唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 4

2020-01-23 10:06:00 | Weblog

六月癸丑,西川節度使韋皐、荊南節度使裴均、河東節度使嚴綬などが
上表して、皇太子への譲位を求めた。
 当然地方官が順宗の病状の実態を把握しているはずはなく、叔文に
 反対する宦官や官僚の画策によるものである。

宰相韋執誼は形勢不利とみて、派より離脱を図り叔文と争うことが多
くなった。

六月丁巳,叔文は母の重病→死により官を去り喪に入った。
 反対派は皇太子の擁立を図って蠢動し、焦った叔文は宰相となり、
 軍を掌握しようとしたが、宦官勢力は重病の順宗に取り次がす却
 下させた。叔文派王伾・陳諫等は一掃されることになった。
 
七月癸已,河北五鎭の一つ橫海軍節度使程懷信が卒し、子の執恭が
自立した。
 横海軍は滄景二州のみを領する小鎭であるが程日華→懷直→懷信
 と自立してきた。河北の藩鎭としては義武軍と同様に反唐朝姿勢
 は弱い。

七月乙未,皇太子が監國することになった。
 意識のない順宗の病状に乗じた宦官俱文珍等の画策である。

太常卿杜黄裳、左金吾大將軍袁滋が宦官勢力に推されて宰相となり、
德宗以来の宰相鄭珣瑜や高郢は解任された。

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