唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

朔方節度使 その2

2012-05-23 11:27:44 | Weblog
・開元2年[714年]に安北大都護府に設定された朔方総管府が、
開元9年[721年]に單于大都護府に朔方節度使として移された。
・突厥・回紇などに対して關内地方を防禦する役割をもっている。
・天寶14年[755年]安禄山の反乱に際して朔方軍は郭子儀が節度使となり、將李光弼を河東
[安禄山の管轄下ではあるが、直轄地ではない]に派してこれを確保させ、
15年6月来寇した賊將史思明を嘉山に大破した。
・同じく6月禄山によって京師を逐われた玄宗皇帝から別れ、皇太子[後の肅宗]はわずか
な兵をつれて朔方をめざした。有力藩鎭のうち、平盧・范陽は禄山下、河東は潰乱、
隴右・河西兵は潼関での哥舒翰の敗北により潰滅。劍南は雲南との敗戦により弱体というこ
とから、頼みになるのは朔方軍だけしかなかった。
・朔方軍所属の文官は好機と見て皇太子を迎え、7月これを擁立して肅宗皇帝とした。
子儀・光弼も引き返し京師回復をめざすようになった。
・至徳二年[757年]2月子儀は河中府を回復し、光弼は河東で賊將蔡希を破った、
4月子儀は司空副元帥となったが、5月賊將安守忠に清渠で大敗した。
・9月子儀は回紇の騎兵軍の応援を得て京師を回復し、10月東都も回復した。
12月子儀は司徒に、光弼は司空となった。
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