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張長遜
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騎射にすぐれ、里長から軍功により出世して隋上開府五原郡通守/太守となる。
また突厥に属しその莫賀咄設結と義兄弟となり割利特勤に任ぜられた。
義寧二年/武德元年四月
唐の傀儡である代王政権に武都、宕渠、五原等郡を以って歸附して左光祿大夫封安化郡公/范陽郡公となった。梁師都の南下を阻む功績があったとされる。
当時李淵[高祖]もまた突厥に仕えていたため両端を持しただけで反したわけではない。
武德元年
世民[太宗]が薛仁果を攻めた時に、進んで応援し豐州総管.巴/揚國公に昇格した。
武德二年閏二月
突厥始畢可汗は梁師都・劉武周を率いて太原を攻略しようとしていたが途次卒した。
侵攻を懼れた唐高祖は右武候將軍高靜を派遣して朝貢しようとしていたが、靜は可汗の卒を聞いて豐州で観望していた。あらたに立った處羅可汗はその不実を責めた。両方の臣下である長遜は取りなして事を収めた。
武德四年四月
唐の朝廷では長遜が豐州で両端を持していることの批判が高まり、懼れた長遜は太子建成の北伐に従い所部を率いて入朝し右武候將軍,徙封息國公となった。
その後秦王・竇軌に従い檢校益州行台右僕射として王世充を討った。
遂州都督→夔州都督を歴任しよく統治した。
武德九年十月
食實封三百戸を与えられた。
貞觀十一年
卒
張長遜
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騎射にすぐれ、里長から軍功により出世して隋上開府五原郡通守/太守となる。
また突厥に属しその莫賀咄設結と義兄弟となり割利特勤に任ぜられた。
義寧二年/武德元年四月
唐の傀儡である代王政権に武都、宕渠、五原等郡を以って歸附して左光祿大夫封安化郡公/范陽郡公となった。梁師都の南下を阻む功績があったとされる。
当時李淵[高祖]もまた突厥に仕えていたため両端を持しただけで反したわけではない。
武德元年
世民[太宗]が薛仁果を攻めた時に、進んで応援し豐州総管.巴/揚國公に昇格した。
武德二年閏二月
突厥始畢可汗は梁師都・劉武周を率いて太原を攻略しようとしていたが途次卒した。
侵攻を懼れた唐高祖は右武候將軍高靜を派遣して朝貢しようとしていたが、靜は可汗の卒を聞いて豐州で観望していた。あらたに立った處羅可汗はその不実を責めた。両方の臣下である長遜は取りなして事を収めた。
武德四年四月
唐の朝廷では長遜が豐州で両端を持していることの批判が高まり、懼れた長遜は太子建成の北伐に従い所部を率いて入朝し右武候將軍,徙封息國公となった。
その後秦王・竇軌に従い檢校益州行台右僕射として王世充を討った。
遂州都督→夔州都督を歴任しよく統治した。
武德九年十月
食實封三百戸を与えられた。
貞觀十一年
卒