大和元年5月李全略の卒後、子の同捷は横海軍滄景徳棣節度使を継承しょうとし、唐朝の征討をうけることになりました。征討使は天平軍節度使烏重胤が橫海軍節度使を兼任する形で行います。
ところが11月に烏重胤は卒します。保義軍晉慈節度使李寰が橫海軍節度使となります。
太和2年5月
成德王廷湊は同捷を支援します。
昭義劉従諫は廷湊を伐とうとします。
太和2年8月
唐朝は廷湊を征討します。
義武軍節度使柳公濟は廷湊軍を定州新樂に破ります。
劉從諫は趙州臨城、昭慶に廷湊軍を破ります。
太和2年9月
王廷湊の官爵を削り、隣道に征討を命じます。
柳公濟は深州博野に廷湊軍を破ります。
同捷討伐軍は武寧の王智興は棣州を陥しますが、主力軍の李寰は逗留し罷免されます。こんどは前夏州節度使傅良弼が橫海軍節度使です。両者とも前にでてきた名前です。
太和2年11月
ところが傅良弼は赴任途次に頓死し、右金吾衛大將軍李祐が橫海軍節度使となります。祐は元淮西の將で李愬の元に帰順し吳元濟を誅した人物で、やっと真面目な征討が始まります。
太和2年12月
魏博史憲誠の征討先鋒軍亓志紹が裏切り、憲誠を攻めました。同捷の形勢が不利となったため廷湊が志紹の自立を唆したわけです。魏博は帥の力が微弱です。
太和3年1月
憲誠は唐朝に急を告げ、来援した義成節度使李聽は宣武・河陽軍と志紹を大破し、志紹は廷湊の元に奔りました。
太和3年2月
同捷は滅亡しました。
太和3年7月
魏博・義武で軍乱が起こり、手が回らなくなった唐朝はなんの条件もなく廷湊を赦免しました。
その後大和8年11月に廷湊は卒します。
後を継承した子の元逵は唐朝との平和路線に転換します。
ところが11月に烏重胤は卒します。保義軍晉慈節度使李寰が橫海軍節度使となります。
太和2年5月
成德王廷湊は同捷を支援します。
昭義劉従諫は廷湊を伐とうとします。
太和2年8月
唐朝は廷湊を征討します。
義武軍節度使柳公濟は廷湊軍を定州新樂に破ります。
劉從諫は趙州臨城、昭慶に廷湊軍を破ります。
太和2年9月
王廷湊の官爵を削り、隣道に征討を命じます。
柳公濟は深州博野に廷湊軍を破ります。
同捷討伐軍は武寧の王智興は棣州を陥しますが、主力軍の李寰は逗留し罷免されます。こんどは前夏州節度使傅良弼が橫海軍節度使です。両者とも前にでてきた名前です。
太和2年11月
ところが傅良弼は赴任途次に頓死し、右金吾衛大將軍李祐が橫海軍節度使となります。祐は元淮西の將で李愬の元に帰順し吳元濟を誅した人物で、やっと真面目な征討が始まります。
太和2年12月
魏博史憲誠の征討先鋒軍亓志紹が裏切り、憲誠を攻めました。同捷の形勢が不利となったため廷湊が志紹の自立を唆したわけです。魏博は帥の力が微弱です。
太和3年1月
憲誠は唐朝に急を告げ、来援した義成節度使李聽は宣武・河陽軍と志紹を大破し、志紹は廷湊の元に奔りました。
太和3年2月
同捷は滅亡しました。
太和3年7月
魏博・義武で軍乱が起こり、手が回らなくなった唐朝はなんの条件もなく廷湊を赦免しました。
その後大和8年11月に廷湊は卒します。
後を継承した子の元逵は唐朝との平和路線に転換します。
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