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劉師立
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王世充に仕えて將軍であった。
世充が敗北し誅にあたるが、世民[太宗]に評価されて免罪、左親衛となった。
世民が皇太子建成や齊王元吉と争った時に謀議に加わり、誅建成に功績があり左衛率に昇進した。
太宗の即位後、左驍衛將軍封襄武郡公となった。
武德九年十月
食實封一千戸を与えらた。
その後、師立の顔には反相があると告されたが、太宗は信じなかった。
貞觀元年
羅藝の反には、檢校右武候大將軍として警備したが、事後藝と通交があったとされて除名された。
その後再任用され檢校岐州都督となった。
貞觀五年
功績をもとめ吐谷渾開、橋二州を誘降させ、黨項首領拓拔赤辭を內屬させた。
母憂で職を去り、父老が求めたため帰任させた。
反抗的な河西黨項破刃氏を討ち帰服させた。
吐谷渾を小莫門川で撃破した。
尋轉始州刺史
貞觀十四年
卒した,謚曰肅
劉師立
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王世充に仕えて將軍であった。
世充が敗北し誅にあたるが、世民[太宗]に評価されて免罪、左親衛となった。
世民が皇太子建成や齊王元吉と争った時に謀議に加わり、誅建成に功績があり左衛率に昇進した。
太宗の即位後、左驍衛將軍封襄武郡公となった。
武德九年十月
食實封一千戸を与えらた。
その後、師立の顔には反相があると告されたが、太宗は信じなかった。
貞觀元年
羅藝の反には、檢校右武候大將軍として警備したが、事後藝と通交があったとされて除名された。
その後再任用され檢校岐州都督となった。
貞觀五年
功績をもとめ吐谷渾開、橋二州を誘降させ、黨項首領拓拔赤辭を內屬させた。
母憂で職を去り、父老が求めたため帰任させた。
反抗的な河西黨項破刃氏を討ち帰服させた。
吐谷渾を小莫門川で撃破した。
尋轉始州刺史
貞觀十四年
卒した,謚曰肅