唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

僕固懷恩の乱 2

2022-11-28 08:49:38 | Weblog
廣徳二年2月
僕固瑒は榆次を囲んでいましたが抜けず、援兵が遅いと兵を処罰しました。
焦暉、白玉帥等は憤激して瑒を殺しました。

懷恩はこれを聞き渡河して靈州に奔りました。

靈州守將渾釋之はためらいましたが受け入れ、懷恩は釋之を殺して軍を併せ、張韶に守らせました。

都虞候張維岳は、焦暉、白玉を殺し郭子儀に通じ、子儀は汾州に行って懷恩兵を収めました。

廣徳2年4月
朔方行營節度使左僕射同平章事兼太保僕固懷恩の兵権を解き虚位太保だけは残しました。 

廣徳2年6月
懷恩は靈武で勢力を回復していきます。代宗は慰撫しますが懷恩は従いません。

廣徳2年7月
懷恩に實封一千五百戸を与えます。

廣徳2年8月
懷恩は吐蕃・回紇10万を率いて入寇してきました。

廣徳2年9月
郭子儀、李抱玉が防衛に当たります。
邠寧節度使白孝德は吐蕃を宜祿に撃退しました。

廣徳2年10月
懷恩は吐蕃二萬で邠州を攻め、節度使白孝德は籠城します。さらに奉天を攻め、京師は戒嚴状態となります。
蕃軍の勢力が強く、子儀は涇陽に籠もります。

懷恩が南侵した隙に、河西節度使楊志烈は靈州を攻めましたが、懷恩は戻って大破しました。
捨て石的なこの攻撃に士卒は不満を抱きました。その後志烈は殺されます。

廣徳二年十一月
楊志烈の活躍もあり懷恩軍は撤退します。

永泰元年8月
懷恩は吐蕃、回紇、黨項羌、渾、奴剌をあげて来寇します。

永泰元年九月
懷恩は靈州鳴沙縣で急死しました。
時に吐蕃數十萬寇邠州・奉天・醴泉、黨項羌、渾、奴剌は寇同州・奉天・鳳翔府・盩厔に迫り、
京師は危急に瀕していました。さらに回紇の大軍も迫っていました。
懷恩の死がなければ京師は陥落していた可能性が大です。
懷恩の死後、その軍は大將張韶が嗣ぎましたが、別將徐璜玉に殺され、また璜玉も范志誠に殺されて分散し
主力は郭子儀に吸収されました。

その後、郭子儀は旧知の回紇と盟約し、吐蕃と対立させて撃破して危機を脱しました。


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