----------------------------
皇甫無逸 字仁儉
----------------------------
父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。
無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。
義寧二年五月
煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。
武德元年七月
王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。
唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。
十二月
蒲州堯君素を説くが降らなかった。
陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。
皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。
また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。
行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はしりぞけられた。
無逸が帰還すると、高祖に「よく告発されるな」と冷やかされた。
武德五年/六年
御史大夫より民部尚書、同州刺史へ
武德末~貞觀初
同州刺史
貞觀元年~二年
益州大都督府長史
徒党を作らず清廉でしられて憚られた。
また小心慎重で上表疏の出来にこだわった。
貞觀元年?としているサイトが多いが矛盾するデータも多い
母が病気となりあわてて帰還する途次に卒した。
贈禮部尚書,諡曰孝。更諡良。
貞觀八年八月
鄜州大都督府長史として派遣され觀省風俗
皇甫無逸 字仁儉
----------------------------
父誕は隋并州總管府司馬で漢王諒反時に同ぜず殺された。
無逸は母に孝行で知られ、淯陽太守となり名声があり、右武衛將軍となり洛陽を守っていた。
義寧二年五月
煬帝が殺されると段達・元文都と越王侗を擁立して兵部尚書杞國公となった。
武德元年七月
王世充が簒奪すると、母妻を棄てて唐へ奔った。
唐高祖は隋の勳舊が来降したのを喜び、刑部尚書封滑國公とした。
十二月
蒲州堯君素を説くが降らなかった。
陝東道行台民部尚書から御史大夫へ移り、益州道安撫大使として蜀地を持節巡撫して安定させた。
皇甫希仁に誣告されたが高祖は取り上げなかった。
また荊州の蕭銑と交通していると告発されたが免れた。
行台僕射竇璡の不法を弾劾し璡はしりぞけられた。
無逸が帰還すると、高祖に「よく告発されるな」と冷やかされた。
武德五年/六年
御史大夫より民部尚書、同州刺史へ
武德末~貞觀初
同州刺史
貞觀元年~二年
益州大都督府長史
徒党を作らず清廉でしられて憚られた。
また小心慎重で上表疏の出来にこだわった。
貞觀元年?としているサイトが多いが矛盾するデータも多い
母が病気となりあわてて帰還する途次に卒した。
贈禮部尚書,諡曰孝。更諡良。
貞觀八年八月
鄜州大都督府長史として派遣され觀省風俗