潞州に鎮する昭義軍は李抱玉・抱眞によって建てられ、抱玉が主に鳳翔隴右に鎮するようになって以降、抱眞が潞州を強化していきました。「昭義の弓兵・歩兵」は天下に名高い強兵となり、李惟岳・田悅・朱滔などとの河北の戦乱に河東馬燧とともに唐朝軍主力を形成していました。その版図は河東道の澤潞二州と河北道の邢洺磁三州に別れ、河北三鎮を制する位置にありました。
貞元10年6月
昭義軍節度使平章事義陽郡王李抱真が卒しました。
その子緘は抱真從甥の元仲經と共謀し自立し継承しようとしました。そして成德王武俊の支援を求めましたが拒否されてしまいました。そして諸将の推薦も得ることが出来ません。
姑息な德宗皇帝は宦官第五守進を派遣して情勢をみましたが、步軍都虞候王延貴が衆望を得ているとしてこれを立てました。緘は諦めて東都に行き、仲經が責任ょ押しつけられ誅されました。
貞元10年7月
邕王謜が遥領昭義軍節度使となり、王延貴[賜名され虔休]が留後となりましたが、別將權知洺州事元誼は不服で洺州に籠もって反し、魏博田緒に通じました。誼としては昭義軍の精兵のいる河北邢洺磁三州をもって自立したかったわけです。
臨洺守將夏侯仲宣は城を以って虔休に附きました。
磁州刺史馬正卿は將石定蕃等に兵五千で洺州を攻めさせましたが、定蕃は麾下を率いて誼に附きました。
朝廷は誼を饒州刺史としまたが従いません。
虔休は自ら軍を率いて洺州を水攻めにしました。
貞元10年9/10月
虔休は元誼兵を破り、雞澤を陥しました。
貞元10年12月
虔休は洺州を攻めましたが、誼に敗れ、退却する途中で多くの兵を失いました。
貞元11年閏8月
追いつめられてきた誼は詐降して虔休兵を誘い込み虐殺しました。
貞元12年正月
誼・李文通・石定蕃・康秀玢・常悅等は麾下を率い、洺州を捨てて魏博へ奔りました。
姑息な德宗皇帝は罪せず、田緒に慰撫させるだけでした。誼は魏博の將となりました。
この乱によって抱眞が作り上げた昭義軍はすっかり弱体化してしまいました。
貞元10年6月
昭義軍節度使平章事義陽郡王李抱真が卒しました。
その子緘は抱真從甥の元仲經と共謀し自立し継承しようとしました。そして成德王武俊の支援を求めましたが拒否されてしまいました。そして諸将の推薦も得ることが出来ません。
姑息な德宗皇帝は宦官第五守進を派遣して情勢をみましたが、步軍都虞候王延貴が衆望を得ているとしてこれを立てました。緘は諦めて東都に行き、仲經が責任ょ押しつけられ誅されました。
貞元10年7月
邕王謜が遥領昭義軍節度使となり、王延貴[賜名され虔休]が留後となりましたが、別將權知洺州事元誼は不服で洺州に籠もって反し、魏博田緒に通じました。誼としては昭義軍の精兵のいる河北邢洺磁三州をもって自立したかったわけです。
臨洺守將夏侯仲宣は城を以って虔休に附きました。
磁州刺史馬正卿は將石定蕃等に兵五千で洺州を攻めさせましたが、定蕃は麾下を率いて誼に附きました。
朝廷は誼を饒州刺史としまたが従いません。
虔休は自ら軍を率いて洺州を水攻めにしました。
貞元10年9/10月
虔休は元誼兵を破り、雞澤を陥しました。
貞元10年12月
虔休は洺州を攻めましたが、誼に敗れ、退却する途中で多くの兵を失いました。
貞元11年閏8月
追いつめられてきた誼は詐降して虔休兵を誘い込み虐殺しました。
貞元12年正月
誼・李文通・石定蕃・康秀玢・常悅等は麾下を率い、洺州を捨てて魏博へ奔りました。
姑息な德宗皇帝は罪せず、田緒に慰撫させるだけでした。誼は魏博の將となりました。
この乱によって抱眞が作り上げた昭義軍はすっかり弱体化してしまいました。
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