KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

だってキレイ事のほうがいいんだもん

2009-05-06 | KOFUKU日記
こどもの日でしたね。残念ながら雨。
うちのおこちゃま「ぴーちゃん」は、こどもの日のお祝いの「こいのぼりタマゴボーロ」を抱えて一日ねんねしてました。
世の中の子供たちは今日も楽しい一日をすごしたかな。。

五月五日と言うと思い出があります。
私には一回り下の弟がいるが、彼が5歳のお節句の時どうしても祝ってあげたくて、こいのぼり型のケーキを買った。
お小遣いもない極貧の我が家で、食事を賄っていた私は食費や通学費の電車代を必死にためて、買ったのだった。
こいのぼりのカタチの可愛いデコレーションケーキだった。
きっと弟は忘れていると思うけれど、私は一生嬉しそうだった、あの時の彼を忘れないと思う。

あの頃は分からなかったが、この年になってよく解る。
親の愛っていうか、家族に対して愛を持って行った事って美しい思い出になるものね。
例え自分が周りから全く愛されてないと感じる人生であったとしても、自分が誰かを、何かを心から愛した事は喜びとして残る。
それは自分の中の愛されない思いを、少しづつ満たしていくことかもしれない。
私は今、それを美しいと思い、ありがたいと感謝できる。
愛されなかった、可哀想だったと思い続けて生きるのは苦しいものだから、一瞬でもそういう喜びに浸ることが出来る私は幸せなのだろう。

仕事柄、子どもと関わることが多いせいか、お母さんたちとも関わることが多いです。
私は年老いて、さらに共働きの親代わりで年の離れた兄弟の出産の手伝いから育児までをしたし、主婦的生活も長かった。
学校でも「育児で疲れてるから」と居眠り許可してもらえてた程である(マヂ)
だから普通の主婦より、主婦歴は長いといえる。
見た目がそう見えないので、何にも知らないだろうと思われることが多いけど、そうではない。
主婦業やってると大変なことも多い。子どもがいるとなおさらだ。
だから、世のお母さん達の苦労が良くわかる。
けれど、私は主婦業がめっちゃ好きだからかも知れないが、子どもがいて大変と思った事はない。

親がものすごくクリエイティヴであったせいかもしれないが、うちの兄弟は遊ぶことが上手だった。
親も一緒に居るときはとことん遊んでくれた。
独創的に遊ぶって事はどんなことか自然に身についた。
だから遊び上手になったのだ。
親も子ども達と遊ぶのは大変だとか、どこに連れて行かなきゃいけないから大変だとか口にした事は一度もなかった。
恵まれたことだと思う。

時々、幼稚園などで働いていると、お母さんたちが「家事が大変」「結婚するとただの奥さんやお母さんになって味気ない」と話すのを耳にしていた。
さらにお休み前とかになると「わ~、困った~」いうのも良く聞いた。
子どもたちも「何して遊んだらいいの?」と聞くらしい。
だから家に居ると困るから、学童や塾やお稽古事に行かせるんだと言う。
幼稚園で働いてる時、夏休みのお預かりも親が自宅にいる子どもばっかりだった。

家が大好きだった私はなんてなんて可哀想なことだろうと思っていた。
お母さんも、子どもも。お互いが目の前に居て大変だなんて不幸だ。

子どもが居て大変なら産まなきゃ良いのに、
お母さんになってお家の仕事をするのが大変なら最初から結婚しなきゃ良いのに、
ただのお母さんでなく、妻でなく、評価されたいなら、最初からその環境を作って、それをキープしながらお母さんも妻もしっかりやり切れる人で居るべきでは?

少々過激な意見かもしれないが、当時、シュタイナーの家庭や自然一番の愛に溢れた世界から、普通の、いや、なんちゃってシュタイナー教育をやってる幼稚園にやってきたシェアメイトと私は、子どもを疎んでは、自分たちの自由を主張する親たちを見て、シュタイナーとは名ばかりで子ども達が自分らの思い通りに動かないと憤る先生達を見て悲しかった。
納得して今があるのに、その結果に対して文句言うなんておかしなことだ、と話し合っていた。

その頃のシェアメイトは幼稚園で働いていると、結婚も子供を持つことも嫌になってくるといっていた。
日本の幼稚園って子どもの夢を壊して行くところなんだなーって、、。
いや、もちろん、私たちの事は棚に上げて言ってたんだけど(^^;)

でも、親にかまってもらえない子どもはかわいそうだ。
なにかにこう書いてあった、

「親にかまわれない子どもにとっては、愛されてないのと同じ。
親がどんなに愛していると思っていても。」

子どもと接していて私もそう思う。
親がどんなに愛していると思ってても、子どもがそれを感じてなければ、子どもにとっては辛いことだ。
孤独となんら変らない。
だって、相手はこどもなんだもん。深く相手の感情まではさぐれない。

こどもの日
せめて今日くらいは全てのママたちにこどもをちょっとでもいい、構ってあげて欲しいなと雨の音を聞きながらそう思いました。


さて、唐突ですが人には心に残る言葉って言うのがあるとおもう。
役者や物書きや物事を創りだす仕事なんてやっているせいか、そんな言葉に敏感なわたし。
最近は以前と打って変わって時間があるせいなのか、はたまたここの所のいろいろな経験がそうさせるのか、いろんな人に会うたびになにやら思う性分のせいなのか、「幸せってなんだろね?」と考えることが多くなった。
もちろん、わたしにとっての幸せの定義なんだけど。

私は映画が好きで良く見るけれど、昨日、今日はお気に入りの作品を見た。
「僕の大切な友達」というフランス映画。
そしてショーン・ペンの「I am SAM」
昔の映画だけど「真夜中のカウボーイ」
大好きな映画は繰り返してみるんだけど、これらもその一本。
どれも友情や親子の愛を描いた作品になっている。
映画を見ながら自分の心を探った。

私は恵まれていろんな方と出会わせて頂いている。
昨日も書いたが政治家の方から、宗教家、スピリチュアリスト、一流俳優に歌手、本当にスローライフを実践している人、お金持ちもいれば、生活困窮者もいる。
でも、多くの知り合いが私から見ても幸せな人が多いのはステキなことだなと思う。

中にはお金を持っていても、生き方も環境も本当にかわいそうな人もいるけれど。
そういう人とは自然とご縁が薄くなってゆく気がする。
もちろん、決して人の生き方を否定する事はない。
だが、おのずと自分の好きな人生の歩み方と言うのは生まれてくるものではないだろうか?
縁が薄くなってくるのは、単純にそれが私自身の魂が相手のあり方になじめないからだと思う。
その人を嫌いになっちゃったりするからでは決してない。
どーしても、その人の生き方に笑顔で踏み込めないだけだ。
そうしてるうちに疎遠になる、というか。。。
っていうよりか~、私たちが何か助けたいと思っても、そういう人たちは私みたいな考え方の人をおのずから切っていく気がするんです。
きっと何よりもその方たちの意図に反するのでしょう、こちらの生き方が。

不思議と長い縁が続く私の知り合いはお金よりも心で生きている人が多いんです。
親友なんてシュタイナー幼稚園で担任やってますが、あなた、お給料4万円ですよ、4万円!
それでも2万円アップしたの~と喜んでいる。
彼女は普段、福祉施設の調理に行って生活を立てている。
自分に出来る事を少しづつやって行きたいといつも笑顔を忘れない、とってもステキな女性。

過疎の村で畑耕して、米と茶だけあれば生きていける、といいながら生きてる若者達もいる。
お金はなくても明日は来るさ、それなら歌っちゃえ!見たいな(笑)
今は動けなくなったおじいちゃん、おばあちゃん達の畑を譲り受けて、大事に育てている。

よくコメントくれるリッキーもスローライフ提唱者だ。
オープンした整体のお店に来てくれた、たった一人のお客さんに笑顔満載で喜べる素晴らしい友である。

相方もそうだ。
彼は「生活の為に働くこと」はしない。
夢を叶える為に生きていかなきゃいけないから働く。
すべてを自分の夢に捧げている勇気ある人だ。
夢にはすべての人を幸せにすることが含まれている。

そうかと思えば、お金は余るほど持っていても、何かと不幸な人もいる。
そういう人は少しのものも失うことをとっても怖がる。
失わないためには人の心を踏みにじることも平気だったりするが、すでにそれが悪いとも思わないのだろうな。
そういう人は恐れているから、自分が恐れなくて良い正当な理由と言うものを必ず持っている。
そして、その理由を信じようとしてる様に私には思えるときもある。
そしてお金や名声ってモノに重点を置きすぎて、今持ってるものを失っていく事にすら気がつかないんだとおもう。
そういう人は「僕の大切な友達」主人公フランソワではないが、お金や地位で友情や愛が豊かに出来ると信じている気がする。
フランソワのように良い友達が居て気がつけば良いが、たぶん、殆どの人は気がつかないのかも知れない。
だってそういう人は、そういう人しか友達に選ばない。
私たちのように、誰をも友達にしないからだ。
私はそう思うのだが。
でも、ある意味、確かにそれが一つの幸せのカタチなのかもしれないけれど。

お金も環境にも立ちはだかる壁ばかりの私ではあるが、私って人間は、結局究極の所まで行ってみてもお金だけを中心に置く生活の波には乗れない様だ。
ほんっと貧乏性って損だわね(笑)

最近、相手の為にという善なる意識を持ってビジネスする人々の集まりに行ってみて本気でそう思った。
そこに居る人たちはステキな人ばかりだったのだが・・・・。
結局、私にはどーしてもそれが善からきている考えだとは納得に至らなかったし、なじめなかった。
ミリオネアになったらそりゃあ、なんでも出来てすてきだろうとは思うが、そこに行くまでのあり方が疑問だった。
その過程で関わったみんなを幸せにしてるとは言いがたかったから。
決して、真っ直ぐに幸せを差し出しているものではなかったし。
どっちかって言ったら、賭けをさせている気がした。
賭けに勝った人はそりゃあ嬉しいし面白かろう。
勝てば良いだろうが、そうでなかった人は?と思ってしまった。
人は良い時ばかりじゃないから。

問題はその時だ。
その時にその人たちは、その相手に対してどうするのかが大事なところだと思うのだが。
けど、その現場には賭けに負けた人はいなかった。
少なくとも賭け続けている人と勝ってる人しか居なかったのだ。
まあ、その人たちに言わせれば「選んでもらうもの」だから、こないのは選んだ人の責任ってことか~と思ったけど。

ひねくれモノで斜めにモノを見ている私は、この状況って賭けに負けちゃった人の面倒を見てないって事じゃないのか?と思っちゃったんである。
だって、本当に心救われる場所なら、みんな、そこに集ってるはずと思ってしまった。教会やお寺みたいにね。

けれど、前に立って話す人は皆がみんな、ビジネスを成功させたことしか話さない。
幾ら売りました、私は誰だれの為にこれを頑張っています、とそれの繰り返しだった。
本当に相手を思ったビジネスなら、相手がこのように喜んでくれたとか、そのことによって、その人がこのようになって嬉しいとか、話すんじゃないかとおもった。

でも個人的な話の中で、「この仕事を正しく理解できない人は離れていく」的な言葉は聞いたが、皆で幸せ説を話していた彼らの中に「ここにきていない誰の為に、こうしましょう」って話をする人は一人もなかった。
それがちょっと残念だった。

まあ、彼らには彼らの信じるところがあるし、私の意見が正しいわけでもない。
私がそう思ってしまったってだけなんだけど。

それよりも今の私には親友たちのような生き方のほうがステキに思える。
なぜなら、そういう人たちはとても自分の生き方に責任を持っているし、何より勇気を持って潔い生き方をしている。
自分の人生と言うものを全て使って、物事に取り組んでいる。

人は生きていくことを先に考えるものだ。
だからいろんな躊躇をする。
「食べる為に我慢して仕事する」とか「結婚する為に妥協する」とかと言う風に。
そういったものを失う事はとても怖いものだ。
それは当たりまえだが、仲間たちの生き方の多くはそうではないのだ。
その恐れを乗り越えている。

かといって決して未来を楽観していたリ、今さえよければ良いと思っているわけじゃない。
皆がみんなと言って良いほど「未来」に向かって前向きに歩んでいる。
ちゃんと意味があるのだ、全てにおいて。覚悟があるから出来る。
怖いのは彼らだっておんなじなのだ。でもそれを選んだのだ。
だから人生の全てを捧げられるし、棄てられるのかもしれない。
それはとっても勇気の居ること。
小さいことだが、一つ一つを大事にカタチにしていく事は素晴らしい事だと思う。
未来の為に今日の一歩を大事にしているのだ。
山火事の時、くちばしに水を蓄えて、消火にあたったハチドリの一滴のように。

ネイティヴ・アメリカンたちは今日やる事を決めるのに7代先の子孫達を想った。
自分たちの成す事が7代先の子孫にとって幸せなものとなるかどうかを考えた。
それは、今、わたしの中にある善意に嘘がないかを問うことでもあると想う。
自分の生き方に、やっている行動に嘘がないかを。
それは決して完璧であることではない、と想う。ただ思いは大事ではないか。
私も出来るだけ、自分に嘘をつかず、行うことに覚悟と自信を持っていたい。

スピリチュアルな話になってしまうが、私は怖がりのせいか、他人のそういう嘘がよく解るのだ。本当か嘘か。
そして、わたしの経験上、統計的に言って、そういう嘘を持っている人は大いなる力によって結果を与えられる事になっていると想う。
だから不思議なこともたびたび目にする。
偽って善を語っている人が触った本の真っ白なページが真っ黒になってしまったり、触ったモノが腐敗したり、料理がこげて黒くなってしまったり。
大体、そういう人は自分の行いを悪いと思ってやっていない。
気がつかないうちに、欲や何かに埋もれてしまうんじゃないかと想う。
そして、気がつくと「嘘」を語っているのだ。自分も知らないままに。
そういう事が多い気がする。
こういった不思議な事柄はメッセージなんだろうな。
たぶん、経験上、そういう事がカタチとして起きるときはかなり危ない時。
答えが下りてくる前なのかもしれない。
そういう人に会うと、あ、ヤバイかもと想う。そしてわたしのこの勘は良く当たる。
お天道様はなんでも見ていなさるってことだろう。
そして、それを横に居て体感するのは、また私にもメッセージが与えられていることだと想う。
だから、時おり、自分も気をつけなくてはいけないと身を正すことがある。

もちろん前出の方々は本当に善を思って動いてらっしゃるのだろう。
同じように未来を見据えているからやっておられるわけだ。
何も悪くない。
でもわたしの心の奥の何かが大きく違うなと感じたのだった。

例えば、「安定」とか「一般的な認識」と言う、人間であれば棄てるのが難しいものを、潔く捧げて生きている友人達の姿の方が私は好きなのだろう。
大きなこともステキだが、小さな事を大切に出来る友人達の方が好きだと思う。
そして、そういう友人達は、決して弱いものの事を忘れないとも感じる。

自分の中のブームで世界を渡って行く人は信念があるようで、そうではない気がする。
そのブームの源に信念があればいいが、そうでなければ心も流れるように変っていくからだ。

けれど、小さな幸せを生きられる人は違うと思うのだ。
そこには揺るがない信念と理由がある。
私もその様に生きていたい。
たとえ、苦しい身の上であれ、最後の日、この信念は私に喜びと感謝の心を生み出してくれることを、私は自然の内に理解している気がする。

まあ、色々書いたけど結局は根っからの貧乏性なだけってことだな(^。^;)

こんなわたしに「そんな奇麗事ばっかりじゃ生きていけないよ」と人は言う。
そうかもしれない。でも、まあ、それもいいと思っている。
それで生きてきたし、それがあたしなのだ。

仮面ライダークウガでこんな台詞があった。

「だからこそ現実にしたいじゃない。
だってきれいごとのほうがいいんだもん」

私もそう思う。実現させるならきれいごとのほうがいい。

そして、人生の終わりには尊敬する愛の冒険家ムーミンパパのようにこう言いたいものだ。

「最後に私に影響をおよぼし、
わたしの人生を芸術作品たらしめてくださったみなさま方に、
心からの感謝をささげたいとおもいます。」

私はきれいごと満載の愛に溢れた潔い冒険人生を送りたい。