唐初に活躍した武将で、正史に伝記がないか、簡潔すぎるものをまとめていきます。50人程度を予定しています。
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李仲文
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隋煬帝義寧元年九月
反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り長安に迫った。
長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成します。淵從弟李神通、長安大俠史萬寶、西域商胡何潘仁、郿縣群盜李仲文、向善志、丘師利などが集まった。
仲文は東都を攻めている李密の從父にあたった。
仲文は淵軍に編入され世民[唐太宗]の配下に入った。
功績があり上柱國となり、父の封爵を継いで普寧郡公となった。
唐が建国し仲文は引き続き仕えた。
唐高祖武德二年四月
突厥と結んだ劉武周が并州太原を攻め、留守の齊王元吉は幼弱なため、左武衛大將軍姜寶誼と太常少卿李仲文が軍を率いて助けた。
六月
武周將黄子英と雀鼠谷と戦って敗北し、一旦寶誼と仲文は捕虜となりますが脱出し、再び軍を整えて対抗した。
九月
宰相裴寂に率いられた唐軍は武周將宋金剛に大敗し、寶誼は戦死します。元吉は太原を捨てて逃亡した。仲文は浩州剌史劉贍と共に西河を守り抜いた。
三年三月
仲文は攻撃してきた武周將張萬歲を浩州に破った。
西河公張綸とともに石州を攻め,武周派の劉季真を降した。
四月
秦王世民[太宗]は太原を回復し、仲文は検校并州総管として武周の逆襲から太原を守った。
六月
總管としての仲文は援軍として来ている突厥軍の横暴に困惑し、その削減を求めた。
七月
驃騎大將軍可朱渾定遠は仲文が突厥と通謀していると告発し、禮部尚書唐儉に并州を管理させ、仲文を入京させた。
四年二月
唐儉は太常少卿仲文が妖僧志覺と突厥に通じて謀叛しているとして誣告し、仲文は殺された。
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李仲文
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隋煬帝義寧元年九月
反乱を起こした李淵[唐高祖]軍は黄河を渡り長安に迫った。
長安付近にいた淵の娘で柴紹の妻である李氏[平陽公主]は周囲の豪傑や盗賊に働きかけて軍を形成します。淵從弟李神通、長安大俠史萬寶、西域商胡何潘仁、郿縣群盜李仲文、向善志、丘師利などが集まった。
仲文は東都を攻めている李密の從父にあたった。
仲文は淵軍に編入され世民[唐太宗]の配下に入った。
功績があり上柱國となり、父の封爵を継いで普寧郡公となった。
唐が建国し仲文は引き続き仕えた。
唐高祖武德二年四月
突厥と結んだ劉武周が并州太原を攻め、留守の齊王元吉は幼弱なため、左武衛大將軍姜寶誼と太常少卿李仲文が軍を率いて助けた。
六月
武周將黄子英と雀鼠谷と戦って敗北し、一旦寶誼と仲文は捕虜となりますが脱出し、再び軍を整えて対抗した。
九月
宰相裴寂に率いられた唐軍は武周將宋金剛に大敗し、寶誼は戦死します。元吉は太原を捨てて逃亡した。仲文は浩州剌史劉贍と共に西河を守り抜いた。
三年三月
仲文は攻撃してきた武周將張萬歲を浩州に破った。
西河公張綸とともに石州を攻め,武周派の劉季真を降した。
四月
秦王世民[太宗]は太原を回復し、仲文は検校并州総管として武周の逆襲から太原を守った。
六月
總管としての仲文は援軍として来ている突厥軍の横暴に困惑し、その削減を求めた。
七月
驃騎大將軍可朱渾定遠は仲文が突厥と通謀していると告発し、禮部尚書唐儉に并州を管理させ、仲文を入京させた。
四年二月
唐儉は太常少卿仲文が妖僧志覺と突厥に通じて謀叛しているとして誣告し、仲文は殺された。