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唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞觀十八~十九年 西暦644~45

2020-05-15 10:01:27 | Weblog
貞觀十八年 西暦644
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七月甲午,營州都督張儉率幽、營兵及契丹、奚以伐高麗。
十一月甲午,張亮,李世勣、馬周,率十六總管兵以伐高麗。
鬱屈した太宗は高句麗征討を試み始めた。親征は諫止され諸将を派遣してみました。

八月壬子,安酉都護郭孝恪為西州道行軍總管,以伐焉耆。
九月,辛卯,郭孝恪及焉耆戰,敗之。
西域では唐朝は旧高昌国に安西都護府を置き、貿易を管理しようとしたが、西突厥は焉耆国と結んで主導権をとろうとしたため、焉耆を討ちました。

十二月戊午,李思摩叛。
唐朝が支援した突厥俟利苾可汗は、薛延陀と争っていたが力量がなく、麾下の部族が反乱を起こし、可汗は唐朝に亡命しました。

貞觀十九年 西暦645
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二月庚戌,如洛陽宮,以伐高麗。
諸将の高句麗征討は進展せず、しびれを切らした太宗は親征に乗り出しました。

四月癸亥,李世勣克高麗蓋牟城。
五月己巳,平壤道行軍總管程名振克沙卑城。甲申,克遼東城。
六月丁酉,克白岩城。
已未,大敗高麗于安市城東南山,左武衛將軍王君愕死之。
勝利の連続に見えるが、実際は難戦が続き多数の犠牲者を出し成果はあがりませんでした。

九月癸未,班師。
冬季が迫り、補給も続かず、形勢不利なまま太宗は病となり撤退となりました。高句麗は唐朝軍を撃退することに成功した。当然占領地も放棄して奪回されたわけです。

九月壬申,薛延陀真珠可汗卒。
薛延陀に北邊の覇権をもたらした真珠が死に、長男[庶子]と嫡男との間で紛争が起き、長男が勝ち多彌可汗と称しました。

十一月癸未,平壤道行軍總管張文幹有罪,伏誅。
丁亥,貶楊師道為工部尚書。
十二月庚申,殺宰相劉洎。
軍事には自信があった太宗も、隋煬帝と同様の敗戦に苛立ち、腹いせとして諸臣が処罰されました。洎は太宗に謁見し、その窶れようを嘆いただけで反意ありとされました。

十二月、薛延陀侵攻夏州。
自立した多彌可汗は、太宗の高麗遠征の隙をついたつもりで侵攻しましたが、突厥中心の唐朝軍が防衛しており撃退されました。
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貞觀十五~十七年 西暦641~43

2020-05-14 10:04:48 | Weblog
貞觀十五年 西暦641
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正月辛巳,如洛陽宮,次溫湯。衛士崔卿、刁文懿謀反,伏誅。
唐朝の兵士[衛士]の待遇は悲惨なもので、太宗の遊幸の警備時、忍耐できず矢を射かけただけです。

四月辛卯,詔以來歲二月有事于泰山。
六月丙辰,停封泰山,避正殿,減膳。
太宗は気楽なもので封禪を企画したが、諫言されて中止しました。

十一月癸酉,薛延陀寇邊,李世勣,李大亮,李襲譽,以伐之。
十二月甲辰,李世勣及薛延陀戰于諾真水,敗之。
突厥後北邊で勢力を拡大していた薛延陀真珠可汗が子を派遣して突厥残部を攻撃しました。唐朝軍は突厥残部とこれを撃退しました。

貞觀十六年 西暦642
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西突厥で内乱が起こり、安西の唐朝軍が干渉して弱体化を図りました。

狩猟に明け暮れる武断派の太子承乾と違い、魏王泰は「括地志」を修すなど、太宗の好文に媚び、太子を事ごとに誣告しました。太宗も太子に不満で廃することも考えるようになりました。

十一月丁巳,高麗東部大人泉蓋蘇文弒其王武。
高麗=高句麗の実権者蓋蘇文が、従わない王を弑殺しました。唐朝は隋煬帝の敗戦に学び、高麗とは付かず離れずの関係を築いていましたが、太宗はつけ込む余地があると考えるようになりました。


貞觀十七年 西暦643
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三月丙辰,齊王祐反,李世勣討之。乙丑,齊王祐伏誅。
斉王は太宗の五男、母は隋將陰世師[唐の長安侵攻に抗戦して敗死]の子。齊州都督となった。性輕躁であった。長史となった權萬紀は札付きの諫言屋で、李靖を誣告したこともあり、祐の行動をことごとく諫め、太宗に密告した。祐は処罰を懼れて萬紀を殺して反した。唐朝軍も都督府の乱程度を鎮定するのは簡単でした。

四月乙酉,廢皇太子為庶人,漢王元昌、侯君集等伏誅丙。
丙戌,立晉王治為皇太子。
皇太子にも側近団が形成され、魏王を推す集団と激しく対立していました。太宗は魏王の策略に乗り太子を廃しました。しかし途中で魏王の策略に乗せられていることに気づき、魏王をも廃しました。そこで太宗は吳王恪[母は隋煬帝女]を太子としようとしましたが、外戚の地位を失う長孫無忌は凡庸な晉王治[太子、泰、治の三人が長孫皇后の子である]を強硬に推しました。晉王の能力を疑いながらも気弱になった太宗は無忌の強請を押し切ることができませんでした。
太宗の遣り口に不満だった君集は太子派[謀叛には武力の背景が必要ということで設定]になっていたので誅殺されました。
実際は謀叛はでっち上げで、太宗が迷走しただけだったようで、承乾も泰も殺される事はありませんでした。
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貞觀十二~十四年 西暦638~40

2020-05-13 10:03:04 | Weblog
貞觀十二年 西暦638
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二月癸亥,如河北縣,觀底柱。
太宗は平和が続き退屈になったのか河北の巡幸にでかけました。

八月壬寅,吐蕃寇松州,侯君集為當彌道行軍大總管,率三總管兵以伐之。
九月辛亥,闊水道行軍總管牛進達及吐蕃戰於松州,敗之。
おとなしくしていた吐蕃が、唐朝麾下の吐谷渾を攻撃したため討つことになりました。

北邊では突厥が滅亡したあと、薛延陀が勢力を増し、唐朝は警戒態勢に入りました。

貞觀十三年 西暦639
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二月庚子,停世封刺史。
世襲刺史制度はうまくいかず廃止することになりました。

四月甲申,中郎將阿史那結社率反,伏誅。
歸附していた突厥達の不満は増し、一部は反乱し太宗の行幸先を襲撃しました。いままでの突厥同化策を再検討する必要がでてきました。

七月庚戌,阿史那/李思摩為乙彌泥孰俟利苾可汗。
対薛延陀対策と、突厥の帰民のため、思摩を可汗として突厥の再結集を謀りました。結果的には失敗でした。

十二月壬申,侯君集為交河道行軍大總管,以伐高昌。
西域の高昌国は唐朝の力量を低く見て、どうせ遠隔地の高昌への遠征はないとみて、貿易の利を独占しようと図りました。

貞觀十四年 西暦640
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正月甲寅,幸魏王泰第。
武德九年に立太子した承乾は、正史にあるより有能で治政能力も高く、無為な太子生活に倦怠していました。弟の魏王泰はその隙を狙い太宗に取り入り、太子周辺の誣告を重ねました。自分も簒奪した太宗は不安を感じずにはいられませんでした。

八月癸酉,侯君集克高昌。
君集は長駆高昌に遠征してこれを滅ぼしました。太宗はいつもの習性で、君集の非をほじくり出し弾劾し、結果的に赦すという猿芝居をまた演じました。ただ李靖と違い君集はそれを深く恨みました。

閏十月丙辰,吐蕃贊普遣祿東贊、以請婚。上許以文成公主妻之。
吐蕃は公主の降嫁を得て、吐谷渾と同格の地位を得ました。
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貞觀六~十一年 西暦632~637

2020-05-12 10:03:58 | Weblog
貞觀六年 西暦632
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正月、文武官復請封禪,會河南、北數州大水,事遂寢。
太宗は封禪をやりたくて仕方がないが環境が整わなかった。

突厥帝国崩壊の後、東西貿易を維持するため西突厥や焉耆との交渉が続いた。

貞觀七年 西暦633
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貞觀八年 西暦634
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是夏,吐谷渾寇涼州,段志玄,樊興以伐之。
十二月李靖,侯君集,任城郡王道宗以伐吐谷渾。
西方の吐谷渾を討った。李靖は一旦引退を仄めかしたが、太宗の疑惑を避けるため征討を引き受けることにした。

十一月甲申,吐蕃贊普棄宗弄贊遣使入貢,仍請婚。
吐谷渾の背後にある吐蕃と交渉し、牽制を図ったものである。これから当分は対吐蕃関係は親密であった。

貞觀九年 西暦635
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閏四月癸酉,任城王道宗敗吐谷渾于庫山。
吐谷渾を平定し、新王を立てた。李靖は再び大功を立てたが、太宗はやはり中傷させ、不満な靖は閉居してしまった。

五月,庚子,太上皇[高祖]崩,皇太子聽政。
高祖も突厥平定以降は、太宗と和解していたようである。太宗は子として喪に服したため太子が見事に聴政を務めた。

貞觀十年 西暦636
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六月己卯,長孫皇后崩。
皇后は賢明で、太宗の行き過ぎを制御し、無忌など長孫一族が権力を振るうのを抑えていた。

貞觀十一年 西暦637
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六月己未,詔荊州都督荊王元景等二十一王所任刺史,鹹令子孫世襲。
戊辰,又以功臣長孫無忌等十四人為刺史,亦令世襲,非有大故,無得黜免。
太宗は王朝の安定策として封建制を思いつき、皇室21名と功臣14名を世襲都督/刺史として統治させることにした。これには弊害も多く、数年で停止することになった。

この歳、太宗は故武士彠獲の女,年十四を後宮に入れ才人とした[後の則天皇帝]。

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貞觀三~五年 西暦629~631

2020-05-11 10:04:24 | Weblog
貞觀三年 西暦629
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正月、沙門法雅坐妖言誅。司空裴寂嘗聞其言,辛未,寂坐免官,遣還鄉里。
目障りな建国の功臣裴寂に、根拠薄弱な言いがかりをつけて排除した。

四月乙亥,太上皇徙居於大安宮。
宮の名称を変更しただけである。

八月丁亥,李靖,以伐突厥。
十一月庚申,李世勣,柴紹,任城郡王道宗,衛孝節,薛萬淑,以伐突厥。
勢力拡大中の薛延陀と同盟した。疲弊している突厥は盟約を求めたが、太宗は攻撃することにした。
突厥の突利可汗[前可汗始畢の子]が頡利と対立した入朝してきた。

貞觀四年 西暦630
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二月甲辰,李靖及突厥戰於陰山,敗之。
三月甲午,李靖俘突厥頡利可汗以獻。
李靖は頡利可汗を攻撃し、狼狽した頡利可汗は和約を求めた。そこで唐朝は唐儉を使節として交渉させたが、靖はその油断をついて攻撃し頡利を捕らえた。太宗の悪い癖だが、大功績を上げた武将に嫉妬し、失態を弾劾させ、太宗がこれを赦すという猿芝居をこの時も靖に行った。増長させまいと言うつもりかもしれないが。

四月戊戌,西北君長請上號為「天可汗」。
突厥帝国が滅亡したので薛延陀やその他諸部の酋長は太宗に北邊の皇帝となることを請うた。中国本土+北邊に君臨することになった。

四月戊戌,上御順天樓,盛陳文物,引見頡利。
武德九年の臣従の恥を晴らしたわけである。

貞觀五年 西暦631
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正月甲戌,宴高昌王文泰及群臣。
西域より高昌王が入朝し、西部への拡大路線が検討された。

八月戊申,殺大理丞張蘊古。
太宗は、狂人に対する処罰に反対した蘊古を激怒して殺した。

九月上修仁壽宮,更命曰九成宮。又將修洛陽宮。
突厥に勝ち。太宗にも驕りが生じたが、まだこの時点では諫言を受入れる度量があった。

十二月己亥,朝集使利州都督武士獲等復上表請封禪,不許。
太宗は多額の費用がかかる封禪[山東の泰山に行き、天を祀る儀式]を望み、指嗾して上表させた。一応自分にはまだ徳がないと辞退するのが慣例である。
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貞觀元~二年 西暦627~28

2020-05-10 10:07:47 | Weblog
貞觀元年 西暦627
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正月乙酉,改元「貞觀」。
即位した翌年改元するのは通例である。

正月辛丑,燕郡王李藝反於涇州,伏誅。
羅藝[賜姓されて李]は幽州を以って唐朝に帰した功臣で、一貫して軍功を上げていたが、建成に近く、太宗とは良くなかったため殺された。

四月癸巳,涼州都督、長樂郡王幼良有罪,伏誅。
前年の幽州盧江王に引き続く反太宗派皇族の粛清。

五月、苑君璋帥衆來降。
北邊で突厥に付いていた君璋も、唐国内が治まってきたのをみて配下に勧められ帰順してきた。

六月辛丑,封德彝薨。
德彝は煬帝を弑殺した宇文化及の党であり、札付きの佞臣だつたが、宇文士及とともに有能であったため唐朝でも重用されていた。

秋,突厥は大雪で,雜畜が多く死に,饑饉も続き疲弊した
太宗は前年の恥を思い、兵備につとめ突厥への攻撃を謀っていた。

九月、辛未,幽州都督王君廓謀叛,道死。
前年、君廓は反世民派の皇族幽州都督盧江王瑗を挑発して反死させたが、太宗が今度は自分を除こうとしていると思い逃走したが殺された。

十二月戊申,利州都督李孝常、右武衛將軍劉德裕謀反,伏誅。
反太宗派軍人の粛清である。


貞觀二年 西暦628
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正月辛亥,長孫無忌罷。
太宗の皇后長孫氏は、外戚である無忌が、政争に巻き込まれやすい宰相職にあることを喜ばず解任することを求めた。

四月壬寅,朔方人梁洛仁殺梁師都以降。
北邊で最後まで突厥に附いていた師都だが、周辺は唐朝への帰属を望み、従わない師都を殺して帰属してきた。

六月辛卯,辰州刺史裴虔通等五名以弑隋煬帝削爵,流驩州。
虔通等は隋煬帝が殺されたとき、中堅将校として加わっていた。それから10年以上も経ち、突然それまでの唐朝への功績を無視され弑殺の罪で流罪となった。最悪のはずの宇文化及の弟士及は太宗と親しかったためなんの処罰もされなかった。

十月戊子,殺瀛州刺史盧祖尚。
太宗は、有能な祖尚を廣州都督に任じたが、老齢のため暑熱の地へ行くことを断ったため殺した。

この歳、突厥から薛延陀が自立しその長である夷男が可汗を称した。
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武德九年 西暦626

2020-05-09 10:00:46 | Weblog
武德九年 西暦626
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七月壬辰,配下の高士廉,房玄齡を宰相に,長孫無忌,杜如晦を要職に登用した。

八月甲子,即皇帝位於東宮顯德殿。
世民[太宗]は高祖を退位させて押し込めた。

八月癸未,突厥寇便橋。乙酉,及突厥頡利盟於便橋。
当時は突厥帝国は全盛で、弱体な唐朝は朝貢し臣従していた。太宗が可汗の承認を得ない簒奪行為を行ったため頡利が問責のため侵攻してきた。
戦力的にも名聞的にも対抗できない太宗は、重臣と共に京師を出て頡利可汗に謝罪し、朝貢を申し出て赦された。正史では勇敢な太宗が可汗を責めたなとの妄言を記しているが、太宗自身が恥辱と感じていることは後に記されている。

九月、突厥頡利獻馬三千匹,羊萬口;上不受。
これが朝貢の記事である。形式的な馬羊に対して支払いをしたわけである。

十月癸亥,立中山郡王承乾為皇太子。
長子承乾を太子としまだまだ不安定な基盤固めをした。

十月癸酉,裴寂等44人に食實封を与えた。
唐朝では、[例 宋國公食邑三千戸]のような封爵を与えるが、三千戸は虚構であり格式でしかない。實封と書かれているものが実収である。その場合も実際の封地が与えられるのではなく、その分の給与が与えられるだけである。また實封は本人に与えられるわけで、そのまま子孫に継承されるわけではない[消滅したり、半減したりする]。
太宗の元家臣を中心に大盤振る舞いをして功績を賞し、不満を解消させたのである。

十月庚辰,宰相蕭瑀、陳叔達罷。
高祖時代の宰相達が太宗の前で激しく論争した。太宗は煙たい老臣を排除する口実を得た。

十一月庚寅,降宗室郡王非有功者爵為縣公。
唐朝は建国以来、多くの親族もすべて郡王等に封じていた。そのためあまりに郡王等が増殖したため、功績のある者以外を格下げした。これは親族の整理と、前記の實封配布の経費捻出の意味を持つ。
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太宗前史

2020-05-08 10:00:16 | Weblog
太宗[世民]は正史においては理想的な皇帝とされているが、実体は兄弟殺しで簒奪者であり、無意味な高句麗戦役を起こして多くの犠牲者をだし、きまぐれに臣下を左遷誅殺するなど、「第二の煬帝」とも言える人物であったが、周囲の環境の好転などで亡国に至らず、自分を賞賛する記録を残させて名君を装った。

李世民は唐帝国を開いた高祖[李淵]の次男。隋帝国に対する太原での反乱から建国までの軍事行動に参加し一応の貢献をした。
父の反乱を促したとか、作戦提案で大きな成果を上げたとかはヨイショ記事で疑わしい。

開國後は秦王となり、高祖や皇太子となった兄建成の代理として各戦線の旗頭として活躍した。
高祖は22人の子供がいるが、獨孤皇后の生んだ建成.世民.元吉[齊王]だけが軍事行動可能の年齢で、あとは幼かった。

武德元年の対薛擧戦では敗北[責任は劉文靜がとらされた。一応病気と言うことで]
その後、擧が卒し、子の仁杲戦には勝利し名誉回復をした[京師西方の敵を滅ぼす]

武德三年、太原を脅かした対劉武周戦に勝利した。

武德四年 一方の雄であった竇建徳を大破し、東都王世充を降すという大功績をあげる。

[帯びた官職]
 太尉・尚書令 最高官 のちに中書令も兼ねる
 陝東道・益州道・江州道大行臺尚書令 山東・劍南・江南の武力を握る
領左右十二衞大将軍 中央軍を掌握
 天策上將 軍人の最高位
これでは絶対独裁者であり、皇太子・齊王の嫉視を受けるのは当然である。
匹敵するとすれば 代宗時の郭子儀か、簒奪した朱全忠であるが、親王であるだけたちが悪い。

その後の対劉黒闥・輔公祐戦闘では、高祖はあまりに功績を上げすぎた世民を警戒し、太子建成や趙郡王孝恭を起用して征討にあたらせた。

本来は仲の良かった三兄弟だが、それぞれの側近団もできてお互いに対立し合う関係になった、太子建成と功績が劣る齊王元吉は連携し、世民と対峙することになった。
高祖は、世民を優遇しすぎたことについて憂慮したが、優柔不断でずるずると解決を延ばしている間に、対立の深刻さは増していった。解決策としては建成を廃位するか、世民を殺すか、もしくは両者を殺すかでしかなかったと思うが、高祖にはできなかった。

正史で書かれているのは太宗即位後のヨイショ記事だが、それでも太子建成の人格や統率力に問題はなく、そのままであれば次代は建成のものだった。正史は建成が蕃族を騙して虐殺したという記事を大きく載せているが、世民が降伏した夏県民を皆殺しにしたという記載は小さい。

武德元年六月
唐帝国が安定化し、形勢が悪化することを憂慮した世民集団は、建成等が陰謀を企てていると誣告し、その事情説明のために玄武門から入朝する建成・元吉を襲撃し殺害した。
本来建成は皇太子であり、陰謀を企てるとすれば世民のほうである。この場合も門番常何を買収して逃亡できなくしているのも世民側である。
そして建成・元吉の十数子を全て殺害した。

そして勇猛な軍人尉遅敬德を高祖のもとに派遣し恫喝した。やむをえず高祖は世民の立太子を認めるしかなかった。
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懿宗史・宰相年表をアップしました。

2020-05-07 09:31:31 | Weblog
今までの 代宗、德宗、順宗・憲宗、文宗、武宗、宣宗、懿宗史を
PDF形式でデータをアップロードしました。
代宗史
德宗史
順宗憲宗史
文宗史
武宗史
宣宗史
懿宗史
リンクをクリックするとPDFが開きます。

宰相一覧
クリックすると表が開き、各宰相名をクリックするとPDFが開きます。
宰相年表[附使相]
クリックすると表が開き、右クリック「リンクを開く」で各皇帝の年別宰相一覧とその官職[使相も]を表示するPDFが開きます。

次は唐初の太宗史にいく予定です。
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咸通十一~十四年 西暦870~73

2020-05-06 10:00:51 | Weblog
咸通十一年 西暦870
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正月雲南蠻寇黎、雅二州,及成都。
歴代の節度使の怠慢と、雲南蠻への依存の為、西川の防衛は破綻していた。中央軍の派遣により撃退はできたが損害は大きかった。

四月丙午,韋保衡、宰相に。
保衡は公主との結婚より1年ほどで宰相に登りつめた。才学に優れぬ保衡だが、権力欲は強く、信任を利用して誣告に励んだ。

八月,乙未,同昌公主薨。殺醫待詔韓宗紹。
九月丙辰,劉瞻罷。
懿宗皇帝と郭妃の愛娘同昌公主[保衡の妻]が病死した。懿宗は激怒して治療に当たった医師20人を殺し、その親族300人を投獄した。宰相劉瞻はそのやり過ぎを諫めたが、かえって罷免された。保衡は瞻の与党も連座させ各地に左遷した。

九月、魏博軍亂,殺其節度使何全皞,將韓君雄自稱留後。
全皞は年少で驕暴好殺、將士の衣糧を減らしたため、牙軍の怒りをかって殺された。

咸通十二年 西暦871
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四月癸卯,以路巖同平章事,充西川節度使。
腐敗官僚の筆頭巖も保衡の讒言により逐われた。

咸通十三年 西暦872
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正月、幽州節度使張允伸薨、子簡會が継ぐ。
三月癸酉,平州刺史張公素逐簡會,自稱留後。
允伸は23年にわたり幽州をよく統治していた。それでも実力主義の幽州節度では、幼少の簡會への世襲は困難であった。

五月、韋殷裕詣閣門告郭妃陰事。
懿宗の寵愛が厚い郭妃一族を弾劾する事件が起こり、懿宗は保衡の誣告を受けて、前宰相于琮の与党を排除した。

咸通十四年 西暦873
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七月戊寅,上疾大漸,中尉劉行深、韓文約立少子普王儼[僖宗]。辛巳,上崩于鹹寧殿。
怠慢・愛妻・我が儘の懿宗が崩御し、幼少・魯鈍の僖宗が擁立された。懿宗時代の宦官達は腐敗していたが政権を牛耳ろうというほどの者はいず、同じく腐敗した官僚とともに私利を貪るだけであった。
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咸通九~十年 西暦868~69

2020-05-05 10:00:03 | Weblog
咸通九年 西暦868
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六月、邛州刺史充定邊軍節度眉蜀邛雅嘉黎等州觀察統押諸蠻並統領諸道行營制置等使を置いた。
李師望が雲南蠻が要地である西川に入寇することを防ぐ専用の節度使[西川の西部を切り取った広大な地域]を提案し認められた。しかし現地の実情に合わない紙上の空論であった。

七月,武寧軍節度糧料判官龐勳反于桂州。
嶺南道では雲南蠻の侵攻に対する防禦の援軍として、悪名高い武寧軍の残党を徴募して、治安の維持と防衛の両立を図っていた。徐泗観察使は二千名を三年契約で派遣していたが、觀察使崔彥曾は交代経費を惜しんで六年たっても交代させなかった。桂州にいた八百人の兵士は望郷の思いに耐えかねて都將を殺し、判官龐勳をリーダーとして徐州に帰ろうとした。嶺南の諸軍は弱体なうえ、思いは同じなのでこれを討とうとするものはいなかった。

十月庚午,陷宿州。丁丑,陷徐州,觀察使崔彥曾死之。
途次何度も討伐する機会はあったが、違約しているのは唐朝側という引け目もあり遷延していたが、宿州にたどりついた龐勳軍には参加する者も多く、討伐軍は敗北し乱は一気に広がった。
新紀では彥曾は殺害されたと書いてあるが、実際は幽閉され、殺害はもっと後である。

十一~十二月,龐勳陷濠、和、滁州。
淮南にはろくな兵備がなく州縣は次々と陥ちた。

十一月康承訓が,王晏權や,戴可師、馬舉,曹翔などの神策軍を率いて討伐することになった。
腐敗した唐朝軍であるので、将軍の名簿はともかく、なかなか実働軍が揃わず。本来雑軍であるはずの龐勳軍が優勢だった。さすがに動員が進むと包囲網が形成された。

咸通十年 西暦869
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正月丁卯,同昌公主適右拾遺韋保衡。
公主は懿宗とその愛妻郭妃の最愛の娘である。これにより保衡はまたたくまに宰相に駆け上がる。

九月癸酉,龐勳伏誅。
承訓は大軍を動員しやっと勳を追討することがで来た。しかし山東は荒廃し、唐末の大乱の原因となっていった。

十月、康承訓為河東節度使同平章事
手際はよくなかったが、平定の恩賞である。しかし十一年正月には韋保衡等に讒言され失脚し左遷されることになった。これは軍人の間に唐朝への不信感を招き、真面目に討伐しようという気持を失わせる原因となった。

十二月壬子,雲南蠻寇嘉州。
龐勳の乱がすんで間もなく、定邊軍は雲南蠻に攻撃されるとたちまち崩壊し、成都外郭までが陥落した。
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咸通五~八年 西暦864~67

2020-05-04 10:03:57 | Weblog
咸通五年 西暦864
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正月丙午,雲南蠻寇嶲州。三月,寇邕州。
唐朝軍は雲南蠻に大敗したが、節度使康承訓は破ったと上奏した。

咸通六年 西暦865
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五月,高駢及雲南蠻戰於邕州,敗之。
新紀・旧紀ではという記録である。通鑑では九月で場所も違う。

咸通七年 西暦866
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三月,成德軍節度使王紹懿卒,其兄子景崇自稱留後。
成德では王氏が安定した世襲[廷湊-元逵-紹鼎-紹懿-景崇と続く]している。もはや唐朝は追認するだけである。

六月,魏博節度使何弘敬卒,其子全皞自稱留後。
同じく魏博でも何氏世襲[進滔-弘敬-全皞]で唐朝ノータッチだが、こちらは不安定である。

十月壬申,宰相楊收罷。
この当時の宰相は宦官と結託して収賄・売官につとめていた。收も宦官楊玄價等と結託していたが要求に十分応えなかったので追放されたのである。

十月,高駢克安南。
宦官李維周に讒言されて罷免され王晏權に交代させされたが、遠隔地のためすぐは伝わらず、駢は力戦して雲南蠻を大破し、安南都護府を奪回した。そして維周を避けて上奏した。懿宗皇帝は喜んで駢を安南節度に再任した。

咸通八年 西暦867
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七月乙巳,懷州民亂,逐其刺史劉仁規。
軍乱や賊による乱はよくあるが、乱政による民乱はめずらしい。旱天による訴えを無視したためである。
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咸通三~四年 西暦862~63

2020-05-03 10:00:17 | Weblog
咸通三年 西暦862
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四月、嶺南節度使を東西に分割した。
従来は嶺南五道をすべて廣州の嶺南節度使の管轄下においていたが、雲南蠻の侵攻が激しいため、邕管経略使を嶺南西道節度使として防衛にあてることになった。

七月,武寧軍亂,逐其節度使溫璋。
札付きの武寧軍がまた軍乱を起こし節度使を逐った。璋に問題があったわけではなく、牙軍が専横であり統制がとれなかった。仇甫を討伐した浙東觀察使王式が後任となった。

八月、王式が武寧牙軍を誅殺。
凱旋軍である精強な忠武・義成軍を率いた式は、武寧牙軍を集め数千人を誅殺した。これにより主力は潰滅したが、残党は地方に散って賊となった。武寧軍節度は一時廃止された。

九月,嶺南西道軍亂,逐其節度使蔡京。
京は自分の提唱した嶺南西道節度の設立に熱中し、低待遇で將士を苛酷に取り扱ったため、軟弱な南方兵が耐えられなくなった。

十一月,雲南蠻寇安南。
雲南蠻の大軍が来襲し都護蔡襲は必死に援軍を求めたが、嶺東節度韋宙は嶺西のほうが危険だとして支援しなかった。

咸通四年 西暦863
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正月庚午,雲南蠻陷安南,都護蔡襲死之。
孤立した襲は力戦したが潰滅し敗死した。

二月,秦州經略使高駢為安南經略招討使。
康承訓、宋戎、高駢と招討使が次々と代わり統制がとれなかった。

十二月乙酉,昭義軍亂,殺其節度使沈詢。
軍乱とあるが、詢の妾と私通した奴隷が軍人と共謀して詢を殺害したという事件である。
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大中十三年~咸通二年 西暦859~861

2020-05-02 10:03:32 | Weblog
大中十三年 西暦859
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八月癸巳,宣宗皇帝崩御,年五十。
長子の鄆王溫が即位[懿宗]、というと順当なようだが、宣宗は蘷王滋を後継に望んでいた。宦官でも枢密使王歸長.馬公儒、右軍中尉王茂玄はその遺志をくむつもりであったが、仲間はずれになった左軍中尉王宗實は実力で鄆王を擁立した。鄆王は容姿は立派だったが凡才で宣宗に及ぶべきものはなく、政治は共に腐敗した宦官と経略がなくこれまた腐敗した官僚に任せた。

十二月、浙東で賊帥仇甫が勢力を拡大した。

是歲,雲南蠻陷播州。
韋皐が雲南を来附させて以降、その子弟達は大挙して成都に奨学金付きで留学していた。その経費が馬鹿にならないので西川節度使杜悰は削減しようとした。雲南王は怒り、葬礼の行き違いもあり、王龍乃は唐と断交して皇帝となり、國號大禮,改元建極を制定した。


大中十四年/咸通元年 西暦860
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正月,浙東人仇甫反,安南經略使王式為浙江東道觀察使以討之。
財源である浙西・浙東での乱に憂慮した唐朝は、文官の觀察使鄭祗德に代えて、安南鎭撫で実績のある王式[播の甥]を登用した。式は早期解決のため大兵を動員することを請い認められた。

八月己卯,仇甫伏誅。
王式は淮南に流されていた回鶻・吐蕃を騎兵として用い、大軍をもって一気に甫軍を蹴散らして平定した。しかし賊自体は解体しただけで各地に盤踞している。

十月,安南都護李鄠克播州。
十二月戊申,雲南蠻寇安南。
鄠は播州を取り戻したが、かえって雲南を刺激し、安南府に侵攻し鄠を逐った。

十一月丁丑,改元[咸通]

咸通二年 西暦861
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六月,鹽州刺史王寬為安南經略招討使。
鄠は安南を取り戻したが、失態を咎められ解任され。 王寬が後任に

八月,雲南蠻寇邕州[通鑑では七月陥邕州]。
前経略使段文楚が軍費を使い込み、新使李弘源には守るべき兵力がなかった。

九月,寇巂州[西川所管]
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武宗史 まとめをアップしました

2020-05-01 10:00:46 | Weblog
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次回は懿宗にいくか、穆宗・敬宗にいくか迷っています。いずれも無能な皇帝たちです。
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