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楊行密は盧州の人で州将となり勇敢で功績があったが、都將に疎まれ逐われるはめになり、返って反して刺史郎幼復をも逐った。高駢は淮南押牙知廬州事に追認し、やがて盧州刺史となった。
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◎.8月 楊行密は淮南節度使同平章事となり、麾下の田頵は知宣州留後、安仁義は潤州刺史となった。
そして孫儒軍の残党から選抜して精鋭軍を作った。
景福二年[893]
◎.7月 楊行密は廬州を陥し、裏切った蔡儔を殺した。儔は行密の父母の墓を破壊していたが、行密は儔家の墓を保存した。
◎. 行密は歙州・舒州と勢力を広めていった。
乾寧元年[894]
◎. 武昌節度使杜洪と黄州を争った。
乾寧二年[895]
◎. 朱全忠の勢力下の泗州・壽州を得た。
◎. 皇帝となろうとした浙東董昌を討とうとした浙西錢鏐を牽制して蘇州・杭州を攻めた。
乾寧三年[896]
◎. 北部では蘄州を取り、東部では蘇州を取った。
乾寧四年[897]
◎.2月 朱全忠に敗北した泰寧節度朱瑾が、李克用將の李承嗣・史儼と亡命してきた。行密は瑾達を保護し全忠と全面的に争うことになった。行密軍は歩兵・水軍は整備されていたが、騎兵は弱体であったが沙陀[李承嗣・史儼]の参入により飛躍的に強化されることになった。
◎.鄂岳節度杜洪と、浙江錢鏐は朱全忠方に付き、行密征討を求めた。
◎.10月 全忠は將龐師古以下7万以上の大軍を南下させ、行密を討とうとした。
◎.11月 行密は朱瑾とともに清口で師古軍を迎撃して潰滅させた。師古は敗死した。
乾寧五年/光化元年
◎. 全忠勢力下の山東節度趙匡凝は行密の勝利を聞き、通じようとしたが全忠に攻撃され断念した。また蔡州奉國軍節度崔洪も行密に通じようとし牽制された。
楊行密は盧州の人で州将となり勇敢で功績があったが、都將に疎まれ逐われるはめになり、返って反して刺史郎幼復をも逐った。高駢は淮南押牙知廬州事に追認し、やがて盧州刺史となった。
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◎.8月 楊行密は淮南節度使同平章事となり、麾下の田頵は知宣州留後、安仁義は潤州刺史となった。
そして孫儒軍の残党から選抜して精鋭軍を作った。
景福二年[893]
◎.7月 楊行密は廬州を陥し、裏切った蔡儔を殺した。儔は行密の父母の墓を破壊していたが、行密は儔家の墓を保存した。
◎. 行密は歙州・舒州と勢力を広めていった。
乾寧元年[894]
◎. 武昌節度使杜洪と黄州を争った。
乾寧二年[895]
◎. 朱全忠の勢力下の泗州・壽州を得た。
◎. 皇帝となろうとした浙東董昌を討とうとした浙西錢鏐を牽制して蘇州・杭州を攻めた。
乾寧三年[896]
◎. 北部では蘄州を取り、東部では蘇州を取った。
乾寧四年[897]
◎.2月 朱全忠に敗北した泰寧節度朱瑾が、李克用將の李承嗣・史儼と亡命してきた。行密は瑾達を保護し全忠と全面的に争うことになった。行密軍は歩兵・水軍は整備されていたが、騎兵は弱体であったが沙陀[李承嗣・史儼]の参入により飛躍的に強化されることになった。
◎.鄂岳節度杜洪と、浙江錢鏐は朱全忠方に付き、行密征討を求めた。
◎.10月 全忠は將龐師古以下7万以上の大軍を南下させ、行密を討とうとした。
◎.11月 行密は朱瑾とともに清口で師古軍を迎撃して潰滅させた。師古は敗死した。
乾寧五年/光化元年
◎. 全忠勢力下の山東節度趙匡凝は行密の勝利を聞き、通じようとしたが全忠に攻撃され断念した。また蔡州奉國軍節度崔洪も行密に通じようとし牽制された。
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