五月になりました。今日はすずらんの日、幸せの日です。
お花といえば、そろそろ日本の北の端まで桜の花便りが届く頃ですね。
昨日、桜のご飯を楽しみました。
え~、怒涛の冬からハルへの移り変わりを経て、
失業保険で仕送りから生活まで工夫の毎日を過ごしておりますが、
「おいおい、お金ないし、食べ物も底をついちゃったよ~ん」な時も
「お米」があれば何とかやっていけるのがジャパニーズの良いところではないでしょうか?
そんなGWの昼下がり。(笑)
先日、仲良しの祐美母さまから、九州の美味しいお米をおすそ分けに預かりまして、早速美味しく炊いてみました。
おかずが乏しい時はご飯を美味しく炊くのがよろしいかと(^^)
森のイスキアの佐藤はつめさんのように、手のひらでお米をすり合わせながら丁寧に洗って、少しだけお酒を入れて炊きます。
そうするとふっくらして美味しく炊けるんですよ。
うまみがもっと欲しい時は昆布と上等のオイルを少し入れると更においしい。
ご飯が炊き上がるまでに、わかめとタマゴのお味噌汁を作りました。
そして今日は炊き上がったご飯をおむすびにすることに。
う~ん、なにを入れようかなあ、昆布?梅干?と考えていましたが、
「桜の塩漬け」を入れる事に(^^)
桜の塩漬けをそのままみじんに切って、炊き立てのご飯に混ぜ込みます。
それをそのまま、きゅっきゅと結べば出来上がり。
お味がしっかり付くのでお塩をつける必要もありません。
おにぎり、って言葉もイトオシイですが、私はおむすびって言葉も好きです。
おむすびは「お結び」
幸せの縁を結ぶというところから来ているそうです。
真っ白なご飯に桜の桃色がキレイです。
香りもハルそのものです。
もちろん、美味しく頂きました。
ああ、日本人に生まれてしゃーわせ♪
皆様もぜひお試しあれ!
さて、このところ、いろんな方に出会う機会を頂きます。
まさに愛を結んでいただく毎日です。
子どもさんから大人まで、本当に出会えば出会うほど、人にはいろんな生き方があり人生があるのだと感じずに居られません。
善い感覚で感じられる時もあれば、ふと考えてしまう時もある。
すこし心が過敏になっているのかもしれません。
いろんな人にあって思った事は、全ての人とは言いませんが、多くの人と言うものは、その生きているステージからみえている世界を全てだ(最高だ)と思ってしまうものなんだな、という事。
よく言えないんですが、成長をする「人間」である以上、それが当たりまえでもあるので、悪いとか思もうわけではないのですが(笑)
ただそれがほんの少しだけ残念に思う事があります。
私は思うのです。
それが当たりまえにある世界でも、相手のステージを想像できる人間でありたいなあ、と。
数年前ですが、一人の友人が現世から遠く離れた世界の住人になってしまいました。
死んだわけではなく、心が遠くに行ってしまったのです。
その友が最後にまだ友達がこの世に心があった頃、私にこういいました。
「私、一生懸命頑張ってるって言ってるのに、みんな、頑張れっていうのよ。
そんなんじゃダメだって。もっと頑張れって。
本当のあなたは、昔はもっと頑張ってたじゃない、って。
本当のあたしって何?
今のあたしはあたしじゃないの?頑張ってないの?
みんな、私を心配して言ってくれるのはよく解ってるの。
でも皆はわたしの居るところを見ようとしない。
私が出来る事は何かを知ろうとはしない。
自分の居るところから自分が出来ることを言ってくれるだけ。
でもそれは、あたしの出来ることじゃない。」
それから、彼女は遠い世界の住人になった。
私はその時、私自身が苦しんでいて、彼女の助けになれなかった。
たぶん、彼女の周りの人もそうだったんでしょう。
だから、彼女はひとりで心を守れるところに行った。
私は彼女の気持ちがわかる気がする。
彼女はただ今居るところはどんなところか聞いて欲しかったのではないか。
それだけで、彼女は階段を上ることが出来たかもしれない。
私は良く本を読むが、多くの啓発本などでは、いろんな人がご自分の苦しい体験をもとに成功をご本に書いていらっしゃる。
そして、苦しみを持っている人を助けたい、と書き、苦しみは乗り越えられると書く。
あなたは必ず出来ますよ、と。
けれど本当に苦しみのある人を分かっている人はまずいない、と感じてしまう。
なぜなら、大体それを書いてる時は書いている本人のステージがすでにあがってしまって、その高いところからの意見を書くからだ。
それは苦しみを越えたものの意見で、もがいている人の助けにはあまりならない、と私は思うのだ。
本当に苦しい時、闇にいる時、光は見えない。
そんな時、心に明かりを照らす、と言う行為は決して頑張れとか出来ますよとか、私はこうでしたと話すことではないような気がする。
暗闇の中、そっと声をかけ、私がここに居ますよと話し、そっと手を取ってあげることの方がよっぽど安心するのではないか。
そうすることで誰かに明かりを照らしてもらい、周りを見渡せるようになるのではなく、自分の力で心の中に明かりを灯せるんではないか。
私はそんな気がする。
シスターの渡辺和子さんがおっしゃっている。
彼女はとっても頑張りやのシスターだ。
バリバリのキャリアウーマンだった人だ。
何でも頑張って前向きに生きてけばやれない事はない、
出来ない人はポジティヴじゃないし、頑張ってない。
あたしに頑張れるんだから、みんなだって頑張れるはずなのに、と思っていたと。
そのシスター渡辺はある日、病気を患った。
そして誰よりもポジティヴだった彼女が欝になり、自殺を考えるまでになった。
その頃、何を言われても辛かった。
たくさんの方の協力もあり、その暗闇から回復してやっと
「頑張っているように見えていなかったから、
頑張ってないんだろう、そんなのはダメだと人を判断していた自分」
に気がついたそうだ。
そして、人には「苦しい」と言う気持ちが存在する事を知った。
それから、ああ、これまで私は善意と言うエゴで思いやりのなさでどんなに人を傷つけていたんだろう、思ったのだと。
いま彼女はまず、耳を傾けるそうである。相手の苦しみに。
そして、頑張れと言葉を放つ前に、相手の苦しみに身を置いて想像してみるのだと。
私も人に対してそうでありたいと願っている。
私も目に見えない心の病を持っている。
心のトラウマに起因する病気たちは繊細でなかなか癒えない。
治ったと思っても、すぐに何かがきっかけとなって、また迷路にはまる。
わたしの場合も結構、深刻なのだが見た目は元気なので、遠くに行った友達と同じ事を言われることが多い。
これこれが難しいと説明しても「そんな風には見えないわ」、つまり、そんなことないんじゃないの?とか(^^;)、都合よく具合悪くなるんだから贅沢病だよね~、とか?(笑)
おかげさまで今はそう言われてもそうね~とか、ありがたいと思えるようになった。
だからこうして生きていられる。
けれど、それまでは言葉を不用意にかけられることは本当に辛かった時期もある。そうやって言われるたびに、わたしの苦しみは誰も解ってくれないのだ、という孤独感がますばかりで悲しかった。
もしあの時、誰かが「頑張れるよ、大丈夫だって」、と言うかわりに
「それってどんな風に辛いの?あなたはどういう風に感じるの?
どうしてあげたら一番いい?」
と聞いてくれたらどんなにか安心しただろう、と思う。
きっと、この人には何を話してもいい、と思い、それだけで病は癒えていくだろう。
心の病とはそんなものだったりするんじゃないかな。
天国に戻ったわたしのソウルメイトはそういうところに長けた人だった。
決して自分の居るところから人を判断する人ではなかった。
まず、相手を認めて、相手のやる事、信じることを尊重した。
その上で
「大丈夫。お前がダメでも俺がやるから平気だ」
といってくれる心強い、素敵な人だった。
今のソウルメイトは一番辛かった時こう聞いてくれた。
「何がいちばん君の幸せか?」と。
それも素敵な言葉だと思った。
私もそんな風に人の一番大切なものを思いやれる人間でありたい。
宗教家のダライ・ラマが言っている。
「愛と思いやりがあれば宗教も思想もいらない」と。
愛こそ全て、は真実だと思う。
だから人を愛し、思いやりを捧げられる人間になりたい。
私もシスターみたいに生きていた。
特に苦しい環境下に生まれた私はそうだった。頑張るしか生きていくしかなかったのだ。
わたしの環境下で頑張らないは「死」を意味すると言ってよかった。
それが当たりまえだったから、みんな、頑張ってなさすぎなんだ、弱いよなと思っていた。
世の中、ポジティヴに頑張っていれば何とかなるんだと信じていた。
でも、ある日、弱い心の部分が自分で理解でき始めた時、そうではないんだと思った。
そして「弱い」ことは悪でもなんでもないと知った。
でも病も生きる苦しみも過酷な環境も私に大きなものを与えてくれた。
真実に愛する事は何か?本当に思いやるという事は何か?という事を。
誰かと共に生きる時、自分の納得できる思想や言葉をただ与えるのではなく、
誰かが本当に求めている何かを共に探し、捧げられる人間に私はなりたい。
口先で頑張れと励ますより、心の痛みを共に感じられる人でありたい。
今はいつもそう祈っています。
お花といえば、そろそろ日本の北の端まで桜の花便りが届く頃ですね。
昨日、桜のご飯を楽しみました。
え~、怒涛の冬からハルへの移り変わりを経て、
失業保険で仕送りから生活まで工夫の毎日を過ごしておりますが、
「おいおい、お金ないし、食べ物も底をついちゃったよ~ん」な時も
「お米」があれば何とかやっていけるのがジャパニーズの良いところではないでしょうか?
そんなGWの昼下がり。(笑)
先日、仲良しの祐美母さまから、九州の美味しいお米をおすそ分けに預かりまして、早速美味しく炊いてみました。
おかずが乏しい時はご飯を美味しく炊くのがよろしいかと(^^)
森のイスキアの佐藤はつめさんのように、手のひらでお米をすり合わせながら丁寧に洗って、少しだけお酒を入れて炊きます。
そうするとふっくらして美味しく炊けるんですよ。
うまみがもっと欲しい時は昆布と上等のオイルを少し入れると更においしい。
ご飯が炊き上がるまでに、わかめとタマゴのお味噌汁を作りました。
そして今日は炊き上がったご飯をおむすびにすることに。
う~ん、なにを入れようかなあ、昆布?梅干?と考えていましたが、
「桜の塩漬け」を入れる事に(^^)
桜の塩漬けをそのままみじんに切って、炊き立てのご飯に混ぜ込みます。
それをそのまま、きゅっきゅと結べば出来上がり。
お味がしっかり付くのでお塩をつける必要もありません。
おにぎり、って言葉もイトオシイですが、私はおむすびって言葉も好きです。
おむすびは「お結び」
幸せの縁を結ぶというところから来ているそうです。
真っ白なご飯に桜の桃色がキレイです。
香りもハルそのものです。
もちろん、美味しく頂きました。
ああ、日本人に生まれてしゃーわせ♪
皆様もぜひお試しあれ!
さて、このところ、いろんな方に出会う機会を頂きます。
まさに愛を結んでいただく毎日です。
子どもさんから大人まで、本当に出会えば出会うほど、人にはいろんな生き方があり人生があるのだと感じずに居られません。
善い感覚で感じられる時もあれば、ふと考えてしまう時もある。
すこし心が過敏になっているのかもしれません。
いろんな人にあって思った事は、全ての人とは言いませんが、多くの人と言うものは、その生きているステージからみえている世界を全てだ(最高だ)と思ってしまうものなんだな、という事。
よく言えないんですが、成長をする「人間」である以上、それが当たりまえでもあるので、悪いとか思もうわけではないのですが(笑)
ただそれがほんの少しだけ残念に思う事があります。
私は思うのです。
それが当たりまえにある世界でも、相手のステージを想像できる人間でありたいなあ、と。
数年前ですが、一人の友人が現世から遠く離れた世界の住人になってしまいました。
死んだわけではなく、心が遠くに行ってしまったのです。
その友が最後にまだ友達がこの世に心があった頃、私にこういいました。
「私、一生懸命頑張ってるって言ってるのに、みんな、頑張れっていうのよ。
そんなんじゃダメだって。もっと頑張れって。
本当のあなたは、昔はもっと頑張ってたじゃない、って。
本当のあたしって何?
今のあたしはあたしじゃないの?頑張ってないの?
みんな、私を心配して言ってくれるのはよく解ってるの。
でも皆はわたしの居るところを見ようとしない。
私が出来る事は何かを知ろうとはしない。
自分の居るところから自分が出来ることを言ってくれるだけ。
でもそれは、あたしの出来ることじゃない。」
それから、彼女は遠い世界の住人になった。
私はその時、私自身が苦しんでいて、彼女の助けになれなかった。
たぶん、彼女の周りの人もそうだったんでしょう。
だから、彼女はひとりで心を守れるところに行った。
私は彼女の気持ちがわかる気がする。
彼女はただ今居るところはどんなところか聞いて欲しかったのではないか。
それだけで、彼女は階段を上ることが出来たかもしれない。
私は良く本を読むが、多くの啓発本などでは、いろんな人がご自分の苦しい体験をもとに成功をご本に書いていらっしゃる。
そして、苦しみを持っている人を助けたい、と書き、苦しみは乗り越えられると書く。
あなたは必ず出来ますよ、と。
けれど本当に苦しみのある人を分かっている人はまずいない、と感じてしまう。
なぜなら、大体それを書いてる時は書いている本人のステージがすでにあがってしまって、その高いところからの意見を書くからだ。
それは苦しみを越えたものの意見で、もがいている人の助けにはあまりならない、と私は思うのだ。
本当に苦しい時、闇にいる時、光は見えない。
そんな時、心に明かりを照らす、と言う行為は決して頑張れとか出来ますよとか、私はこうでしたと話すことではないような気がする。
暗闇の中、そっと声をかけ、私がここに居ますよと話し、そっと手を取ってあげることの方がよっぽど安心するのではないか。
そうすることで誰かに明かりを照らしてもらい、周りを見渡せるようになるのではなく、自分の力で心の中に明かりを灯せるんではないか。
私はそんな気がする。
シスターの渡辺和子さんがおっしゃっている。
彼女はとっても頑張りやのシスターだ。
バリバリのキャリアウーマンだった人だ。
何でも頑張って前向きに生きてけばやれない事はない、
出来ない人はポジティヴじゃないし、頑張ってない。
あたしに頑張れるんだから、みんなだって頑張れるはずなのに、と思っていたと。
そのシスター渡辺はある日、病気を患った。
そして誰よりもポジティヴだった彼女が欝になり、自殺を考えるまでになった。
その頃、何を言われても辛かった。
たくさんの方の協力もあり、その暗闇から回復してやっと
「頑張っているように見えていなかったから、
頑張ってないんだろう、そんなのはダメだと人を判断していた自分」
に気がついたそうだ。
そして、人には「苦しい」と言う気持ちが存在する事を知った。
それから、ああ、これまで私は善意と言うエゴで思いやりのなさでどんなに人を傷つけていたんだろう、思ったのだと。
いま彼女はまず、耳を傾けるそうである。相手の苦しみに。
そして、頑張れと言葉を放つ前に、相手の苦しみに身を置いて想像してみるのだと。
私も人に対してそうでありたいと願っている。
私も目に見えない心の病を持っている。
心のトラウマに起因する病気たちは繊細でなかなか癒えない。
治ったと思っても、すぐに何かがきっかけとなって、また迷路にはまる。
わたしの場合も結構、深刻なのだが見た目は元気なので、遠くに行った友達と同じ事を言われることが多い。
これこれが難しいと説明しても「そんな風には見えないわ」、つまり、そんなことないんじゃないの?とか(^^;)、都合よく具合悪くなるんだから贅沢病だよね~、とか?(笑)
おかげさまで今はそう言われてもそうね~とか、ありがたいと思えるようになった。
だからこうして生きていられる。
けれど、それまでは言葉を不用意にかけられることは本当に辛かった時期もある。そうやって言われるたびに、わたしの苦しみは誰も解ってくれないのだ、という孤独感がますばかりで悲しかった。
もしあの時、誰かが「頑張れるよ、大丈夫だって」、と言うかわりに
「それってどんな風に辛いの?あなたはどういう風に感じるの?
どうしてあげたら一番いい?」
と聞いてくれたらどんなにか安心しただろう、と思う。
きっと、この人には何を話してもいい、と思い、それだけで病は癒えていくだろう。
心の病とはそんなものだったりするんじゃないかな。
天国に戻ったわたしのソウルメイトはそういうところに長けた人だった。
決して自分の居るところから人を判断する人ではなかった。
まず、相手を認めて、相手のやる事、信じることを尊重した。
その上で
「大丈夫。お前がダメでも俺がやるから平気だ」
といってくれる心強い、素敵な人だった。
今のソウルメイトは一番辛かった時こう聞いてくれた。
「何がいちばん君の幸せか?」と。
それも素敵な言葉だと思った。
私もそんな風に人の一番大切なものを思いやれる人間でありたい。
宗教家のダライ・ラマが言っている。
「愛と思いやりがあれば宗教も思想もいらない」と。
愛こそ全て、は真実だと思う。
だから人を愛し、思いやりを捧げられる人間になりたい。
私もシスターみたいに生きていた。
特に苦しい環境下に生まれた私はそうだった。頑張るしか生きていくしかなかったのだ。
わたしの環境下で頑張らないは「死」を意味すると言ってよかった。
それが当たりまえだったから、みんな、頑張ってなさすぎなんだ、弱いよなと思っていた。
世の中、ポジティヴに頑張っていれば何とかなるんだと信じていた。
でも、ある日、弱い心の部分が自分で理解でき始めた時、そうではないんだと思った。
そして「弱い」ことは悪でもなんでもないと知った。
でも病も生きる苦しみも過酷な環境も私に大きなものを与えてくれた。
真実に愛する事は何か?本当に思いやるという事は何か?という事を。
誰かと共に生きる時、自分の納得できる思想や言葉をただ与えるのではなく、
誰かが本当に求めている何かを共に探し、捧げられる人間に私はなりたい。
口先で頑張れと励ますより、心の痛みを共に感じられる人でありたい。
今はいつもそう祈っています。