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劉弘基
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父昇は隋河州刺史。
弘基は放蕩無頼であり輕俠と交際していたが,父の蔭位で右勳侍となった。
大業末に煬帝の高麗遠征に出征したが、貧のために準備ができずに遅れ死刑を宣告された。
脱獄逃亡して太原に逃げ、留守李淵[唐高祖]の庇護を受け、世民[太宗]等と交遊した。
義寧元年五月
反乱に際しては監視役の王威・高君雅を殺した。
義寧元年八月
統軍として世民に従い西河を降し、隋將宋老生を破り、霍邑を攻めた。
老生を斬り、拜右光祿大夫となった。
河東を攻め、馮翊を降して渭北道大使となり、殷開山と扶風を陥し、渭水を渡り長安故城に屯した。
長安では衛文昇を破り功績第一であった。
世民に従い薛舉を扶風に破り、右領都督封河間郡公となった。
また世民に従い東都を攻め、撤退時には殿として隋將段達、張志陳を撃破した。
武德元年
拜右驍衛大將軍領行軍左一總管。
七月
また世民に従い薛舉を討つが、劉文靜等と共に淺水原で戦い大敗する。都合良く世民は病だそうであった。弘基は奮戦したが捕らえられた。
薛仁杲が敗れたため帰還でき、官爵は復した。
二年五月
王世充が義州を陥し、西濟州に侵攻した。右驍衛大將軍弘基が救援した。
七月
行軍總管劉弘基は世充河陽城を攻め、河橋を壊した。
九月
宋金剛が太原を陥し、弘基は晉州に屯したが、總管裴寂が金剛に大敗したため城は落ちまた捕らえられたが逃げ帰ることができた。
三年四月
左一總管となって世民に従い、西河を守った。世民が金剛を破ると弘基は追撃し介休に至った。
進封任國公。
六年正月
劉黑闥を洺州に討った。授秉鉞將軍。
突厥入寇に対して障塞を建設して守った。
九年十月
食實封九百戸を与えられた。
貞觀元年十二月
謀反した李孝常や長孫安業と交遊していたため除名された。
三年
再び易州刺史に起用され、封爵は復された。
七年
衛尉卿
十一年
大僕卿
六月
改夔国公.世襲朗州刺史となった[まもなく撤回]。
老齢により致仕、輔國大將軍を授け、朔望に参朝し、祿賜は現役のまま賜った。
貞觀十九年
太宗が高麗征討をした時、前軍大總管として高延壽を破る功績があった。
永徽元年
加實封通前一千一百戶。
病となると諸子に余財を残さず、親属に散じた。
永徽元年
卒,69歳。贈開府儀同三司并州都督,陪葬昭陵、謚曰襄。
劉弘基
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父昇は隋河州刺史。
弘基は放蕩無頼であり輕俠と交際していたが,父の蔭位で右勳侍となった。
大業末に煬帝の高麗遠征に出征したが、貧のために準備ができずに遅れ死刑を宣告された。
脱獄逃亡して太原に逃げ、留守李淵[唐高祖]の庇護を受け、世民[太宗]等と交遊した。
義寧元年五月
反乱に際しては監視役の王威・高君雅を殺した。
義寧元年八月
統軍として世民に従い西河を降し、隋將宋老生を破り、霍邑を攻めた。
老生を斬り、拜右光祿大夫となった。
河東を攻め、馮翊を降して渭北道大使となり、殷開山と扶風を陥し、渭水を渡り長安故城に屯した。
長安では衛文昇を破り功績第一であった。
世民に従い薛舉を扶風に破り、右領都督封河間郡公となった。
また世民に従い東都を攻め、撤退時には殿として隋將段達、張志陳を撃破した。
武德元年
拜右驍衛大將軍領行軍左一總管。
七月
また世民に従い薛舉を討つが、劉文靜等と共に淺水原で戦い大敗する。都合良く世民は病だそうであった。弘基は奮戦したが捕らえられた。
薛仁杲が敗れたため帰還でき、官爵は復した。
二年五月
王世充が義州を陥し、西濟州に侵攻した。右驍衛大將軍弘基が救援した。
七月
行軍總管劉弘基は世充河陽城を攻め、河橋を壊した。
九月
宋金剛が太原を陥し、弘基は晉州に屯したが、總管裴寂が金剛に大敗したため城は落ちまた捕らえられたが逃げ帰ることができた。
三年四月
左一總管となって世民に従い、西河を守った。世民が金剛を破ると弘基は追撃し介休に至った。
進封任國公。
六年正月
劉黑闥を洺州に討った。授秉鉞將軍。
突厥入寇に対して障塞を建設して守った。
九年十月
食實封九百戸を与えられた。
貞觀元年十二月
謀反した李孝常や長孫安業と交遊していたため除名された。
三年
再び易州刺史に起用され、封爵は復された。
七年
衛尉卿
十一年
大僕卿
六月
改夔国公.世襲朗州刺史となった[まもなく撤回]。
老齢により致仕、輔國大將軍を授け、朔望に参朝し、祿賜は現役のまま賜った。
貞觀十九年
太宗が高麗征討をした時、前軍大總管として高延壽を破る功績があった。
永徽元年
加實封通前一千一百戶。
病となると諸子に余財を残さず、親属に散じた。
永徽元年
卒,69歳。贈開府儀同三司并州都督,陪葬昭陵、謚曰襄。