のプロセスの中で、それを見たか、直観したかのいずれかなのだろうと思う。

 

錬金術研究という一つの行に打ち込む”一行三昧”により、このような窮極についての洞察か、もはや体験とはよべない体験が起こったとしても、それは不思議なことではないと思う。

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冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-17

2023-04-22 07:24:35 | ダンテス・ダイジの風光

◎君は神であるとともにまたとない人間なのである

 

西洋ではなぜ四元素なのに仏教では五大なのか。パラケルススは、第五元素に言及している。ニュートンも第五元素を認めているが物質レベルのものではなく、霊的レベルのものである。それをニコラ・フラメルも認めている。

 

ダンテス・ダイジの基本線は霊がかりをやめようということなのに、ここで改めて霊的世界観に言及する理由は、あくまで見神見仏見性を経た、つまり禅の十牛図で言えば第三図以降の人限定で語っているからである。

 

『【冥想五大の道】

 

五大とは、地水火風空の五つの神秘的シン ボルが、この世とかの世とを仮現せしめているということである。

宮本武蔵の「五輪之書」もこれに従っている。

地・水・火・風・空は、現象宇宙が創出される基本的な要素であるばかりでなく、霊 的宇宙の中にも霊的五要素のエネルギーの流れとして存在している。

 

ただし、人間の知的側面に映るあらゆる分類は、その時々の修行者の魂に役立つための方便にすぎない。

あらゆる二元性を超越し、超越したことも 超越した君にとっては、この世とかの世との種々様々な分類は、出入自在なる君の戯れと化している

 

君は、時間でない今、何よりも生きているのだ。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

五大は現象宇宙の構成要素であって霊的世界もそうであるという意味は、霊的世界から現象宇宙が発出されるのを前提としている。物理実験で、五大が検出されるわけではない。

またここで五大を述べるがそれが絶対ではなく、『人間の知的側面に映るあらゆる分類は、その時々の修行者の魂に役立つための方便にすぎない。』と釘をさす。

 

ノンデュアリティで、男と女、善と悪、光と闇、天国と地獄などの二元性の選り好みを超えたら、その超えたことも超越すれば、この世もあの世も生も死も出入り自在である。

  

『地大・基本冥想道

 

君は、君の本質的個性をおおらかに生きるとともに、無限それ自体を自覚している。

神と神のつくりしままの君という個性が、あるがままの君だ。君は神であるとともにまたとない人間なのである。

 

太郎には太郎の宇宙があり、メアリーにはメアリーの宇宙があり、君には君の宇宙がある。

 

それらの多様多元な宇宙は、完全な調和の中に遊んでいる。君が本当の自分自身を自覚体得した時、そこには、どのような衝突もない。

それと同時に、多様多元宇宙は一つというも愚かな一つなのだ。

 

私は、人が生きたり死んだりしない世界にあこがれて、冥想の道を歩んだ。

今、気がついてみると

冥想も悟りも消えてしまった。

ここに、人が生きたり死んだりしている。

完全そのものなる絶対無の私は

アルファ・ケンタウリスの

あの少女の人生を生きている。』

(上掲書から引用)

 

『君の本質的個性をおおらかに生きるとともに、無限それ自体を自覚している。』とは、見神見仏見性を経て、初めて自分の本質的個性をおおらかに生きることができるということ。君は神にして、またとない人。

 

そんな君は、誰のものでもない君の宇宙を生きる。そうした分断された各宇宙が他の宇宙と摩擦も起こさず、不思議なことだが、全体として調和のままに活動存在している。

 

それが、『それらの多様多元な宇宙は、完全な調和の中に遊んでいる。君が本当の自分自身を自覚体得した時、そこには、どのような衝突もない。』ということ。

 

『多様多元宇宙は一つ』とは、第六身体アートマンを指す。

 

冥想も悟りも消えてニルヴァーナにあるダンテス・ダイジは、

『アルファ・ケンタウリスのあの少女の人生を生きている。』。

 

私は、この『アルファ・ケンタウリスのあの少女の人生を生きている。』の一節が、とても好きだ。

 

『アルファ・ケンタウリス』は、ケンタウルス座のアルファ星系。太陽系から4.3光年しか離れておらず、地球から最も近い恒星系。

 

ダンテス・ダイジは、名前にケンタウロスが入っていた時期がアトランティス時代にあったようだが、それが、アルファ・ケンタウリスとどう関係があったのかはわからない。

 

ダンテス・ダイジの前世の少女のイメージといえば、アトランティスのレムリア時代の聖王トースの愛人の一人であったナツノだが、彼女がアルファ・ケンタウリス出身かどうかはわからない。

 

ダンテス・ダイジ座談などでは、最初に彼が地球に降り立ったのが、銀色に光る円盤であって、それがケンタウルス座のアルファ星系からのそれなのかシリウスからのそれなのかも判然としない。

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自分自身に出会う恐怖とは

2023-04-21 05:52:43 | 覚醒のアーキテクチャー

◎恐怖にかられても思考にしがみつかない

 

毎晩、眠りに落ちる時、エゴという私性はいつしかなくなり、朝起きるとすっきり爽やかになって生気が回復している。

深い眠りでは、自分の名前、肉体の美醜、太っているか痩せているか、自分がどこの誰か、学歴、職歴、貧乏か金持ちか、悪党か善人かもわからなくなる。これは、深い眠りでは無意識のうちに、エゴを忘れ、真理にタッチしているから、エネルギーが回復するメカニズムである。

 

ところが、夢を見る場合エゴが残っている。夢を見ている限り、真理にはタッチできない。だから一晩中夢を見ているような場合は、疲れ果てリフレッシュしない。

 

そこでこの現象を見て取ったウパニシャッドの哲人などが、熟眠中の夢を見ない状態を重視する。エゴがないからである。

 

冥想修行では、自分自身に直面せよ、本来の自己に直面せよなどという場合がある。エゴすなわち自分自身の不在が悟りにつながるメカニズムがあるが、そう一筋縄にはいかない。

 

以下引用文では、OSHOバグワンが、エゴに出会う恐怖から悟りへのプロセスについてさらりと説明している。

 

『ブッダが「私」と言うとき、それはけっして「私」を意味しているのではない、なぜなら、そこには誰もいないからだ。

 

この私性は、直面することによって消え失せる。その瞬間、恐怖に捉われるかもしれない。怖気づくかもしれない。こういう技法を深く実践する人の中には、恐怖にかられてこの技法から逃げだす人もたくさんいる。そもそも、自分の私性を感じ、それに直面するという状況、それは自分の死を迎えるのと同じだ。

 

つまり、「私」が消え去っていく、そして自分に死が起こりつつあるように感じる。 何か沈んでいくような感覚がある―――自分が下へ下へと沈んでいくような・・・・・・。それで、恐ろしくなり、そこから逃げ出し、思考にしがみついてしまう。思考は助けになる。思考の雲はそこにあり、それにしがみつけば恐怖は消え去る。

 

しかし、この恐怖はたいへん良いものだ。たいへん良い兆候だ。それはあなたが深くまで進んでいるということだ。そしてもっとも深い地点は、死だ。もし死の中に入ることができたら、あなたは不死となる。死の中に入った人間は、死ぬことがない。そのときには、死もまた周辺的なものとなる。中心ではなく、表層上の存在となる。私性が消え去ると、あなたは死と等しくなる。 古いものはもはやなく、新しいものが現れる。』

(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)OSHO P272-273から引用)

ここでいう死は、肉体の死のことではなく、エゴの死のこと。

 

深い眠りに入る際に、その切り替わりを意識できれば、それはそのまま悟りだが、そう簡単なことではない。ケン・ウィルバーも何年もかかった。

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初代ローマ教皇ペトロの最期

2023-04-20 06:47:27 | イエスと救世主たち

◎逆さはりつけの密意

 

初代ローマ教皇ペトロは、エルサレムでイエスが十字架にかけられる際に、大祭司の家の庭で、女中がペトロを見て「この人もイエスと一緒に居ました。」と証言したのに、ペトロは、「わたしはあの人を知らない。」ととぼけた。

イエスは振り向いてペトロを見つめた。

 

その朝ペトロは、外に出て激しく泣いた(ルカ伝22章)

 

そんなみじめで情けないペトロは、以後イエスの第一の高弟として、病気治癒などの超能力を使いまくるなど、それなりの実力を備えていった。

 

さてローマの有力者の美人妻クサンチッペが夫と同衾しなくなった。その原因がペトロの宣教にあることで、使徒ペトロは、ローマ官憲による捕縛が近づいているという情報を得て、ローマから脱出すべくアッピア街道を急いでいた。

 

『ペトロが市の門まで来た時、主がローマに入って来られるのを見ました。

主の姿を見て、ペトロは尋ねました。「主よ, ここからどこへ行かれるのですか」。

主はペトロに答えました。「わたしは十字架につけられるためにローマに行く」。

そこでペトロは主に尋ねました。「主よ, 再び十字架につけられるおつもりなのですか」。

主は彼に答えられました。「そうだ、ペトロ, わたしは再び十字架につけられるのだ」。

 

それを聞いた時、ペトロはわれに返って、主が天に昇っていかれるのを見ました。そして大喜びで主を賛美しながら、ローマに戻っていきました。なぜなら、主が言われた「わたしは十字架につけられる」ということは、ペトロの身に起こるはずのことだったからです。

 

ペトロ行伝 第35章』

(ローマ教皇歴代誌 P.G.マックスウェル‐スチュアート/著 創元社P12から引用)

 

当時の人々は、今のような情報氾濫の時代とは異なり、情報が少ないので、見たことや聞いたことがすんなり心に入ってきやすい心性にして、いまのような細かい道徳規範を守らない荒くれた行動パターンの人々だった。

 

そこに自らを捨ててまで、神に殉ずる伝説を二度までも作りに行ったわけだが、ペトロも、十字架にかかる覚悟ができるまでは時間がかかり、イエスの磔刑以後30年以上を要した。

 

ペトロは、逆さ磔けとなったが、タロットカードの吊るされた男のように上下逆転せねば大悟覚醒しないと十字架上で述べたとされる(ペトロ行伝 第38章)。

(カラッチ/Quo vadis, Domine)

 

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危険な沖縄、期待された沖縄

2023-04-19 20:53:10 | 時代のおわりneo

◎ダンテス・ダイジの超宗派的冥想

(2019-12-08)

 

『危険な沖縄 親日米国人のホンネ警告/ケント・ギルバート/ロバート・D・エルドリッジ/産経新聞出版』は平成28年の本だが、尖閣に中国船は入ってきても文句を言わない県知事が辺野古反対ばかり唱える事象を筆頭に、ほとんど中国の一自治区みたいになった沖縄の実態を浮かび上がらせる。

 

沖縄は、地理的にみて、上海、台北、釜山、福岡からほぼ等距離にあり、中国、台湾、韓国を睨むには絶好で、軍事的要衝であり、これがゆえに米軍基地が多い。ペリー提督が日本来航前に沖縄を測量したのは、その軍事的価値の故である。

 

だから戦前沖縄が捨て石作戦の犠牲になったから手っ取り早く沖縄に米軍基地が多くなったということではないと理解している。

 

ダンテス・ダイジは、自らの禅的悟りの修行場として沖縄を選んだ。なぜ沖縄を選んだかについて、その座談の中で、沖縄人は本土の人よりも因習的な先入観が少ないということを語っている。

 

悟りの修行は、多くの部分が先入観を取り去るということだが、沖縄の人はその土台のところで一歩リードしていると見たのだろう。

 

その成果がダンテス・ダイジの超宗派的冥想という小冊子。この小冊子を今眺めてみると、後の『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の骨組みの外形が現れているのに気づく。当時これを読んでも腑(はら)落ちしなかったのだが、ダンテス・ダイジ自身がこれは沖縄人向けに書いたのだというコメントがあり、また沖縄人の精神には戦争の影響が大きいことも言っていた。そのことが、この小冊子がバランスを欠いた印象を与える原因かと自分を納得させていた。

 

今読み返すと、七つの身体論がないところが、今一つ説得力を欠く理由なのかと思う。ダンテス・ダイジは「超宗派的冥想」以後に、クンダリーニ・ヨーガでのニルヴァーナを得たので、そこで初めて七つの身体を実証したのだろう。

 

映画『涙そうそう』(なだそうそう)は、2006年の日本映画。主演は妻夫木聡と長澤まさみ。借金返済のために過労のお兄ちゃんが、はかなくも病死する話。正しく、生きて死ぬ。人間のまともさという点では、よい。だが、今の人間は既成の先入観の人間という枠をジャンプ・アウトしなければならない。

 

沖縄の人には海外移民が多いというのは、その可能性という点ではベースが高いことを示しているのだろう。

 

だが、今の沖縄人はどうなのだろうか。

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