大和9年の甘露の変以降、文宗皇帝は傀儡となって、宦官勢力が全権をにぎったという記述がありますが、それほどではなく、昭義劉従諫の恫喝や一部官僚勢力の抵抗を背景として、官僚派と宦官派がせめぎあっていた状況でした。
開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。
開成5年正月
文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。
安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。
穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立が当然となりました。以降皇太子制度は形骸化します。
開成3年宦官達に堕落させられた自子の皇太子永が卒したあと、文宗は幼少の敬宗六男の陳王成美を皇太子としました。
開成5年正月
文宗皇帝が崩御すると、宰相李玨や文宗派の宦官知樞密劉弘逸は皇太子を即位させようとしますが、文宗を憎んでいた神策軍中尉仇士良、魚弘志等は挙兵し懿宗の子穎王瀍[武宗]を皇太弟として擁立し、皇太子や安王溶、賢妃楊氏を殺害して即位させました。
安王は文宗の寵姫楊氏の子で立太子を図り宰相等に阻止されていたのです。
穆宗以降、宦官が皇帝を擁立する傾向がありましたが、文宗以降ははっきりと宦官による擁立が当然となりました。以降皇太子制度は形骸化します。
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