・元年9月[762年]回紇の大軍が南下し、その助力を得た唐軍は僕固懷恩に率いられ河南・東都を
奪還、史朝義は廣元年[763年]正月に殺され、配下の諸将も歸順した。懷恩は副元帥に任ぜられた。
・しかし懷恩は10月宦官程元振の讒言により逐われて反乱に追い込まれた。朔方軍の東征による間隙
を突き、吐蕃・回紇等は隴右諸州を奪い、關内に侵攻し京師を落とした。代宗皇帝は華州に奔った。
・李光弼を始めとして有力諸将は宦官勢力を嫌い来援せず、苦境に立った代宗は子儀を關内副元帥に
任じた。軍權を失っていたため兵力を確保できない子儀は舊知の回紇を味方につけて吐蕃を撃退し
京師を回復した。
・懷恩の反乱も、子儀の登用により旧部下の朔方軍の將士が帰順し大事にはいたらず、宦官元振が追放
されたこともあり、子儀は朔方・關内・河東[河中のこと、太原の河東軍ではない]の
副元帥を兼ねて勢力が確立した。
・以降唐朝の軍人は、朔方軍系[郭子儀・李光弼]・平盧軍系[侯希逸・李忠臣・李正己]・范陽軍系
[田承嗣・李寶臣・朱希彩]が主要な流れになる。
奪還、史朝義は廣元年[763年]正月に殺され、配下の諸将も歸順した。懷恩は副元帥に任ぜられた。
・しかし懷恩は10月宦官程元振の讒言により逐われて反乱に追い込まれた。朔方軍の東征による間隙
を突き、吐蕃・回紇等は隴右諸州を奪い、關内に侵攻し京師を落とした。代宗皇帝は華州に奔った。
・李光弼を始めとして有力諸将は宦官勢力を嫌い来援せず、苦境に立った代宗は子儀を關内副元帥に
任じた。軍權を失っていたため兵力を確保できない子儀は舊知の回紇を味方につけて吐蕃を撃退し
京師を回復した。
・懷恩の反乱も、子儀の登用により旧部下の朔方軍の將士が帰順し大事にはいたらず、宦官元振が追放
されたこともあり、子儀は朔方・關内・河東[河中のこと、太原の河東軍ではない]の
副元帥を兼ねて勢力が確立した。
・以降唐朝の軍人は、朔方軍系[郭子儀・李光弼]・平盧軍系[侯希逸・李忠臣・李正己]・范陽軍系
[田承嗣・李寶臣・朱希彩]が主要な流れになる。