夫婦げんか [不安定な代宗皇帝の地位と郭子儀]
--------------------------
代宗皇帝の娘昇平公主は、功臣である副元帥郭子儀の子曖に降嫁していました。
大暦二年のある日、曖と公主は夫婦げんかをし、公主は自分が皇帝の娘であることで曖を貶めようとしました。激高した曖は「お前の父が皇帝だと、それは俺の親父の力のおかげなんだ、親父はなるつもりなら皇帝にだってなれるんだぞ」と言い放ちました。
公主は怒って家を出て皇居に走り、代宗にその暴言を訴えました。
ところが代宗は「お前はなにもわかっていない、子儀が欲すれば皇帝にだってなれる。そうなったらどうする」と叱りつけ追い返しました。
驚いた子儀は恐懼し、曖を捕らえて謹慎させ、自ら入朝して代宗に謝罪しました。
代宗は「ただの痴話喧嘩だ、あなたが気にすることは無い」と慰撫しました。
子儀は無神経な曖を數十回鞭打ちました。
*******背景*******
安史の乱で弱体化した唐は、郭子儀・李光弼の朔方軍や回紇の支援によりなんとか平定にこぎつけたが、河北は安史の残党が占拠し、吐蕃の侵攻により再度京師が陥落するなど危機的状況にあった。
当時の唐朝を支えていたのは朔方河中軍を率いる郭子儀と、策謀に長けた宰相元載、禁軍である神策軍を率いる宦官魚朝恩の三人であり、小心な代宗は三者の不安定な均衡の上に立っていることを自覚していた。
中でも唐軍の主力を率いる子儀は將士の人望も厚く、回紇とも友好関係にあったため、簒奪をしようとすれば十分に可能であった。ただ子儀にはそのような野望はなく、功臣として尊重されれば満足していた。
実権を回復しようとする代宗は、まず元載と組んで、禁軍の軍權を回復するため大暦五年朝恩を誅殺した。
そして十二年専権を振るうようになった元載を誅殺した。
子儀は代宗にはいかんともできず、次代の德宗皇帝時に隠居させることでけりをつけることができた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます