とにかく私は手を動かす作業が好きだ。
編み物とか、縫い物とか、とにかく好きなんである。
それさえしていればご飯も食べなくてもいいくらい。
まさに三度の飯よりすきなのだ。
でも出来がよいかっていうと謎ですが。。。(--;)
とにかーく、手によって何かカタチを作っていくことが好きなのだ。
何かが出来上がっていく様はある種のドラマさえ感じてしまう。
でも凡人なので、一般的に言うところのきれいなものが好きかも知んない。
人の家に言ってお部屋の中がシンメトリーとかなんらかの規則性を感じる並べ方などされていると胸がキュンとなるくらいだ(笑)
素朴でシンプルな美しさやレトロな豪華さには特に惹かれるものがある。
あ、でもオフバランスな作品とか、色の氾濫みたいな作品も嫌いではない。
でも創造性の乏しい私はピカソにはなりえない(^^;)
(私はピカソの青の時代が一番好きである・笑)
そんな私は先日、シルクのブラウスの裾のほつれ直しを頼まれまして。
昨日から、ぼーっと音楽聴いたり、DVD見たりしながら縫い物仕事。
私は特に手縫いが好きで、運針がすっごく好き。
中でも今回やっている「千鳥がけ」は右から左に縫い進む縫い物のなかで、貴重な左から右に縫い進み、その縫い目も三角のひらひらみたいで可愛いのである(^^)
三角がきれいに並ぶと嬉しい。
こんなことで嬉しくなれる自分が、のーてんきな感じでまたヨロシイ(笑)
嬉しく仕事をしていると、気持ちの良い思いがココロを巡る。
歌の一つも出てくるってもんだ♪
そして、「あの人はどーしてるかしら?」、「兄ちゃんは旅先で元気かな?」とか人への思いも暖かい気持ちでわいてくる。
嬉しい時、縫い目は可愛らしい。そして麗しく仕上がる。
不思議だが、手仕事にはココロがそのまま現れるのだ。
料理も縫い物も編み物も、なんでもそうだ。
ただそれらには技術的にごまかしが効く部分もあるので仕上がりが何とかなることも多い。
そういったごまかしが効かず、目に見えて心があらわれるのは、いろんな作業の中でも特に「糸紡ぎ」ではないかと思う。
糸つむぎは紡ぎ車を廻して、まーっすぐに糸を引き出し巻き取るだけの作業だが、それが簡単ではない。
簡単に糸は紡げるようになるのだけれど、均一で真っ直ぐな糸をひくのは難しい。
心によどみがあれば糸は切れたり、だまになったりする。
真っ直ぐ、真っ直ぐとコントロールしようと思えば思うほどゆがむ。
頭や身体や手が機械や糸を牛耳ろうとしているうちは真っ直ぐな糸は紡げない。
たぶんだが、ココロの奥底の方から生まれてくる「静けさ」や「愛情」が本当に大切なのだと思う。
作品やそれを渡す相手への愛情をもって仕事をしていると、不思議とその気持ちが糸車に伝わるのか、自然と呼吸が糸車と一つになってくる。
踏み板を踏む足は、もはや踏むという行為をしていない。
手は手でなく、糸車の一部になって仕事をしている気がする。
すると、ボビンには比較的真っ直ぐな糸が巻かれている、と言うわけだ。
真っ直ぐな糸は編んでいても手触りがすべらかで、作品の仕上がりだってきれい。
本当に“善いもの”美しいものだ。
そしてそれは単純に上手ってのとはちょっと違う。
偉そうな意見話だが、上手なものが必ずしも言い訳じゃない、と私は思っている。
上手だけど作り手のココロを感じない作品ってのも一杯ある。
キレイで可愛いって所だけ見る人には解らないかもしれないから、問題ないかもしれないんだけど。。。
でも私にはそこが一番重要だったりする。
私は本職は腐っても役者だと思っているが、ミュージカルを生業にしている時もそう思っていた。
例えば歌だって、歌えるからいいわけじゃあ全然ない、と私は感じてる。
業界に上手に歌える人はゴマンと居るが、本当に善い歌を歌える人は少ない。
お芝居だって同じだ。芝居の上手な役者は一杯居るが、善い芝居をする役者は少ないのだ。
ただ上手いだけの人の作るものは感心しても、感動はしない。
だから、私がプロデュースしてた作品に「ただ上手い」だけの人なんか一人も居ない。
何が自慢って、それが自慢さ(笑)
作れるだけ、歌えるだけ、踊れるだけ、演じれるだけ、エトセトラ。
そんな人はわたしの作品にはいらないのだ。
誰かの心に語りかけるには表面がキレイなだけではダメなのだ。
あ、でもキレイなものだけで満たされる人は、キレイなだけで十分に良いのだと思うけれど、私の伝えたい美はそこにはたぶん無い。
動かしたいものは、そこじゃない。
まあ、そう言う訳だから、100パーセントの方に喜んでいただけるよういつも努力はするのだが、こちらの美観にあわないこともあることも事実。
この我侭な美観に琴線をふるわせてご覧下さるお客様に一人でも遭遇できればと思う。
日々ブログにて呟いておりますが、あくまでも私の中の呟きコトバで御座います。
私には「こうです」「こうなんです」と言い切って書くにはまだまだ1000年は早いので。
私はこう思ってる、そう書くのが精一杯。決定権はないのでさらっと読んでね、です(^^;)
とにかく私は、その人の中に響き渡る美しい音を聴いて、そしてそれを伝えようとする努力と力のある人が好きなのだ。
自分の中にある美しさを真っ直ぐに受け取れる人が好き。
私はそういう人を「芸術家」と呼ぶにふさわしいと思っている。
では「お上手なだけ」と「上手なだけではない」って言うのは何が違うんだろうか。
私が思うに、人の一番奥そこに聞こえてくる「ココロネ(心音)」の響きの捕らえ方が違うんじゃないだろうか、と感じている。
目や耳や身体や肉体的な五感を使って自分の中に生み出すものだけではなく、もっと人間の肉体の機能を越えたところに答えがある気がしている。
人間は生きている限り肉体を通して生活をしなくては成らない。
だから、この肉体を大事にすることは素晴らしいことだ。
だが、本当に美しいものをみたり聞いたり、ましてや生み出す行為は、この肉体にある機能だけではきっと解らない。
星の王子様も言ってるが「本当に大切なものは目に見えない」から。
この身体だけでは見えないものを見、聞こえないものを聴く力がきっと大切なのだろう。
それは愛を感じる力、と言って良いのかもしれない。
手仕事はそんな力の大切さを身近に私に教えてくれる。
もっとも聖なる場所である「ホーム」のなかで、愛を生み出す仕事が出来るって事は幸せだし、本当は全ての人がそうでないといけないのかもしれない。
だからこそ、私たちにはこの手がある。そして身体があって心がある。
それは私が立っている場所をまずあたたかな愛の溢れる場所にする為だと思うのだが、どうだろうか?
だから、わたしの身体にくっついているんだと思うのは飛躍しすぎ?(笑)
でも、わたしの心にはそう響いている。
今日もココロの音に耳をすませながら、静かに一生懸命、手を動かそう。
編み物とか、縫い物とか、とにかく好きなんである。
それさえしていればご飯も食べなくてもいいくらい。
まさに三度の飯よりすきなのだ。
でも出来がよいかっていうと謎ですが。。。(--;)
とにかーく、手によって何かカタチを作っていくことが好きなのだ。
何かが出来上がっていく様はある種のドラマさえ感じてしまう。
でも凡人なので、一般的に言うところのきれいなものが好きかも知んない。
人の家に言ってお部屋の中がシンメトリーとかなんらかの規則性を感じる並べ方などされていると胸がキュンとなるくらいだ(笑)
素朴でシンプルな美しさやレトロな豪華さには特に惹かれるものがある。
あ、でもオフバランスな作品とか、色の氾濫みたいな作品も嫌いではない。
でも創造性の乏しい私はピカソにはなりえない(^^;)
(私はピカソの青の時代が一番好きである・笑)
そんな私は先日、シルクのブラウスの裾のほつれ直しを頼まれまして。
昨日から、ぼーっと音楽聴いたり、DVD見たりしながら縫い物仕事。
私は特に手縫いが好きで、運針がすっごく好き。
中でも今回やっている「千鳥がけ」は右から左に縫い進む縫い物のなかで、貴重な左から右に縫い進み、その縫い目も三角のひらひらみたいで可愛いのである(^^)
三角がきれいに並ぶと嬉しい。
こんなことで嬉しくなれる自分が、のーてんきな感じでまたヨロシイ(笑)
嬉しく仕事をしていると、気持ちの良い思いがココロを巡る。
歌の一つも出てくるってもんだ♪
そして、「あの人はどーしてるかしら?」、「兄ちゃんは旅先で元気かな?」とか人への思いも暖かい気持ちでわいてくる。
嬉しい時、縫い目は可愛らしい。そして麗しく仕上がる。
不思議だが、手仕事にはココロがそのまま現れるのだ。
料理も縫い物も編み物も、なんでもそうだ。
ただそれらには技術的にごまかしが効く部分もあるので仕上がりが何とかなることも多い。
そういったごまかしが効かず、目に見えて心があらわれるのは、いろんな作業の中でも特に「糸紡ぎ」ではないかと思う。
糸つむぎは紡ぎ車を廻して、まーっすぐに糸を引き出し巻き取るだけの作業だが、それが簡単ではない。
簡単に糸は紡げるようになるのだけれど、均一で真っ直ぐな糸をひくのは難しい。
心によどみがあれば糸は切れたり、だまになったりする。
真っ直ぐ、真っ直ぐとコントロールしようと思えば思うほどゆがむ。
頭や身体や手が機械や糸を牛耳ろうとしているうちは真っ直ぐな糸は紡げない。
たぶんだが、ココロの奥底の方から生まれてくる「静けさ」や「愛情」が本当に大切なのだと思う。
作品やそれを渡す相手への愛情をもって仕事をしていると、不思議とその気持ちが糸車に伝わるのか、自然と呼吸が糸車と一つになってくる。
踏み板を踏む足は、もはや踏むという行為をしていない。
手は手でなく、糸車の一部になって仕事をしている気がする。
すると、ボビンには比較的真っ直ぐな糸が巻かれている、と言うわけだ。
真っ直ぐな糸は編んでいても手触りがすべらかで、作品の仕上がりだってきれい。
本当に“善いもの”美しいものだ。
そしてそれは単純に上手ってのとはちょっと違う。
偉そうな意見話だが、上手なものが必ずしも言い訳じゃない、と私は思っている。
上手だけど作り手のココロを感じない作品ってのも一杯ある。
キレイで可愛いって所だけ見る人には解らないかもしれないから、問題ないかもしれないんだけど。。。
でも私にはそこが一番重要だったりする。
私は本職は腐っても役者だと思っているが、ミュージカルを生業にしている時もそう思っていた。
例えば歌だって、歌えるからいいわけじゃあ全然ない、と私は感じてる。
業界に上手に歌える人はゴマンと居るが、本当に善い歌を歌える人は少ない。
お芝居だって同じだ。芝居の上手な役者は一杯居るが、善い芝居をする役者は少ないのだ。
ただ上手いだけの人の作るものは感心しても、感動はしない。
だから、私がプロデュースしてた作品に「ただ上手い」だけの人なんか一人も居ない。
何が自慢って、それが自慢さ(笑)
作れるだけ、歌えるだけ、踊れるだけ、演じれるだけ、エトセトラ。
そんな人はわたしの作品にはいらないのだ。
誰かの心に語りかけるには表面がキレイなだけではダメなのだ。
あ、でもキレイなものだけで満たされる人は、キレイなだけで十分に良いのだと思うけれど、私の伝えたい美はそこにはたぶん無い。
動かしたいものは、そこじゃない。
まあ、そう言う訳だから、100パーセントの方に喜んでいただけるよういつも努力はするのだが、こちらの美観にあわないこともあることも事実。
この我侭な美観に琴線をふるわせてご覧下さるお客様に一人でも遭遇できればと思う。
日々ブログにて呟いておりますが、あくまでも私の中の呟きコトバで御座います。
私には「こうです」「こうなんです」と言い切って書くにはまだまだ1000年は早いので。
私はこう思ってる、そう書くのが精一杯。決定権はないのでさらっと読んでね、です(^^;)
とにかく私は、その人の中に響き渡る美しい音を聴いて、そしてそれを伝えようとする努力と力のある人が好きなのだ。
自分の中にある美しさを真っ直ぐに受け取れる人が好き。
私はそういう人を「芸術家」と呼ぶにふさわしいと思っている。
では「お上手なだけ」と「上手なだけではない」って言うのは何が違うんだろうか。
私が思うに、人の一番奥そこに聞こえてくる「ココロネ(心音)」の響きの捕らえ方が違うんじゃないだろうか、と感じている。
目や耳や身体や肉体的な五感を使って自分の中に生み出すものだけではなく、もっと人間の肉体の機能を越えたところに答えがある気がしている。
人間は生きている限り肉体を通して生活をしなくては成らない。
だから、この肉体を大事にすることは素晴らしいことだ。
だが、本当に美しいものをみたり聞いたり、ましてや生み出す行為は、この肉体にある機能だけではきっと解らない。
星の王子様も言ってるが「本当に大切なものは目に見えない」から。
この身体だけでは見えないものを見、聞こえないものを聴く力がきっと大切なのだろう。
それは愛を感じる力、と言って良いのかもしれない。
手仕事はそんな力の大切さを身近に私に教えてくれる。
もっとも聖なる場所である「ホーム」のなかで、愛を生み出す仕事が出来るって事は幸せだし、本当は全ての人がそうでないといけないのかもしれない。
だからこそ、私たちにはこの手がある。そして身体があって心がある。
それは私が立っている場所をまずあたたかな愛の溢れる場所にする為だと思うのだが、どうだろうか?
だから、わたしの身体にくっついているんだと思うのは飛躍しすぎ?(笑)
でも、わたしの心にはそう響いている。
今日もココロの音に耳をすませながら、静かに一生懸命、手を動かそう。