らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「松の内」は関東と関西で何故違う

2023-01-10 | 雑学

関東地方では7日に松の内が明け、明日は鏡開きだと思います。
一方、関西では松の内は15日までで、鏡開きは20日になります。
「松の内」とは、新年にお迎えした年神様のための道しるべとして、門松などの正月飾りを飾っておく期間のことを言います。
この期間は全国一律に元日に始まりますが、終わりは地域によって違うようです。
前記したように、関東は1月1日から7日までが松の内となり、関西では1月1日から15日までが松の内となります。
でも何故、関東と関西で松の内の期間が違うのでしょうか?

「松の内の期間」
松の内の期間は、元々は全国同じ日の1月15日まででした。
松の内が終わってから行う鏡開きも1月20日に行われていました。
しかし、1651年(慶安4年)4月20日に徳川3代将軍家光が亡くなり、毎月20日が家光の命日となったことから、徳川幕府のお膝元である関東では「月命日に鏡開きは良くない」という事で1月20日を避け、1月11日に行うようになりました。
しかし、1月11日は松の内のため、松の内は神様がいるのに失礼ではないかという事になり、1662年に徳川幕府が「1月7日を以って飾り納め」を指示する通達を出したのです。
このような経緯から関東では1月7日までが松の内となりました。
一方、正確に情報が伝わらなかった関西では、それまで通り、1月15日までが松の内、1月20日が鏡開きで変更はなかったという事です。



「疑問点」
しかし、先日、この説に対して新たな疑問がわいてきたという新聞記事が載っていたのでご紹介します。
その疑問点とは、「江戸と並ぶ大都市で幕府の直轄地だった大阪なのに、なぜ命令が浸透しなかったのか?」という事です。
これについて大阪の近世史に詳しい仏教大名誉教授の渡辺忠司先生は、江戸との違いを3点あげていました。(日経ネットより)

①まず大阪には町ごとに火消しの組合があり、「町人の間には、自分たちの町は自分たちで守る」という自治意識が強かったこと。
 (幕府の命令で江戸に町火消しがつくられるのは、もう少し後のことだ。)

②2つ目は正月飾り。
 武家流が良しとされる江戸は門松なのに対し、町人が主体の大阪は簡素なしめ縄がほとんどであること。
 これは「無駄なことにお金を使わない合理精神の表れ」で、江戸ほど大量の可燃物が出なかった可能性がある。(大火のもと)

③さらに大阪は水の都といわれるくらい川が多く、正月飾りを燃やす場所に事欠かなかったこと。
 「家々の正月飾りを集めて焼くとんど焼きは、今でこそ神社が中心だが、当時は身近にある河原だった」

更に、国立歴史民俗博物館・名誉教授の新谷尚紀先生は、松の内の短縮は商業の発達と関係があると指摘していました。
「天候次第の農業に対し、商業はスピードが勝負。 歴史が浅い、いわば新開地の江戸で新たな仕来たりとして定着した」とし、
大阪商人はそうした流れにあえて背を向け、「お金持ちはやっぱり文化人になりたい。正月にガツガツせずとも、儲けるときはしっかりもうけると、ゆったり構えていたのではないか」とし、それを「自分らしさの証明」と新谷教授はみていると載っていました。

「たかが松の内、されど松の内。そこには大阪商人の誇りと意地がある。」と結んでいました。

さて、昨日、今日、明日の3日間は「十日戎」です。
関東にも十日戎があるのでしょうか?
十日戎では商売繁盛を願って、戎神社に参拝するのがならわしで、関西では正月の風物詩となって大いに盛り上がります。

「商売繁盛で笹持って来い!」 
の掛け声とともに、関西では正月気分はまだまだ続いているようです。
意味:「笹持って来たら商売繁昌させたるよ」、「商売繁盛したら、来年はお礼参りでまた笹もっといで」などの意味合いがります。



寺院にも「狛犬」、その由来

2023-01-08 | 雑学

お正月には神社や寺院に初詣にお出かけになった方が多いと思います。
一部の寺院もそうですが、神社に参れば狛犬が出迎えてくれます。
勇ましい表情でじっと佇む狛犬は、邪気を祓い、神前を守護する意味を持っているのですが、その姿は犬というより立派なタテガミを生やしたライオン(獅子)のように見えます。
そのような動物をなぜ狛犬というのでしょうか?
そこで、今日は神社だけでなく、寺院にもいる狛犬とその由来について調べました。

「狛犬」
狛犬とは、拝殿の前や参道の要所に左右「一対」となって設置されている動物の像です。
一般的に、拝殿に向かって右側に口を開けている「阿(あ)形」と、左側に口を閉じている「吽(うん)形」が構えています。(逆のものや両方とも口を開けているものなど例外もあります)
これが対になって「阿吽(あうん)」となるのですが、この「阿吽」とは、元々、インドのサンスクリット語の最初の音「あ」と最後の音「うん」を表しており、「宇宙の最初と最後」を意味していると言われています。

「獅子と狛犬」
この狛犬は左右対象ではありません。
本来は獅子と狛犬と言われており、神社に向かって右側の口を開けた角なしの像が阿形である獅子で、左側の口を閉じた角ありの像が吽形の狛犬です。
2対を狛犬と呼ぶようになったのは江戸時代以降のことで、角のない狛犬が多くなってきて、獅子の区別がつかなくなったことからと言われています。


「狛犬の語源」
狛犬は古代インドやエジプトで、守護獣として獅子(ライオン)の像を置いたのが起源といわれており、それが中国・朝鮮半島を経て日本に伝わったことから、「高麗(高句麗)」の犬ということで「高麗犬(こまいぬ)」と呼ばれるようになったというのが定説となっています。
その他、狛犬の語源には、魔除けに用いたことから「拒魔(こま)」の犬とする説もあるようです。

「狛犬の起源」
中国から渡ってきた(唐)獅子と日本で発達した狛犬は、それぞれ別々の空想上の生き物です。
狛犬は日本で誕生し、進化した霊獣で、中国に狛犬は存在しません。

獅子の起源については、諸説ありますが、もとは古代オリエント文明で王様の座る玉座に、二頭のライオンが装飾されていた「獅子座」が起源であるという説が一般的です。
権力者が座る場所に力のある動物を描くことで、権力の座を守り、対外的に権力の力を誇示する狙いがありました。

ライオンのついた玉座が中国へ渡り、実際のライオンよりも強い空想上の動物である唐獅子へと変化し、皇帝の椅子には一対の獅子が描かれるようになりました。
この伝説の動物の唐獅子が、遣唐使と同時に日本へ渡ってきました。

「寺にもいる狛犬」
狛犬は神社以外に、寺院にも存在します。
これは奈良時代から明治元年まで存在した神仏習合(神道信仰と仏教信仰を融合調和すること)により、明治政府が「神仏分離令」を発するまではお寺の中に神社があったためです。
四国の「金毘羅さん」は今は金刀比羅神社ですが、明治初期までは金光院松尾寺で神職は存在せず僧侶が山を管理していました。
旧絵図には、鐘楼・本堂・仁王門・庫裏が存在し鳥居・狛犬もいます。

今でも、山岳寺院に行くと神仏習合の風習が残っているところがあります。
そこには神主はいませんが、鳥居・狛犬・拝殿・本殿が存在し、同時に鐘楼・本堂・仁王門・庫裏などが存在しています。


餅が「お年玉」?

2023-01-06 | 雑学

正月三が日が過ぎて、今日は早6日です。
子供たちは、正月に嬉しい事や楽しい思い出をたくさん作ったことでしょう。
中でも一番嬉しかったのはお年玉をもらったことではないでしょうか。

そのお年玉ですが、最近は現金ではなく、スマホ決済アプリを使って電子マネーを送金したり、お金をチャージしたICカードを渡したりする「キャッシュレスのお年玉」が登場しているようです。
私の場合、お年玉と言えば現金で渡す世代なので、キャッシュレスで渡す方法を知りません。
加えて、キャッシュレスで渡すことは、現金の有難みを考えたとき、大変な違和感があって賛成でき兼ねるのです。
矢張り、「お年玉は現金で渡す渡す方がよいのでは?」と思いますが、皆さんは如何でしょうか?

ところで、このお年玉ですが、元々は鏡餅を分け与えたのだそうです。
「えっ! 餅なの?」
と思いますよね。
そこで今日はお年玉について調べました。

「お年玉のルーツ」
現在のお年玉はお金が主流ですが、元々はお餅でした。
お正月行事というのは、新年の神様である「歳神様」を家に迎えて、おもてなしをし、そして見送るための行事であり、歳神様は新しい年の幸福や恵みとともに、私たちに魂を分けてくださると考えられてきました。

鏡餅は歳神様の依り代なので、鏡餅には家に来られた歳神様の「御魂」(みたま)が宿ります。
この御魂が宿った鏡餅がその年の魂となる「年魂(としだま)」なのです。
そして、年魂をあらわす餅を、家長が家族に「御歳魂」「御年玉」として分け与えたのがお年玉のルーツと言われています。
更に、この餅玉を食べるための料理が「お雑煮」で、餅を食べることで体に魂を取り込みます。
従って、お雑煮を食べるのがお正月の仕来たりとなっているのです。



「お餅からお金への変遷」
お年玉がいつから始まったのかは諸説ありますが、江戸時代には庶民にも浸透していたといわれています。
そして、お餅だけではなく品物やお金を渡すこともあったようであり、こうした年初めの贈り物を「お年玉」と称するようになったようです。

お年玉の風習は明治、大正、昭和と受け継がれていきましたが、昭和30年代後半の高度経済成長期ごろから、都市部を中心にお金が主流になっていき、贈る相手も専ら子どもになったと言われています。
なお、お年玉は家長から家族へ、主人から使用人へ、師匠から弟子へといったように、目上から目下へ渡すものなのです。
従って、それ以外の場合には「お年玉」とは書かず、「御年賀」「御年始」などと書きます。


正月と年神様

2023-01-04 | 季節

お正月三が日も終わり、多くの会社では今日が仕事始めだと思います。
「らいちゃん」のブログも正月休みを終えて、今日がブログ始めとなりますので、今年もよろしくお願いいたします。
ところで、お正月には年神様がやって来ると言われていますが、年神様とはどのような神様なのでしょうか?

「年神様」
年神様とは、元旦に、家々に新年の幸せをもたらすために、高い山から降りてくる神様で、「正月様」「歳徳神(としとくじん)」とも呼ばれています。
昔の人は祖先の霊が田の神や山の神になり、正月には年神となって、子孫の繁栄を見守ってくれるのだと考えていました。
そこで、たくさんの幸せを授かるために、年神様をお迎えして、お祝いする様々な風習や行事が生まれました。

日本神話でも年神さまは登場しています。
神道では素戔嗚尊(すさのおのみこと)とその妻である神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれた大年神・大歳神(おおとしのかみ)、そして大年神の子である御年神・御歳神(みとしのかみ)が年神さまとされることが多いという事です。

「大年神伝説」
年神様とされている大年神には次ような伝説があります。
昔、あるところに貧しい家がありました。
大晦日の晩に、大変貧しい身なりの人が一晩の宿のを求めてやってきたので、親切な家人は土間にむしろを敷いて寝かせてあげました。
翌日、目覚めてみるとその人の姿はなく、代わりにむしろの上にたくさんのお金が残されていました。
そのおかげで、貧しい家は非常に裕福になりました。
その話を聞いた村人は「年神様がきたのだ」と言い、あやかるために大晦日の夜に年神さまを祀るようになったということです。

この話に登場する不思議な人は、去来神(来訪神)であり、常世の国(とこよのくに= 古代人が、海のむこうのきわめて遠い所にあると考えていた想像上の国)からやってきた福の神のような神霊で、そこに農耕神(穀霊)の性格が加えられた存在が「大年神」であると考えられているということです。

・大年神です。(ネットより)


「正月」
「正月」とは、本来は旧暦1月の別名ですが、改暦後は新暦1月を意味しています。
現在では「三が日」または「松の内」という意味で使用することもあります。
そして、松の内とは、元々は1月15日まででしたが、現在は1月7日までとするところが関東や東日本で多くなっているようです。
これは、寛文2年1月6日、江戸幕府により1月7日を以っての飾り納めの通達が江戸の城下に町触れとして発せらたことからで、それに倣った風習が徐々に関東を中心に広まったと考えられるということです。

「鏡餅」
鏡餅は、もともと神饌(しんせん:神様の食べ物)として歳神様にお供えするための餅です。
そして鏡餅が丸いのは、人の魂(心臓)をかたどったものと言われ、鏡は魂を表す神器でもあることから、歳神様にお供えした餅を食べると新しい生命が授けられると言い伝えられてきました。
また、大小の餅を二つ重ねるのは、陰(月)と陽(日)を重ねることに通じ、福徳が重なることを願うためです。

「神に供えていたおせち料理」
「おせち」とは季節の節目(ふしめ)に当たる「節(せち)」の日を指す言葉で、漢字では「御節」と書きます。
平安時代の朝廷は、正月を含む5つの節に「五節会(ごせちえ)」の儀式を行い、特別な料理である「御節供(おせちく)」を神に供えていました。
やがて、御節供は最も大切な正月の料理を指し、「おせち」と呼ばれるようになりました。
重箱に詰めるのは「福が重なる」と言われることからです。
おせち料理をいただくときの祝箸は神様と一緒にいただくという意味で両側が細くなったものを使用します。

「小正月」
1月15日を小正月と呼びます。
小正月に対しては通常の正月(元日)を「大正月」(おおしょうがつ)といいます。
大正月を男の正月と呼ぶのに対して、小正月を女の正月と言うところもあります。
更に、1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を「二十日正月」と呼び、地方によっては1月30日を「三十日正月」(みそかしょうがつ)とも言います。