唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

鳳翔 李楚琳の乱

2023-02-13 08:07:23 | Weblog
鳳翔隴右節度使朱泚は弟幽州節度使朱滔の反乱に与してはいませんでしたが、朝廷としては警戒して節度使を解任しました。宰相盧杞は同輩の宰相張鎰を追い出すために、朱泚の影響力がある鳳翔には重臣の配置が必要だと言いふらし、鎰を後任とすることに成功しました。

建中4年10月
涇原軍が反し、德宗皇帝が奉天へ奔ると、鎰は鳳翔へ迎えようとしまず貨財を獻じました。
後營將李楚琳は剽悍で威權がありましたが、朱泚の配下で信任を得ていました。そのため行軍司馬齊映・齊抗などは楚琳を隴州へ出そうとしていましたが、楚琳は行かずその党とともに反し鎰や王沼等を殺しました。

楚琳は節度使として自立し、朱泚に附きました。

隴州刺史郝通も楚琳の配下となりましたが、隴右節度判官隴州留後韋皋は同ぜず隴州を守りました。

楚琳は朱泚の奉天城攻囲を支援していましたが、李懷光の来援によって失敗すると両端を持するようになり、德宗皇帝にも遣使するようになりました。
德宗皇帝はやむをえず楚琳を鳳翔節度使に任じましたが使節を抑留していました。

興元元年3月
德宗皇帝は「鳳翔を味方にしないと劍南・山西からの輸送路が絶たれます」という陸贄の諫言を入れ楚琳を赦す方向に転じました

興元元年4月
楚琳は將石鍠を渾瑊に従い武功を攻めさせましたが、朱泚に降ってしまいました。

興元元年6月
楚琳は京師から逃げてきた源休、李子平を誅しました。

興元元年8月
副元帥李晟は楚琳を誅することを求めましたが、德宗皇帝は楚琳を金吾大將軍とし、晟を後任の鳳翔節度使としまし、晟は張鎰殺害に加担した裨將王斌等十餘人を誅しました。
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忠武軍 周岌の乱

2023-02-12 08:16:45 | Weblog
乾符~廣明年間、王仙芝・黄巣の乱により唐朝の河南藩鎭軍の規律はゆるみ、兵乱が続発し、任地からの離脱や帥の追放が続発するようになり、黄巣軍の北進を止められなくなりました。

廣明元年9月
徐州・許州・兗州等河南各軍は兗州節度使齊克讓の指揮下に、溵水で黄巣北進を阻止するために集結していました。

強暴な徐州兵の増援軍が許州を通過しました。許州節度使薛能は前任が徐州節度使でうまく統治していたので、徐軍吏も懐いていました。そこで城にいれて優待しましたがやはり放埒でした。
許州軍將周岌は、徐州軍が家族を害するのではないかと懼れ、溵水よりを軍を還して徐兵を殺し、能を[旧唐]放逐/[新唐]殺害し自立しました。

これを聞いた溵水の徐州軍主力は將時溥に率いられて勝手に帰還しました。

兗州節度使齊克讓は兵乱を懼れて兗州に戻り、他軍も解散し、溵水諸軍は自壊しました。
黄巣はこれを聞いて北上してきました。

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宣武の軍乱 李乃・鄧惟恭・陸長源

2023-02-11 08:41:42 | Weblog
宣武節度使李萬榮は自立してまもない貞元12年6月に重病となってしまった。監軍霍仙鳴は押牙劉沐に軍政を委ねた。萬榮の子乃は規律のみだれた宣武軍士を煽動し、沐を追い出し、將伊婁說、張丕を殺させました。萬榮の腹心で重鎮の都虞候鄧惟恭は監軍俱文珍とともに乃を捕らえ京師に送りました。

貞元12年7月
朝廷は元宰相の東都留守董晉を同平章事宣武節度使として送り込み、乃は虔州司馬へ左遷しました。

惟恭は自立を策しましたが、晉が急行したために準備ができず、やむをえず諸将を率いて出迎えました。老獪な晉は惟恭を安心させ当座の軍政を委ねました。

貞元12年8月
硬骨果断な汝州刺史陸長源を宣武行軍司馬としました。晉は硬軟を使い分けて將士を慰撫していったので晉が卒するまでは安撫しておくことができました。

貞元12年11月
都虞侯鄧惟恭は徒党を組み亂しようとしましたが、警戒していた晉に捕らえられ京師に送られ流されました。

貞元15年2月
董晉が卒し、陸長源が継ぐと即日軍乱が起き長源や節度判官孟叔度、丘穎が殺されました。
長源は厳酷で、叔度・穎は軽薄で將士から嫌われていました。
監軍俱文珍は宋州刺史劉逸准[全諒]を呼び鎮定させました。逸准は乱の黒幕で、まもなく節度使に任ぜられました。これにより宣武軍はまた半独立の状態になりました。
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幽州 朱希彩の乱

2023-02-10 08:47:19 | Weblog
安史の乱後、史朝義を裏切って殺した李懷仙は、検校侍中幽州節度使として帰朝した賊將の中ではトップの待遇を受けました。

大曆3年6月
理由は不明ですが、麾下の兵馬使朱希彩、朱泚、泚弟滔は懷仙とその一族を殺害しました。そして希彩を擁立しました。

大暦3年閏6月
懷仙と親しかった、成德軍節度使李寶臣は希彩を攻めましたが敗北しました。

朝廷はやむをえず、宰相東都留守王縉に盧龍節度使を領させ、希彩を知幽州留後としました。

大曆3年7月
王縉は幽州に至りましたが、到底制することができないのを知り、数日で帰還しました。

大曆3年11月
希彩は節度使となりました。
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義武軍の乱 張茂昭の易定奉還

2023-02-09 08:18:28 | Weblog
義武軍節度易定觀察使は成德軍節度より別れてた藩鎭で、初代張孝忠より唐朝に友好的でした。幽州と成德の二大藩鎭の間にあり常に圧迫を受ける位置にありますが、強力な軍を維持するには財政的に困難な状況でした。それでも驍將孝忠の時代は圧力をはねつけていましたが、二代茂昭となると唐朝の強力な支援がないと存続も困難でした、茂昭は入朝して優遇を受けると、易定二州を唐朝に奉還し、それによって張氏一族の繁栄を図ろうと考えました。

元和5年10月
成德王承宗征討が戦果無く終わると、茂昭は二州奉還を実行し、自分は河中節度使を与えられ、一族を引き連れて赴任していきました。

河北の情勢を考えると、易定二州が唐の領域になるということは大変なことでした。河東や昭義という唐朝領域から河北内部へ易定二州が延びれば、幽州・成德は分断され、朱滔の乱のような東都への侵攻などは無理になります。

当時、幽州劉總は父を殺して継承したばかり、成德は反乱を有利に終結したばかり、魏博の田季安は病身、横海の程權は唐朝寄りであり、強力な干渉をできる藩鎭はありませんでした。

唐朝は文官左庶子任迪簡を行軍司馬として後任に送り込み、茂昭は全権を委ねて去りました。

不満な將楊伯玉は牙軍を唆して乱し迪簡を捕らえました。驚いた牙軍主流派は伯玉を殺しました。

ところが別將張佐元がまた乱し、迪簡を捕らえました。迪簡は閉口して帰朝を求めましたが、主流派は佐元も殺し留まることを求めました。

茂昭が府庫を総ざらえにしていったため、迪簡には將士を宥めるための資財がありません。
迪簡は正殿に入らず戟門に身を置き、度支からの供給を待ちました。
將士達は感心して迪簡を推戴し、まもなく綾絹十萬匹が到着して地位が安定しました。
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河中の軍乱 李國貞殺害

2023-02-08 08:20:59 | Weblog
安史の乱も史思明が子朝義に殺され終息が見えてきましたが、まだまだ征討が終わってはいませんでした。定見無く無能な肅宗皇帝と宦官李輔國は、軍人への不信感は強く、特に異民族以外の軍人は敬遠する傾向がありました。当時河東道地域に集結した朔方軍中心の唐軍も、主帥郭子儀を警戒し、文官の李國貞を都統としました。國貞は有能な官僚ですが、軍人ではありません。

上元2年8月
殿中監李若幽[賜名され國貞]を戸部尚書朔方鎮西北庭興平陳鄭等九節度行營兵馬及河中節度都統處置使とし、絳州に屯させました。

元年建卯月
河東軍に軍乱が起き、文官の節度使鄧景山が殺されました。

当時絳州には軍糧の蓄積はなく、將士は不満でした。國貞は供給を求めましたが得られません。
突將王元振は乱を企み、將士に「都統はこの食糧不足の時に、我々に自宅の修築の手伝いを命令されている」と告げました。もともと荒れていた將士は「我々は土方扱いか」と暴発し、都統宅を襲撃し國貞を殺しました。

翼城に屯していた鎮西北庭行営兵も乱し、節度使荔非元禮を殺し、裨將白孝德を擁立しました。

河東道全域の軍が反乱を起こし、当時肅宗皇帝は重病でもあり朝廷は動揺しました。

最後の頼みの綱として、敬遠していた郭子儀を汾陽郡王知朔方河中北庭潞澤節度行營兼興平定國等軍副元帥とし、京師にあった絹四萬匹、布五萬端、米六萬石を浚えて鎮圧を依頼しました。

元年建辰月
子儀は李輔國等が事を左右する事を熟知していましたので、病中の肅宗皇帝に圧して拝謁し、直接の全権委任を受けてから進発しました。

寶應元年四月
肅宗皇帝は崩御しました。李輔國が代宗皇帝を擁立し、張皇后や趙王を殺しました。

子儀が軍に到達すると、將士達は直ちに服しました。

寶應元年5月
子儀は元振や同謀四十人を誅し規律を取り戻しました。河東軍でも粛清が行われました。

寶應元年8月
しかし子儀が京師に戻ると、宦官程元振は誣告し、副元帥・節度使は解任され兵権を解かれました。
軍人達の唐朝への不信感は増大するばかりです。
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河東の軍乱 鄧景山の殺害

2023-02-07 08:56:27 | Weblog
上元2年5月、戦争には弱かったけれども軍政には長けていた河東節度使王思禮が卒しました。彼は膨大な軍糧を蓄積していましたが、後任の軍人管崇嗣は無能でたちまち散逸させてしまいました。
そこで文官で厳格な尚書右丞鄧景山を任命しました。
景山は赴任すると將士の不正を厳しく摘発しました。

元年建卯月、景山は裨將の不正を糾弾し死刑を宣しました。その弟が刑を代わると申し出ましたが拒否しました。ところが馬一匹を納付すると申し出ると赦しました。
諸将は「我らは馬一匹以下なのか」と怒って乱し、景山を殺しました。
姑息な肅宗皇帝はあわてて「処罰しないから落ち着いてくれ、諸君の希望の帥を選んでくれ」と低姿勢にでました。
諸將は都知兵馬使代州刺史辛雲京を推し、雲京は河東節度使となりました。実の所雲京は乱の黒幕であったかもしれません。

この肅宗の愚策はたちまち河中に波及し都統李國貞も殺されるようなことが起きました。

郭子儀が河中の軍乱を鎮定したことを聞き、雲京はあわてて景山を殺したもの數十人を誅しました。



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涇原 田希鑒の乱

2023-02-06 08:56:27 | Weblog
建中4年10月、東都の救援のため節度使姚令言に率いられた涇原軍5千は、途次京師で反乱し德宗皇帝を逐い、朱泚を擁立しました。
令言は留守として兵馬使馮河清を涇原留後とし、判官姚況を知涇州事としていました。
河清等は反乱に従わず、德宗のいる奉天に甲兵、器械百餘車を送り込みました。德宗は河清を涇原節度使とし、況を行軍司馬に任じました。

しかし軍内には反卒となった涇原兵士の家族・友人や、旧幽州兵も多く、朱泚に親しみを持つ分子もあり不安定な状況でした。

興元元年4月
朱泚、姚令言は河清を誘いましたが従いません。そこで大將田希鑒を誘い河清等を殺害させました。
泚は希鑒を涇原節度使としました。

興元元年6月
李晟が京師を陥し、逃亡してきた泚・令言を希鑒は受け入れず、旧涇原兵は令言を殺し希鑒の元に戻りました。

興元元年閏10月
涇原節度使田希鑒を衛尉卿に任ずるという命令が下りました。
しかし叛者を赦さない鳳翔副元帥李晟は対吐蕃防衛巡察と称して涇州に入り、希鑒やその一党を誅殺しました。
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甘露の変

2023-02-05 08:00:06 | Weblog
文宗皇帝は擁立してくれた宦官勢力が疎ましくなり、幹部宦官を排除するために宋申錫を用いて画策したが、宦官王守澄に先手をうたれ失敗しました。その後も画策しましたが、党争しか頭にない旧来の官僚[牛李の党]に失望し、その頭領たる李德裕・李宗閔を共に排除し、理財家王涯や第三勢力の李訓等を登用してきました。次々と新登用がありましたが、官僚達も文宗皇帝が党争を制圧するための対策と理解していました。

大和9年6月
左神策中尉韋元素、樞密使楊承和、王踐言を地方に追い、9月には守澄の実権を奪い、10月には毒殺しました。しかしこれらは後継の中尉仇士良や魚志弘の支援があってこそでした。宦官勢力も一丸ではなく、旧勢力の退陣は歓迎するところでした。

宰相陣の中では李訓・舒元輿が加担し、京師近隣の邠寧節度に郭行餘、鳳翔節度に鄭注、河東節度に王璠を配置し、權知京兆尹事に羅立言・金吾大将軍に韓約を任じて警察権を掌握させました。

大和9年11月
最初の計画では鄭注麾下の壮士が王守澄の葬儀時に、中尉以下の上級宦官達を殺害する予定でした。
文宗皇帝の計画は宦官全てを除くつもりではなく、軍權を持つ高位宦官を排除するというものです。

ところが功績を鄭注に独占されることを懼れた李訓・舒元輿等は別計画を実行することにしました。

まず金吾大将軍韓約が「夜間に宮殿の石榴に甘露が降りました」と瑞兆を上奏しました。
まず訓など宰相が甘露を視察し「よくわからない」と報告しました。
文宗は左、右中尉仇士良、魚志弘に宦官を率いて精査してくるように命じました。
仇士良等が甘露を見ていると、韓約が脅えて動揺し、怪しんだ士良は兵士が動員されているのを見つけます。
士良等はすばやく逃走し、文宗皇帝を拉致して宮殿に戻りました。
訓達は兵と共に追いましたが逃げられてしまいました。

士良等は文宗が加担していることを知り、激怒して神策軍を派遣し宰相や官僚達を殺害して回りました。
宰相王涯や賈餗は加担していないにもかかわらず殺されました。

李訓・舒元輿は逃走しましたが殺され、鄭注も鳳翔で殺されました。

神策軍は荒れ狂い宰相一族や富裕な家を襲い大掠しましたが、抑えることはできませんでした。

士良等は文宗廃位も考えましたが、まだ宦官達だけでは体制づくりをするだけの自信はなく、官僚達の賛成を得られるとは思えませんでした。また弑殺するだけの度胸も準備もありません。

そこで鄭覃や李石等を宰相に任じ、文宗皇帝を威嚇して自分達の要求を通すことにしました。

宦官達の専権と圧迫は続きました。

開成元年2月
昭義節度使劉従諫が「宰相王涯等はなぜ殺されたのか、罪名を明らかにして欲しい」と上奏し、回答がないなら入朝して聞くという姿勢を示しました。当然軍を率いていくつもりです。

王涯や賈餗は訓に加担していないにもかかわらず、士良等が勝手に殺害したわけです。
上奏を知った士良等は脅えました。そして文宗に従諫を宥めるように願い出ました。
当時の神策軍は腐敗し、昭義軍程度でも勝算はたたず、周囲の軍も支援してくれるかどうか不安な状況でした。
文宗や宰相達は上奏を利用して宦官達の過剰な要求を抑えていきました。
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淄青 李懷玉・正己の乱

2023-02-04 08:43:23 | Weblog
淄青平盧軍節度使は遼東半島にあった平盧軍節度使が安禄山の乱においては同調せず唐朝側について戦った。一部[李忠臣-董泰や田神功]は渤海湾を渡り山東半島に入り防衛にあたりました。
しかし幽州領域に隔たられて孤立し、奚・契丹の圧迫もあり、元年建寅/建丙月に節度使侯希逸の指揮下に家族とともに營州をすてて幽州領域を南下し黄河を渡りました。
唐朝は靑密節度使を与え、淄沂節度使田神功も所轄を譲渡し淄青平盧軍節度使が成立し、侯希逸が帥となりました。

永泰元年7月
安定した節度使を得た侯希逸は驕慢となり、遊猟や仏事にふけるようになり、まだ生活が立て直せない將士は不満を抱き、親族の將李懷玉[高麗人]は衆心を集め希逸を逐いました。
朝廷は鄭王邈為平盧淄青節度大使とし,懷玉[賜名して正己]を權知留後事として継承を認めました。
希逸は京師に奔り、今までの功績により保護されました。

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河東 楊弁の乱

2023-02-03 08:20:00 | Weblog
昭義劉稹の自立を征討するため、忠武・河陽・晉絳軍を澤潞の主戦線とし、河東軍は背面攻撃を担当して遼州榆社に進出していました。
河東節度使劉沔は回紇征討の際、幽州張仲武と軍功を争ったため義成軍節度使に左遷され、庫物をさらえて転勤し、後任に文官の荊南節度使李石が転任してきました。

會昌3年12月
榆社行營都將王逢から増兵を求めてきましたが、太原は無兵のため、石は橫水に屯する三千人の半分を送ろうとしました。
兵は派兵手当を求めましたが、軍庫は空で支給できませんでした。
都頭楊弁は太原無兵を知り士卒を煽動しました。

會昌4年正月
楊弁達は城市を掠奪し、都頭梁季葉を殺し、李石は汾州に奔りました。
弁は自立しようとして劉稹に通じました。

石會關守將楊珍は關を以って稹に降りました。

劉稹征討が進まない中での、河東軍乱の通報で朝廷は大きく動揺しました。しかし宰相李德裕は断固として鎮圧を主張しました。

榆社に屯する河東兵主力に、易定・宣武・兗海兵をつけて楊弁討伐が命ぜられ、成德王元逵に応援が指示されました。

宦官馬元實が河東に派遣され、弁の賄賂を受けて戻り、德裕に叱責されました。

河東兵主力は朝廷の征討令を聞き、他道軍が太原に入り、自分達の家族を害することを懼れ、監軍呂義忠を擁して急ぎ太原に戻り、乱軍を誅滅しました。
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汴宋 李靈耀の乱

2023-02-02 08:22:19 | Weblog
汴宋八州節度使は淄青・淮西と並んで平盧軍系の節度使で、長らく田神功が統治し、その没後は弟神玉が留後となっていました。汴宋は神功の独裁体制ではなく諸将の連合体でしたが、神玉まではなんとか統制がとれていました。汴宋は富裕で重要な土地でしたので、唐朝としては是非直轄に移したい地域でした。
また当時は魏博田承嗣の反乱が沈静化はしてもまだ収まっていない時期でした。

大暦11年5月
神玉が卒すると、朝廷は文官の永平節度使李勉に汴州刺史充汴宋等八州節度觀察留後を兼任させました。
しかし汴宋都虞候李靈耀達は、同調しない濮州刺史孟鑒を殺し、魏博田承嗣と通謀しました。

朝廷はあわてて靈曜を濮州刺史としましたが、靈曜は受けません。

大曆11年6月
姑息な代宗皇帝はたちまち妥協し、靈耀を汴州刺史充節度留後としました。

靈耀としては自派の同僚達に利権を分配しなければなりません。そこで勝手に管轄下の七州の刺史を同僚に分配しました。これでは朝廷が認めるわけにはいきません。

大暦11年7月
魏博田承嗣は甥の悅を派遣し、滑州に李勉軍を破りました。

大曆11年8月
朝廷は淮西李忠臣、河陽馬燧、永平李勉、淮南陳少游、淄青李正己に靈耀征討を命じました。

汴宋兵馬使攝節度副使李僧惠、牙將高憑、石隱金等は靈耀を見捨てて朝廷に附くことにしました。

大曆11年9月
李忠臣・馬燧は鄭州を攻めましたが、靈耀軍に敗れました。

淄青李正己は鄆、濮二州を取りました。

李僧惠を宋州刺史,高憑を曹州刺史,石隱金を鄆州刺史としました。

僧惠は靈曜軍を雍丘に破りました

大曆11年10月
忠臣・燧は靈耀軍を中牟、西梁固に破りました。

淮南陳少游は靈耀軍を汴州に破りました。

田悅軍は来援し匡城に淄青・永平軍を破りましたが、忠臣・燧に大敗し逃げ帰りました。
靈耀は逃走しましたが永平將杜如江に捕まりました。

忠臣は汴州に入り、宋州刺史李僧惠と功績を争い擊殺しました。

李靈曜は京師で誅されました。

大曆11年12月
汴宋節度使は解体され、汴州は淮西李忠臣に、宋潁は永平李勉に、曹兗鄆濮徐五州は淄青李正己に与えられました。あまり軍功がなかった正己が最も得をしたと言えます。忠臣は使相となり、経済的利権の大きい汴州を得ました。
魏博田承嗣も諦めて帰朝を図り、大暦12年3月に赦されました。

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唐反乱年表

2023-02-01 18:21:59 | Weblog
今までの反乱記録を集約しました。まだ多少の追加後、編集して完成版にします。 唐の反乱年表[xls] を掲載しました。   各リンクから該当の反乱の詳細[pdf]を見ることができます。
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范陽節度使史思明の反

2023-02-01 08:18:43 | Weblog
安禄山の腹心であった史思明は、反乱後河東・河北で活躍していましたが、安慶緒による禄山暗殺後には態度を鮮明にせず幽州で范陽節度使として半自立体制を取りました。

至德2年12月
唐朝が両京を回復し安慶緒が相州に逃亡すると、思明は偽河東節度使高秀巖とともに帰朝しました。
肅宗皇帝は歸義王范陽節度使に任じました。滄、瀛、深、德、棣等州は皆思明に附きました。
これにより慶緒は追いつめられ乱の平定は近いと思われました。

ところが宰相張鎬は思明の歸順を疑っていました。

幽州内部でも節度副使烏承恩や派遣されて来た宦官李思敬は副元帥李光弼と通じて思明を除く陰謀をめぐらしていました。当然肅宗皇帝もそれを承認していたとみられます。まだ安慶緒が相州で戦っている時期であるのに極めて軽率であったと思われます。

乾元元年6月
史思明は陰謀を知り、承恩父子や連坐するもの二百餘人を殺しました。そして光弼を弾劾しました。

乾元元年10月
慶緒の救援要請を無視してきましたが、ついに思明は幽州軍13万を上げて南下し来援することにしました。これにより安史の乱はまだまだ継続することになります。

肅宗皇帝の定見の無さや無能さを考えると、唐朝が滅亡しなかったのが不思議です。
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