関東地方では7日に松の内が明け、明日は鏡開きだと思います。
一方、関西では松の内は15日までで、鏡開きは20日になります。
「松の内」とは、新年にお迎えした年神様のための道しるべとして、門松などの正月飾りを飾っておく期間のことを言います。
この期間は全国一律に元日に始まりますが、終わりは地域によって違うようです。
前記したように、関東は1月1日から7日までが松の内となり、関西では1月1日から15日までが松の内となります。
でも何故、関東と関西で松の内の期間が違うのでしょうか?
「松の内の期間」
松の内の期間は、元々は全国同じ日の1月15日まででした。
松の内が終わってから行う鏡開きも1月20日に行われていました。
しかし、1651年(慶安4年)4月20日に徳川3代将軍家光が亡くなり、毎月20日が家光の命日となったことから、徳川幕府のお膝元である関東では「月命日に鏡開きは良くない」という事で1月20日を避け、1月11日に行うようになりました。
しかし、1月11日は松の内のため、松の内は神様がいるのに失礼ではないかという事になり、1662年に徳川幕府が「1月7日を以って飾り納め」を指示する通達を出したのです。
このような経緯から関東では1月7日までが松の内となりました。
一方、正確に情報が伝わらなかった関西では、それまで通り、1月15日までが松の内、1月20日が鏡開きで変更はなかったという事です。
「疑問点」
しかし、先日、この説に対して新たな疑問がわいてきたという新聞記事が載っていたのでご紹介します。
その疑問点とは、「江戸と並ぶ大都市で幕府の直轄地だった大阪なのに、なぜ命令が浸透しなかったのか?」という事です。
これについて大阪の近世史に詳しい仏教大名誉教授の渡辺忠司先生は、江戸との違いを3点あげていました。(日経ネットより)
①まず大阪には町ごとに火消しの組合があり、「町人の間には、自分たちの町は自分たちで守る」という自治意識が強かったこと。
(幕府の命令で江戸に町火消しがつくられるのは、もう少し後のことだ。)
②2つ目は正月飾り。
武家流が良しとされる江戸は門松なのに対し、町人が主体の大阪は簡素なしめ縄がほとんどであること。
これは「無駄なことにお金を使わない合理精神の表れ」で、江戸ほど大量の可燃物が出なかった可能性がある。(大火のもと)
③さらに大阪は水の都といわれるくらい川が多く、正月飾りを燃やす場所に事欠かなかったこと。
「家々の正月飾りを集めて焼くとんど焼きは、今でこそ神社が中心だが、当時は身近にある河原だった」
更に、国立歴史民俗博物館・名誉教授の新谷尚紀先生は、松の内の短縮は商業の発達と関係があると指摘していました。
「天候次第の農業に対し、商業はスピードが勝負。 歴史が浅い、いわば新開地の江戸で新たな仕来たりとして定着した」とし、
大阪商人はそうした流れにあえて背を向け、「お金持ちはやっぱり文化人になりたい。正月にガツガツせずとも、儲けるときはしっかりもうけると、ゆったり構えていたのではないか」とし、それを「自分らしさの証明」と新谷教授はみていると載っていました。
「たかが松の内、されど松の内。そこには大阪商人の誇りと意地がある。」と結んでいました。
さて、昨日、今日、明日の3日間は「十日戎」です。
関東にも十日戎があるのでしょうか?
十日戎では商売繁盛を願って、戎神社に参拝するのがならわしで、関西では正月の風物詩となって大いに盛り上がります。
「商売繁盛で笹持って来い!」 の掛け声とともに、関西では正月気分はまだまだ続いているようです。
意味:「笹持って来たら商売繁昌させたるよ」、「商売繁盛したら、来年はお礼参りでまた笹もっといで」などの意味合いがります。