淮南西道節度使は唐朝にとって悩みの種で、李希烈・吳少誠・吳元濟と長期に渡って反抗します。憲宗皇帝時に李愬により元濟が討滅された後は唐朝南部領域は唐末まで安定します。唐末、黄巣の後を継いだ秦宗權の乱により再び淮西は注目されるようになりました。秦宗權分は「奉国軍」李愬分は「唐鄧隋」シートに記載しています。藩鎭年表[淮南西道節度使]を更新公開
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