KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

続いていく喜び

2009-05-27 | KOFUKU日記
先日、お友達からシルクのブラウスのお直しの手仕事を頂戴しました。
その時、お友達になった方がぬいぐるみのパンヤ(綿)を詰めなおして欲しいとおっしゃられ、やらせていただくことにしたのです。

その方はとても優しげな女性で、18歳の息子さんがいらっしゃるお母さん。
手仕事をお受けした時のお話では、ご結婚前のOLさんの時代からお持ちのぬいぐるみで、とても思いいれのあるお品なのだそうです。
中の詰め物がくたくたになって可哀想だけれど、手仕事が苦手なので自分で直せず、そういうお仕事をしてくれるところを探したけれど見つからなかったのだとか。

私は特に「手仕事って苦手だな」とか「忙しくてそういう時間が取れない、でも必要なんだけど、どうしよう」「手仕事の作品は欲しいけれどとても高くて」って方の為に、出来るだけお手軽な価格でお届けできるように手仕事の作品を作ったり、なにかその気持ちのお手伝いをしたいと思って、ショップやお教室を始めたので、そのお話を聞いて、コレはお役に立てるかもと思い、素人仕事でも良いならぜひともやらせてください、と引き受けさせていただいたのでした。

そのぬいぐるみちゃんが今朝届きました。
大きなぬいぐるみちゃんは時代を経て、表面の布地も中身もへたっているけれど、大事にされてきたのが良く解るのです。

わたしの母や下の妹は、私と同じくお人形が大好きです。
実家が古美術商を営んでいるので、時に古い時代のお人形がやってくることがあります。
その足がもげたり、手がもげたりしているお人形見つけると、可哀想にねえ、痛かったねえと大事に修復して、足を付けてあげたり、手をつけたり、かけた顔を直したり、古い着物地を出してきては、ちくちくと新しい着物を縫って着せるのでした。

妹にいたっては、PCを自由に操り、果てはゲームのプログラムカスタムまでこなす超現代的な人でありながら、なんと言うか、コレはもう家系なんでしょうね、自然の世界と、超自然の世界を軽く越えている人なんです。
うん、なんていうか、受け入れる範囲広すぎの人(笑)
なので実世界の常識ボーダーを越えた力を時々放つわけです(^^;)
で、この妹はお人形とお話が出来ます。表情もくるくる変るんだそうです。
普通ね、チャッキーとかね、怖いのを想像しちゃいますでしょ?
でも、これ、うちでは日常です(^^;)

「あー、お人形の何ちゃんが笑ってる~、嬉しそう~♪」
みたいな~(笑)

類にもれず、私も遺言に「お人形は生きています。燃やさないで・棄てないで」と書いているくらいお人形をこよなく愛しているので、その辺の感覚がわかります。
(あ、みなさん、ひかないで~)
確かに今朝到着したぬいぐるみちゃんは「笑って」るんです。
とても愛されてきて、そしてまた愛される為にお直しされるのが嬉しいんじゃないかなーって感じました。
私は縫い物のプロでもないし、好きなだけで全然お上手じゃないかもしれません。
だけど、丁寧に心を込めてお直しさせていただこうと思います。

今朝も先に頂いたシルクのブラウスをちくちくしながら、相方さんに「こういう仕事ってなんて幸せなんだろうね」と話しましたら、縫うのを見ながら相方さんも「うん、そうだね」と言ってくれました。
普段あまり会話をしない二人なんですが、お互いに手仕事や古いものを大事にしているので、その一言でいいたいことの中身が伝わって、同じ思いを持ってくれたんだと思います。

「こういう仕事が幸せ」と感じる理由には、モノにも人にも時代にも何にでも必ず「ドラマ」がその中に存在すると思うからです。
特にこうして「お直し」をしてでも使いたいと思われるものは、大事に大事にされてきた道のりがあります。
そのものが「愛」の存在です。
そうやって愛されてきたものを、また次ぎの時間に送り出す為に、わたしの手を通してお仕事させてもらえるのは本当に嬉しいし、ありがたさがこみ上げてくるのです。

私と夢の街のスタッフ3人で活動中の「夢の街手しごと工房」
この夢の街の手仕事工房は夢の街のテーマである「スロウ(ゆったりと)でメロウ(まろやかな)な生き方」をテーマに、ドラマある作品作りにいそしんでいる手仕事の創作ユニットです。
ここには二つのブランドがあります。

一つは「teatro du trodel」てあとろ・どぅ・とろーでると言う天然素材とアンティークのリメイクを中心としたウッドクラフトと手仕事雑貨のブランド。
このブランド名には「懐かしいもの達の劇場」って意味があるんです。
私たちの本職は俳優です。劇場にはたくさんのドラマがあります。
それを劇場と言う空間から、新たな心のドラマとして皆様に送り出すのが仕事です。
同じように素材にも商品にも、もともとそれぞれのドラマがある。
新しいものも、古いものも、そのドラマと共に受け取って、私たちの心と手を通して大事に作品に仕上げ、また新たなドラマとしてお届けしたいな、と思って出来たのがこのブランドなんです。

もう一つはナチュラル育児&シュタイナー的クラフトの「Ma_allow」まーろぅというブランドです。
こちらはシュタイナー教育などで愛されている、手作りのおもちゃや雑貨や教育グッズをご紹介しています。
まーろぅは夢の街のテーマの一つ「Mellow」まろやかな、ってコトバの意味と読みを合体した造語です。
共働きやいろいろな事情があって、やりたくても自分ではなかなか手仕事出来ないお母さん。
どうしても手仕事は苦手で手が出ない、けれど子どもにはそういうものを与えたいお母さん。
子どもに買ってあげたいけどシュタイナー雑貨は高くて買えないってお母さん。
心と身体に優しいものが大好きな誰かの為に作ったブランドです。

どちらのブランドも「愛」から生まれました。
生まれた一つ一つの作品が、お預かりしたお直しもののように、形を変えたり、思い出の品となって愛されて、次ぎの時代にも愛され続けてもらえると嬉しいものです(^^)

もうすぐ優しい雨の季節になります。
しばらくお休みしていた夢の街は、そんな手仕事や物思いにふけるのにぴったりな季節に少しずつ活動をはじめます。
まずはみんなで作品作りにいそしんでいるところ。
いろんな企画も準備中。
新しい活動場所やいろんなお知らせはもう少ししたらお伝えできると思います(^^)

この夢の街のアート&クラフトの活動は原宿・夢の街が存在して、そして集ってくださった皆様が在って、今があるのです。
オフィス夢の街の演劇芸術活動も教育活動も音楽活動も慈善活動もみんなみんな、皆様が続く喜びを作ってくださったのです。

大きなお金を投資してあのステキな場所を作ってくださった元オーナー様、
あの場所を快く提供してくださった優しい大家さま、
そして本当に夜も昼もなく、命を削りながら、あの場所をたった一人で創ってくださった米澤さん、
そしてその米さんを大きな心で助け、支えてくれたスーパー助っ人まんおさん、
そして大きな才能と溢れる愛で支えてくださったカンナちゃん、
そしてスタッフとして支えてくださったまいまいやひのさん、こっしーにちょっぴーに光の神様・大場さん、
クラスにご協力くださった全ての素晴らしい先生方。
何よりもあの場所に集ってくださった大きな人にちいさな人たち、

わたしは今日も皆様費下り一人に深い感謝を持ち続けています。
本当に本当にありがとう御座います。心から感謝しています。

そして皆様に支えられて、夢の街は私たちがこの夢の街を出ない限り、これからもずっと続いていくのです。
そしてもうすぐ、またどこかで皆様の笑顔にまたお会いできる日が近いことが、今はとても嬉しいです。
今年も楽しい夏がやって来そうです。

それまでは目の前にある「心ある暮らし」と言うステキなお仕事に一生懸命携わって行きたいと思います。


世界の中にいる私

2009-05-27 | KOFUKU日記
さて皆さんはネットサーフィン(?)なるものをします??

私はPCの前に座っている事は長いのですが、基本的にニュースをみたり、調べ物意外では個人のサイトを覗く事は殆どありません。
お友達のサイトも遊びにいくのは用事があるときだけです。
正直言うと興味本位だけで、人のサイトを覗いていく行為が好きではないのです。
ただ昨年からミクシーとやらに参加して、お友達が出来たので、その方たちの日記が更新されるとお知らせが来るようになったので、親しい方の日記やブログは読ませて頂くようになりました。

私はあまり社交的ではないので僅かな数のお友達サイトさんしかないんですけど、書いてある事を読んでいるとその僅かな親しい方々だけでも、たくさんの考え方や感じ方に出会います。
一つ一つ読ませて頂きながら、自分にはなかったりする感覚を楽しませてもらったり、学ばせてもらったりしています。

大体は「日記」なので皆さんは日々の経験や思ったことなどを「なになにがこうだった」と言う風にご自身の経験中心にかかれております。
そんな日記群のなかで唯一「これこれをするとこうなります」と教え的文章が書いてあるのが昨日も書いた仲良しの祐美haha様のブログ。
祐美hahaさまはカウンセラーでいらっしゃって、魂の導きのお仕事をしていらっしゃるので、私はメールマガジンと共に楽しみに読ませて頂いています。
祐美haha様のブログをはじめ、皆様の書かれる文章は全て、わたしの人生における大切な「気付きの書」なのであります。(まぢです)

と、言う訳で、皆さんは人様の文章を読んだり、他の方を見てて「アレ?アタシってば他の人とズレてる??」と思うことってありません?
私、毎日なんですよね(^^;)
確かに「不思議人」(すでに不思議ちゃんではないらしい・^^;)とか「変人」とか「変ってる」とかFBIにおけるモルダーばりの言われ方をするアタシですが本人、いやいやそこまでじゃないだろ!見たいな意識あるわけですね(笑)
確かにちょいと自覚もあるけれどー。
ところがかなりの確立で感覚のずれに遭遇するのです。
で、アタシって・・・・となるんですよ。

実は今日も縫い物してたらPCがピコピコーんと鳴ったんで、覗いたら祐美haha様のブログ更新のお知らせが。
早速遊びに行きましてじっくりと拝読。そして考えるサルに変身(笑)

今日の内容は要約すると(上手く説明出来るかわかんないので、興味ある人はブックマークから祐美母さまのブログへGO!)

「何か学ぶ時は好きだからやって、好きじゃなくなったらやめる。
その時大切な事は好きじゃなくなった過去の思いを否定しないこと。
あれはダメだったと否定してグチばかり言ってると自分を否定してることになりますよ。
好きだった自分にフォーカスしましょう。
好きだったという事実の喜びはあなたを豊かにします」

と言ったような深いステキな内容だったのですが、それを読んでいてあることに気がつく私。

「アレ?そう言えばアタシ、そういう経験がないんでわ?ーー;」

そう、そうなんですよ。
私ってば好きではじめたけど、嫌いになってやめちゃった、とかって経験がない・・・。
自分で決めて選んだことには後悔したくないせいか、嫌いなことをした事がないの。
基本、怖がりの根性無しの面倒くさがりなので、嫌になっちゃう様なら最初っからやりたくない。
仕事も何もかも好きなこと&やる!と覚悟を決めたことしかやって来ていないので、「あれは嫌だったなー」となったことがないんです。
だから、過去が愚痴になる事がないのです。

以前、友人に言われました。「それはある意味、ハンディを持ってるよね」
う、うん、そうね、、、否定できない。。。

どーも私はかなり人様と感覚が違うことが多いらしい。。。。
特に私は特別な意識はないんですけど、細かい分析が好きなのか、いろんなモノに対して、自分のその時の感情や言葉を真っ直ぐ向けるので、単なる分析への意見が批判と取られたり、全体を拒否していると良く誤解されます。

例えば、私はシュタイナー系のクラスをやっていましたが、私と関わったことのある関係者の人は大体びっくりしていました。
なぜなら皆、わたしのことをものすごい強固な「アンチシュタイナー」だと認識していたからです(^^;)
ずっとそーじゃない!っつってたんですが、なかなか理解はしてもらえませんでした。
誤解ないようにこの場をお借りして説明しますと、私はアンチシュタイナーではなく、一部のシュタイナーを学ぶ人や人智学者と言われる人の考えや言動に共感ができないし、そこに賛同できないだけなんです。
なのでシュタイナーさんも、人智学も、シュタイナー教育も今まで一度も否定した事はございませんでーす。

もちろん、親しい人や深い洞察力でいろんな角度からモノを感じる方は言った時点でご理解くださる方もあるようですが、誤解されること多しです。
たぶん私はしゃべりや文章が下手なので、上手く伝えられてないんでしょう。精進せねばなりませんね。

このブログでも自分の考えや感覚を真っ直ぐ書くと、いろいろなモノや人や感覚や経験に対して「否定している」と誤解されるんですよね。
でも全然そうではない。否定と言うのは祐美母さんのコトバの様に「アレはダメだった」と表現することです。
わたしのブログ、読んでもらうと解るんですが、そういう言葉は完全に拒否している時以外は出てきません。
私が拒否る時って言うのは、自分が選んだものではなく、与えられたものとの間に起こります。
その時に、自分にはダメだなって感じるし、それを表現します。
それそのものを「あれはダメだ」という事は殆どありません。
人の考えにしろ、行動にしろ、何にしてもです。
ある程度のはっきりした考えがあるので、嫌なものやコレは違うと思うものは、正面からそう思わないとはっきり言っちゃうし~。
とにかくモノにはそれなりの存在理由があるので、それとわたしの感覚とは別だから。

感覚もそうですよね。十人十色です。だから一つの枠では答えられない。
「こういう行動をこういう風に思う」、と言うのと、「その行動をしている人がダメだ」というのとは私にとって全然違う次元なんです。
「えー、気に入らないんだから結局おんなじでしょ。」とか言われますが、そんなに単純に判断なんかできないよう(:。:)
と、いう風になかなかこの違いはわかってもらえないので、単純にアレコレ批判しているだけと思われがちな私です。
誰かにちゃんと解ってもらうって大変ですね(^^;)

以前、相方さんが演技のレッスンをしてくださる場に同席しまして、見ているだけでしたがその時のレッスンでものすごく何かを感じたことがありました。
それは決まっている台詞をそれぞれが決めた意志をもって会話すると言うもので、これは決してその意志を伝える為のしゃべり方をするのが目的ではありません。
ただ、自分の中にその意志をもって、しゃべってみる。
最後は自分の感情がどうあるのかは一切話さないんです。
会話をしてから、聴くわけですね。相手の人の言葉にどんな意志を感じたか?と。
持っていた感情が相手に伝わっていることもありますが、全く相手が感じなかった意志を相手が持ってる時もあります。
つまり、コトバや音色や見た目だけでは決定的な事は解らなかったりもする。
それが真実だったりもするわけですね。

そのレッスンを見ながら、本当に相手が言いたい事はなんなのか?
相手を理解すると言う事の難しさや、難しいがゆえに広い視野と受け入れる度量を持たないといけないこと、コトバや態度の内側にあるものを感じる繊細さの必要性、聞こえるコトバや見えるものに惑わされない大切さ、などを強く感じてました。
未だその辺は至りませんが、この逆で本心を伝えることの難しさも感じてました。
今回は書きませんでしたが、文章から相手の感覚をある程度知ることも出来ます。

人は決して一通りの道だけでは表せない。導きも一つの教え方では、全ての人当てはまらない。
けれども全ての人の中には必ず同じ何かがある。
だから理解をしたいと切に願うのではないだろうか。
大事なのは「同じ何かを感じる努力をすること」なのかも知れないな。
本当にそう考えると人間とは興味深い生き物です。

このように誰かの言葉や考え方からたくさんの事を教えてもらい、本当に毎日、毎日いろんなモノを頂いています。
人様と関わるという事は、本当にステキなことなんだなと思います。
祐美母さまをはじめ、たくさんの愛を分けてくださる皆様に感謝です


私はこのいろいろなものの考え方の中に居る感覚がとっても好き。
それは私が「世界」の中にいると感じさせてくれる。
たくさんの国、たくさんの人、たくさんの思い、それが一つの星の上にある。
私を振り向く事は、世界の全てを見つめること。
世界を見つめる事は私を見つけること。
私はそう感じています。

否定の中から肯定を見つけ、肯定の中から違いを見つける。
そういう作業は時に傷みも伴うが、癒しもする。
善も悪も傷みも癒しも、私は余すことなく受け取りたい。

わたしはあなた。
あなたはわたし。
わたしとあなたはわたしたち。
わたしたちはひとつ。

世界の中の私は、世界の全ての人を抱きしめている。