④.我子でも毒殺した武后? 見ているだけの高宗
代王弘は武后の子であり、顯慶元年忠が廃された後の太子となった。極めて優秀で多くの業績[すべてが自作ではないと思うが]を上げた。軟弱だが好学の高宗にも気に入られていた。ところが不遇の異母姉達[武后が監禁していた]に同情したりしたため武后の不興をかい、上元2年4月24歳で亡くなった。
新唐書は 天后殺皇太子。
旧唐書は 皇太子弘薨于合璧宮之綺雲殿。
通鑑は 太子薨于合璧宮,時人以為天后鴆之也。[毒殺]と書いている。
ただ武后が上記の理由だけで我子を殺害したのかどうかは若干疑問である。武后への中傷の可能性もある。
高宗は惜しんで「孝敬皇帝」の号を贈った。
5月また武后の子賢を太子とした。 子孫はいない。