五月庚辰,宰相鄭餘慶が罷免された。
事務官の主書滑渙が宦官劉光琦と結託し専権し、宰相杜佑、鄭絪等はこれに媚びていたが、
餘慶は同ぜず渙を叱責排除したため、、宦官勢力により罷免された。
六月癸己、冊太后により大赦。
六月丁酉,高崇文は鹿頭關に劉闢軍を破り、癸卯,漢州を収復した。
山西嚴礪もまた劉闢軍を綿州石碑谷に破った。
閏六月壬戌朔,淄青平盧軍節度使李師古が薨じた。
淄青平盧軍は山東十二州を領する大藩で、正己→納→師古と三代にわたり自立していた。師古もまた不順
であったが、唐朝はその勢力わ怖れて侍中に任じて優遇していた。師古は弟師道と不和であったので、
自分の死後に師道が継承することを嫌っていたが、幕僚達は擁立することにした。
七月癸丑,高崇文は劉闢軍を玄武に破った。
八月丁卯、皇子七人を親王に封じた。
八月己巳,李師道を平盧留後知鄆州事に任じた。
宰相杜黄裳は劉闢討伐が完了していないため、師道の継承を上奏し、憲宗はやむをえず認めた。
事務官の主書滑渙が宦官劉光琦と結託し専権し、宰相杜佑、鄭絪等はこれに媚びていたが、
餘慶は同ぜず渙を叱責排除したため、、宦官勢力により罷免された。
六月癸己、冊太后により大赦。
六月丁酉,高崇文は鹿頭關に劉闢軍を破り、癸卯,漢州を収復した。
山西嚴礪もまた劉闢軍を綿州石碑谷に破った。
閏六月壬戌朔,淄青平盧軍節度使李師古が薨じた。
淄青平盧軍は山東十二州を領する大藩で、正己→納→師古と三代にわたり自立していた。師古もまた不順
であったが、唐朝はその勢力わ怖れて侍中に任じて優遇していた。師古は弟師道と不和であったので、
自分の死後に師道が継承することを嫌っていたが、幕僚達は擁立することにした。
七月癸丑,高崇文は劉闢軍を玄武に破った。
八月丁卯、皇子七人を親王に封じた。
八月己巳,李師道を平盧留後知鄆州事に任じた。
宰相杜黄裳は劉闢討伐が完了していないため、師道の継承を上奏し、憲宗はやむをえず認めた。
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