KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
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南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

そよ風吹くところ

2009-05-23 | KOFUKU日記
最近はPCの使える時間が限られている為、思うだけ使ってブログに書き込むことが出来ません。
夕べも使えたのが深夜だったのである程度まで書いて寝てしまいました(^^;)
今朝は起きてナナちゃんに会いに行き、それから洋酒付けプルーン入りのマフィンを焼いてPCに向かってます。

わたしのブログの特色はいちどアップしても、ある程度いいやーと納得できるまで内容がドンドン増えたり、書き直ししたりしているところかも知れません。
まさにつれづれ。それほどに想い湧き出る今日この頃なのです。

さて、昨日は原宿時代からご縁を頂いている、ダウン症の子ども達のお母様のご紹介で、早稲田の財団法人日本ダウン症協会(JDS)までお手伝いに行かせて頂きました。
JDSの本部は東京メトロ早稲田駅から早稲田大学文学部の前を通ってテクテク歩いていくと現れる大きな白いビル、全国心身障害児福祉財団ビルの中にあります。
お隣は日本基督教団の本部があって、ステキな洋館が建っています。
JDSはなんだかちょっとした隠れ家みたいな場所にあるのに、お庭付きって感じの環境で、光もいっぱい差し込むし、そりゃあ良い風が通り抜けるんです。
そんなお部屋がJDSの本部。
誠心誠意でダウン症の子ども達に向かい合っているスタッフの方々も皆さん、優しくて懐の広い方ばかり。
ダウン症の子ども達と同じように元気で明るいのです(^^)
みんな笑顔でおしゃべりしながらゆったり、ちゃきちゃき、黙々と仕事をされているのが印象的でした。
相談のお電話にも丁寧に丁寧に対応されていて、とても深い心使いを感じました。
個人的にも仲良くしていただいている、ダウン症児の医療では権威である長谷川知子先生もいらしておられて、心配でかけてくる親御さんのお電話に親身に対応しておられ、電話などで気軽にこんな素晴らしい先生と直接お話を出来るなっている。
会員でなくてももちろん対応してくださいます。
とても素晴らしい環境が作られているんだなと思いました。

自分の事は棚に上げまくって吐露してる私なんですが(^^;)、こういったすがすがしい環境に触れてなお感じることがありました。
最近とにかくコトバでは優しいことを言ったり、書いたりしていても、実は行動が伴ってないのでは?と人に感じる事が多くて、ちょっとココロが疲れ気味です。
もちろん、自分がいい人だから、そう感じるわけじゃないと思います。
どっちかって言うと、常にそういう疑いをもってしまう訳ですから、すさんでますね(--;)

私がそういう感覚を感じる方々は、なぜか常日頃から愛をテーマにお仕事をしておられる方に多く、当然ながらご自分がそうであることには全く気づかれていないと感じてました。
って言うか、私がそう想ってるだけで、相手は意識無いのが当然かもしれないですね。

ただこのところ色んなとこで出会う人、出会う人、そう言われている人、そう自分で言っている人に限って、そんな理不尽を感じたのです。
人は完璧な人はないといいますから、しょうがないのかもしれないんですけどね。

でもじーっと見たり聞いたりしていると、言ってる言葉も誰かの言葉の転用だし、やってることもかなりいいかげん。
たいそうなこと言ってても、結局、地位やお金を得るためにつなげてるんじゃないかと思えてしまう。
胸に手を当てて、本当に全て愛から生まれてますと言えるのか?と想ってしまう。
って言うか、ごめん、その生き方であなたそう言っちゃいますか?見たいな所まで~(笑)
偉そうですが、本当に私にはそう思えることが多かったんです。
特にその人たちに何か期待をしているわけではなかったはずなのですが。
ただどれだけ言葉にしていても、そのコトバや存在から愛のオーラや真の努力を感じない方々に「愛とはこうですよ、コレが愛なのですよ」、と口先でだけ語られても「なんだかなあ、どっか嘘なんだよなあ。ちっともそう感じないし、あなたがそう見えないよ」って感じで本当にガッカリしてしまうことばかりで。
とてもいい人だよ、ステキな人だよ、と言われても、会う人会う人そうだったりすると、なんかとってもとってもとっても悲しくなっちゃって。
まあね、そういう風にしか感じられないアタシの心の成長が未熟なだけなのでしょうが。。。

でも、このところはそんな人との対面が多すぎて、逆に偽善的で嘘っこな愛の主張をどれだけ聞いているよりも、困難や問題に精一杯立ち向かって、悩んだり、怒ったり、叫んだり、苦しんだりしている人の中にこそ真実の愛を感じてました。
表と裏、善と悪、そういった相反する二つのものが、本当に大事であることが心に大きな想いを投げかけていたのです。
なんと言うか、こないだも書いたんですが、自分の本当の部分と向き合うと言うかね。
だからこそ、人としっかり向き合って、お互いを大事にしながら会話をする大切さを感じていたのかもしれません。
人は、その時、その時で必要な要素や時間というものがあるのかもしれませんね。
いま、私にとって本能的で人間的な行動を体験したり、考えたりすることはきっととても大事なことなのでしょう。
そう感じるからこそ、目の前で起きることの相反する二つの要素がかけていたリ、バランスが悪いと「嘘」になるのが過敏に感じられるようになったのかも知れません。

確かに人は相手に自分の主張を理解をしてもらえたら楽ですよね。
だって自分が納得できる事だからとても気持ちがいい。
相手も私に自分が納得できるように理解して欲しい。
でも実際は難しいものです(^^;)何かと自分が邪魔をしてしまったりする。
愛しているがゆえにそうであることもあります。

ただ思うのですが、人間とは本能的に優しく居ることを知っているのではと思うのです。
だから本当は相手を受け止めることも簡単に出来るのかもしれない。
でも、あえてそうにはならないように造られているんじゃないかな?って。
なぜ、こうしたザワザワしたココロが生まれるんだろう?
そう考えたとき、「必要だからだな」、と私は思いました。
意味があって、大事だから、そうなるんだな、と感じたのです。
そして、たぶん、その見たくない部分に真っ直ぐに向き合わないと本当の穏やかさや、あたたかさや、優しさや愛には本当は触れられない気がしました。
暗いものを拒否すればするほど本当の美しさはきっと分からないのではないか?

ある時、シスターが教えてくれました。

「美しい蓮の花はドロの中から生まれて花を咲かせる。
神様は闇があったからこそ、光を作られたのですよ。
闇のなかに光が見えるように」

私も含めてですが、多くの人は善なる気持ちにあこがれます。
そして愛の美しさを謳うことに必死にもなったりする。
そして自分の日々の在り方とその愛の本質との違いに揺れたりもする。
特にそれが「仕事」になってくると、今度は「愛」であらねばならなくなってくる。
愛だけを考えて、本当に純粋にそれを行えているならきっと問題は起こらない。
ところが、それを行っているのは人間だったりもして、時にいい加減になってしまうこともあるのではないか?
でもそれを生業にしている人は、そうであってはいけない。
それを隠そうとしていると当然うそが生まれる。
でも仕事のため、つまり「愛の人」で居る為には愛や優しさと言う嘘の美しさだけを重ねようとするのではないだろうか。
でもそれを繰り返していると、本当の闇をみることはない。
だから、私が感じるようなことがおきるのではないか?とも思ったりします。
仕方ないことなのかもしれません。

安易かもしれませんが、大事な事を、大事な人に、どんなカタチでも一生懸命伝えようとする努力には愛が宿る気がしています。
こないだ書いた、善も悪になりえるし、悪も善になりえることもある、と言うのであれば。
本当に大切なこと。それを理解する為の、いろんなカタチの努力。
修羅な努力もして見ないと、きっと失敗も見えないから、それを治すことも出来ないのかもしれない。
ある意味、失敗という事にすら気がつけないで終わるとも言えるのではないか。
失敗は成功の母、とはよく言ったものです。
実際、自慢にはなりませんが私はよく失敗します。特に人間関係は下手。
一番身近なところでは家族との関係がありますが、その間柄の中でも上記のような会話が大事なんだなって思うようになりました。
嘘で愛を並べ立てるよりは、その方が愛と真実に近いんじゃないかと思うようになったんです。

昔のことですが、友人のご両親の話です。
周りからもご本人も愛に溢れていると常日頃から想われている、友人のお母さんの仕事は心のカウンセラー。
みんなの尊敬を浴びて、ご本なんかも書いていました。
お母さんはいつも優しく笑ってて、口から出てくるのは愛の言葉ばかり。
さすがだなあ、凄いなあ、と想っていたら、ある時、おじちゃんが私にそっと呟いた。

「俺達夫婦は子どもが居なかったらもう終わってるよ。
俺から見たらあの人は嘘だらけで不満しかわいてこないし、何を言っても聞かないし、思いやりもない。
構えば腹も立つからほっといてるだけなんだよ。
いいかい?大きくなったら、口だけの優しいコトバや、人が観ているときの行動だけ善く見せるのではなくて、本心から愛を実行出来るすてきな女性になるんだよ。」と。
そのお二人は子どもが居ると言う理由で離婚なさらず、人前では愛に溢れた夫婦、家庭内では絶縁の状態で過ごされていました。
大きくなって、家の中のいろんな嘘に気づいた友人はとても悲しそうでした。
でも本人は反面教師でとてもステキなお母さんになりましたけどね(笑)

実はこの台詞、この状況、この10年で複数の男性から聞いた事があるんです(^^;)
いずれも奥様や彼女さんは、それぞれの世界で才色兼備、性格よろしく、愛に溢れ、人を導くような仕事の方ばかり。
一緒に居ても素晴らしい人。だけど本当の姿をお相手に言わせると。。。。。
愛を唱えるけど、最終的に自分のやりたい事が一番大事で最優先する。
家事も出来るけど、それは家庭的とか周りに何らか賛辞を生ませるためのツール。
子どもは好きだが、子育ては好きではない感じ。
旦那さんが自分の思い通りに動いてくれないといつも怒っている。
賛同は喜んで聞くが、反対意見には耳を貸さない、そればかりかそういう人は悪い人だと判断する。
たくさんの事を知っているが自分の言葉はない。他人の言葉を自分の言葉として話す。
自分でも嘘をついている意識のない嘘が上手い。
お金儲けがすきで、お金儲けと愛を自分の中で上手に繋げることができる。
でも、本当にピュア。だから一番問題(笑)

確かにながーく居るとそんな風に見えてくる人が多かったのは事実です。
それも類にもれず、全員。何でなんでしょうかね~。
本当にいい人ばかりで、何でも出来て優しくて、純で。
だからその分、家庭でギャップが生まれるんでしょうか?
非凡でないからこそ生まれるものなんでしょうかね~。
でも旦那さんやこどものココロは遠くに離れていく。。。。みたいな。
たぶん、きっとそういう女性は持ってる才能が多すぎて、溢れちゃってんだろうな。
さっきも書きましたが、それが仕事なんかになっているから、そこに縛られたりもするのかな。
その為に嘘もついてしまったりしてしまうようになるのかな。
でもそれで家族がはなれていってしまったりするのを見ていると・・・悲しいですね。
親しい人が多いから、それだけに。
アタシってばココロが寒い上に、未熟なんで、そんな中で「愛の人」である相手を見ているとピエロさんに見えちゃう不心得者です。
でも、ほんとにみいんな根っこは本当にいい人だから、切ない。

愛は売り物ではないから、あえて愛を商売にするって言うのは、やはりどこかに問題がうまれるのかも知れませんね。
だからこそ、愛と仕事を重ねる時は、うそが生まれないように努力せねばならないのだと思います。
私はただ愛を唱える人だけにはなりたくないのかも知れません。
後悔したくない性格だから、私が他の人に思うようなことを思われない様な、どんな思いの中にも真実の見える人に、思いやりをもって、責任を大事に出来る人になれたらと憧れているんだと思います。

私はどっちかって言うと、人にだまって付いて行く方が好きだし、嘘をついても優しくいたいと思ってしまいます。
そんなエゴイズムのなかに居たので、私も昔は解りませんでしたが、喧嘩して言い合ったり、自分をわかってもらおうとか、相手を理解しようとかって、もがくって事が、今はすっごく大事だなって解ってきました。
そういうエゴって、それをめ一杯行使することで、最終的にそれぞれのエゴを取り払ってく為にあるのかもしれないなーって思ったり。
逆に「善」もまたエゴだよねーと想ったりね。
実際ですね、相方とは繰り返しいろんな事でお互いを主張しては激しくぶつかったりもしてきましたが(笑)、どういうわけかわだかまりは残ってないんです。
たぶん、お互いそうなんですね。
たぶん、バーンとぶつけ合うことで相手の何かを観ることが出来て、受け取れるようになるんでしょうね。
そうやって真面目にぶつかった後は、なぜだか理解が残るし、新たなものが生まれる気がしていますから、そうなんだと思います。
だから、どんだけ揉めたって嫌いにならないし、好きも大事な気持ちもまったく減らないのです。
それは、お互いがその場において自分にも相手にも嘘をつかないからなんじゃないかと思っています。
だから、いろいろ会ったとしても、いつも今日を覗いてみるとものすごく幸せだったりする。
それは何より幸せなことだと思います。
私たちは悲しい嘘をついてまで幸せを演出しなくてもいい。
それはほーんとに幸せだー。

このように私はいま恵まれて時間をたくさん頂いて、私を導く大いなるチカラとたくさんの会話をさせてもらっているのだと感じています。
いろんな考えが浮かび、今まで体験した現実世界でのこと、霊的経験によるもの、点と線が繋がったり、色が付いて無であった空間に何かが生まれたりしています。
だから私は、この生まれ来る経験や感情を何一つ無視せずに、ココロに湧き起こることのかけらを大切にしたいと思っているんです。
結局そうすることによって悩みもするし、考えもしますが、そうやって時には過敏になって本当の美を自分の心が追い求めるからこそ、相手も気がつかない細かい嘘にも気がつくようになるんじゃないでしょうか。
そして善や悪や美しさ、愛や真実にただあこがれて唱えているのとは違うという、しっかりした感覚が自分の中ではっきりと生まれてくるのかも知れません。
人間って存在として、おおいなる存在を見上げたり、小さなものに囚われたり、考えたり、愛だけに固執してみたり、最近はどれも素敵なことだと思えます。
他人から見れば、マトモや愛からかけ離れているように見えることもあるかもしれませんが、私は自分に直接与えられる大事な事に心を向けて行きたいなーと思ってます。
特にもうしばらくは。学びの時です(^^)

ちょうどそんな事を考えていた矢先のJDS訪問。
本当に久しぶりに、素直に人間的で、そして正直で優しい人たちに会った気がします。
嘘のない笑顔に出会った気がする。
笑顔やコトバを受け取るのに迷いがいらないこの感覚のすがすがしさ。
嬉しくて吹き抜ける風が本当にさわやかに感じられました。
わたしも誰かと触れ合う時にこんな風みたいな感覚を人様に持ってもらえる人になれたら幸せだなー。
ここに遊びに来たおかげで、一つの答えを貰い、そして決心し、行動できました。
本当に出会いと言うのは大事ですね。
わたしの手仕事や、コレまでしてきたこともまた、ここでのご縁が大きくしてくれそうです(^^)
感謝、感謝です。
JDSの皆様、ありがとう御座いました。また行きますね!

JDSはダウン症を持つ人たちとその家族、支援者で作られた会だそうです。
日本は裕福な国ではありますが、福祉の存在そのものに距離感がある気がします。
少しずつお互いが歩み寄って、理解を深め合っていけたらいいなあ、と思いました。
どんな障碍を持つお子さんにも、そして大きな方にも、もっと多くの支援が必要ですよね。
お金というわけでなく、たくさんの方の愛と思いやりによって、お互いが共生していけるステキな環境つくりとしての生活支援をしていけたら善いですね。
是非皆様、JDSへのご支援を宜しくお願い致します。

日々の出会いと気づきにココロから感謝しつつ。