・渾瑊は河中節度使として朔方・邠寧・鄜坊を副元帥として統括した。朔方節度使としては杜希全が入った・
・貞元3年[787年]には希全は夏綏を吐蕃から回復しようとし夏綏銀鹽等州節度使を分置した。
・邠寧・原などの対吐蕃京師防禦が完成してくると、外邊部の朔方の重要性は低下していった。
・任命される節度使は范希朝-王-李光進-杜叔良-李聴-李進誠と神策系の武官が続き蕃族を管理する立場であった。
・咸通年間[861-873年]に入るとその位置の低下からか将帥の交替時期が不明瞭となってきた。
・廣明-中和年間[880-884年]、残存した軍は京師回復に動員され。現地蕃族を中心とした現地軍となっていき、
光啓年間[885-887年]以降は韓氏一族の私領として五代へ継承されていくことになる。
・貞元3年[787年]には希全は夏綏を吐蕃から回復しようとし夏綏銀鹽等州節度使を分置した。
・邠寧・原などの対吐蕃京師防禦が完成してくると、外邊部の朔方の重要性は低下していった。
・任命される節度使は范希朝-王-李光進-杜叔良-李聴-李進誠と神策系の武官が続き蕃族を管理する立場であった。
・咸通年間[861-873年]に入るとその位置の低下からか将帥の交替時期が不明瞭となってきた。
・廣明-中和年間[880-884年]、残存した軍は京師回復に動員され。現地蕃族を中心とした現地軍となっていき、
光啓年間[885-887年]以降は韓氏一族の私領として五代へ継承されていくことになる。