六月癸丑,西川節度使韋皐、荊南節度使裴均、河東節度使嚴綬などが
上表して、皇太子への譲位を求めた。
当然地方官が順宗の病状の実態を把握しているはずはなく、叔文に
反対する宦官や官僚の画策によるものである。
宰相韋執誼は形勢不利とみて、派より離脱を図り叔文と争うことが多
くなった。
六月丁巳,叔文は母の重病→死により官を去り喪に入った。
反対派は皇太子の擁立を図って蠢動し、焦った叔文は宰相となり、
軍を掌握しようとしたが、宦官勢力は重病の順宗に取り次がす却
下させた。叔文派王伾・陳諫等は一掃されることになった。
七月癸已,河北五鎭の一つ橫海軍節度使程懷信が卒し、子の執恭が
自立した。
横海軍は滄景二州のみを領する小鎭であるが程日華→懷直→懷信
と自立してきた。河北の藩鎭としては義武軍と同様に反唐朝姿勢
は弱い。
七月乙未,皇太子が監國することになった。
意識のない順宗の病状に乗じた宦官俱文珍等の画策である。
太常卿杜黄裳、左金吾大將軍袁滋が宦官勢力に推されて宰相となり、
德宗以来の宰相鄭珣瑜や高郢は解任された。
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