・河陽は黄河の渡河点であり、河北から東都・汴州を防衛する重要拠点であり両岸等に三城が築城
され舟橋が設置されていた。
・安史の乱においても河陽において激戦がおこなわれ、懷州に鎮西四鎭行営節度使[李嗣業-茘非元禮]
が屯していた。
・乱後は澤潞節度使[李抱玉]に属し李抱愼が留後となっていた。
・大暦6年[771年]常休明が河陽三城使となったが、大暦10年[775年]にはその苛政と魏博田承嗣に唆さ
れた乱兵により逐われた。
・その後馬燧が入り汴宋李靈耀の乱の鎮定に活躍し、大暦14年[779年]には河東節度使に昇進した。
後は李芃が嗣いだ。
・建中二年[781年]東都より五縣を割き、懷州と併せて河陽三城節度使[號懷衛節度使]を置き芃
が引き続き統治した。
・芃は成徳李惟岳・魏博田征討などに活躍し貞元元年[785年]に卒した。
され舟橋が設置されていた。
・安史の乱においても河陽において激戦がおこなわれ、懷州に鎮西四鎭行営節度使[李嗣業-茘非元禮]
が屯していた。
・乱後は澤潞節度使[李抱玉]に属し李抱愼が留後となっていた。
・大暦6年[771年]常休明が河陽三城使となったが、大暦10年[775年]にはその苛政と魏博田承嗣に唆さ
れた乱兵により逐われた。
・その後馬燧が入り汴宋李靈耀の乱の鎮定に活躍し、大暦14年[779年]には河東節度使に昇進した。
後は李芃が嗣いだ。
・建中二年[781年]東都より五縣を割き、懷州と併せて河陽三城節度使[號懷衛節度使]を置き芃
が引き続き統治した。
・芃は成徳李惟岳・魏博田征討などに活躍し貞元元年[785年]に卒した。