KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

ココロの中の羅針盤

2009-05-25 | KOFUKU日記
頼まれた子犬の奈々ちゃんのペットシッターに行ってきました。
帰って来たら、うちのぴーちゃんとその相棒のお兄ちゃんはお昼寝中(^^;)
その隙にPC作業。
今日はブログを書いたら頼まれもののシルクのまつり縫いをしたり、ご飯の準備をしたりする予定。
明日はオーダー貰ったフェルトボールを作る予定です(^^)
頼まれ物があるってほんと嬉しいものです。

さて来月で失業保険も切れることもあり、少しづつ新しい道の準備をしています。
まだ、何をどうするって言うのはないんですが、仕事ではないけど、フリーマーケットとか参加して見たいと思ってまして。
ぴーちゃんとお兄ちゃんは二人してベランダで、フリマに持ち込む道具を整理する、いろんなデザインの木箱など制作してくれてます。
そういうのが出来上がっていくのを見るのは、嬉し、楽しいもんですねー。
私のことなんで試行錯誤しすぎて、ノロノロ亀さんペースで準備してますが、何とかカタチにしていけるように地道に頑張っていきたいもんです(^^)

さて、Mシュナウザーの赤ちゃん「奈々ちゃん」のお世話をして一週間弱、赤子の成長はマヂで早い。
なんかあっという間に2倍くらいに膨らんだ気が・・・・(^^;)
それを考えるとあんまり大きくならないチワワって、ずっと変んない感じがするのはあたしだけでしょうか。

さてうちのお嬢様チワワのぴーちゃま。犬が嫌いらしいです(笑)
気にはなるのだが、寄って来られると死ぬほど怖いらしい。
奈々ちゃんの所にも何度も行って見たけれど、人懐っこく飛びまわる奈々ちゃんに顔を引きつらせつつ逃げ惑うお嬢様(そ、そんなに~^^;)
そして、気分ワルワルのお嬢様に聞いてみる。
(ぴーちゃんはかなりコトバを理解して、指を舐めることでイエスとノーの返事が出来ます)

「あのさあ、お姉ちゃんは好き?」「ぺろ(うん)」
「じゃ、お兄ちゃんは?」「ぺろ(好き)」
「じゃ、ななちゃんはー?」「・・・・・(しーん・・・・)」
「奈々ちゃん、嫌?」「(じーっと見つめる)・・・ぺろ(嫌)」

そっ、そおかああああああ~~~^^; やっぱりなあ。

ぴーちゃんは奈々ちゃんの面倒見て帰ってくると途端に不機嫌です(^^;)
最初は仲良くさせようと、奈々ちゃんの話をしていた相棒・お兄ちゃんでしたが…。
「奈々ちゃん」の話をすればするほど、どんどん元気がなくなっていくぴーちゃんを見て焦りだすほど。
そうなんです。ぴーちゃんは奈々ちゃんの存在に不安が高まってしまって。
自分だけ構ってもらおうと、隠れては探してもらおうとしたり、ご飯を食べなかったり、果てにはグッタリとなってしまい・・・。
まるで、下の子が出来て赤ちゃん返りしてしまったお姉ちゃんのようです。
もともとぴーちゃんは人間っぽい子ですが、ますます人間のお子ちゃまに見えてきました。

そんなぴーちゃんにしても、ななちゃんにしても、感情表現がとてもシンプル。
ココロに素直なんですね。喜びにしても不安にしても。
ココロの羅針盤とも言うべきものへの反応がストレートです。
そんな姿を見ていると羨ましくなります。

最近時間があったせいか、これからの自分がどういう風に居たいのか、こうしてブログに書いたりしてきました。
「こうありたい」と言う中で「嘘をつきたくない」って言うコトバが本当に一杯出てきて、自分でも驚くぐらいです。
こういうものを見たのだが(経験したのだが)、自分はそういう風にはしたくない、ってのも多いですよね。
なんでそこまで固執してそうなのかな~と思って、過去を振り返ってみると、なんだか行き着いた先、行きついた先で衝撃的な人や出来事に当たってるんですね。
出会ってる人はそれらの道ではみーんな有名な人ばかりで、本なんかもいっっぱい書いてたりするし、人に人格者として尊敬されている人が多いんですよ。
ところが、私、そういう人でほんっとに「いい人」には出会った経験がないのです。
アタクシ、コレでも愛をテーマに生きてますから、愛に溢れていると言う場所に出来るだけ赴いてゆくわけなのですが、その「愛の溢れてる」とこで統括している人や代表やってる人ほど愛からかけ離れていると言う状況ばっかりだったんです。
一言では言い表せないほど激しい状態だったりして(^^;)
なんて言うか、夢を語っているだけに、見えた現実は凄惨なものだったわけですね。
皆さん、見た目ややっている仕事だけで相手を捕らえてはいけませんよ~。
ほんんっとに尊敬出来うる方は少ないってのが現実だと思います。
特にお金に囚われた人は、怖いです。
あまりにもそういうのを見すぎて、きっと自分はそうなりたくないなーって思うようになったのかもしれません。
正直、これは大きなトラウマになってるんではないかと思います。
はっきり言って完全に人間不信になるくらいのギャップの在り様でした。

そういう経験の中で何が特に自分にとってダメだったかを考えてみると、「良心」と言うココロの羅針盤にちゃんと「だめなんだよー」と答えが現れていても、人のため、世のためと言いつつ、お金や地位など、その人自身の私欲を満たす方を選んでしまっているところだったと思います。
私欲を選ぶうちはまだいいけれど、私欲を満たす為にその善とも呼べる世界に居て、善なるコトバを笑顔で語ることにさらに拒否反応が。。。。
そして明らかに、そらーないだろー、とか思うことでも、
「前世からのカルマでこうなったからし方がないのだ」とかー、「こころの自由のままにあること」が大切であるとか自分が正しいと主張して譲らず、まわりがドンだけ迷惑したかも顧みず、、人を傷つけちゃったりが平気だったりとか~。
(アタシには明らかにそう思えたんです、ハイ)
その人が正しいって思ってる訳ですから、しょうがないとも言えるんですが・・・。
ただ、やっぱり子どもや周りに居る人が悲しんでる事実に直面すると。。。おいおい、あんたっ!って気持ちになるし、見てて悲しくなりますでしょ?
そーゆーのがほんとにダメだったんですね、きっと。

でもね、そういう人もね、最初からそうだったわけじゃないと思うんですよね。
大体において共同体や会社や仕事って言うのは、殆ど最初は夢を描きながら本当に小さなところから出発したりするものです。
一つのコロッケを何人もで分けて食べながらでも、相手の事を思いやりながら笑顔で頑張れちゃうから、やっていけるんだと思う。
けれど、問題はそこに「富」が関わってきたときなんだと思う。
今まで出会った人たちは、みんなそうやって善で富をなして、その富が出来たことで善性を手放してしまっている方ばかりでした。
ほおんと、お金って人を変えちゃうんだなあ、って思う位。
そのうち、お金が欲しいから、手段として、コトバや商品に善性をくっつけて売るようになってしまう。
使い道がわかったら、人を傷つけると解っていながら、自分の欲の為にお金を使い続けてしまったり。
でも、そうなった頃には、何が大切かはすっかりわかんなくなっているんだと思います。
だから、私は本当にお金を愛として生み出して、そして愛として使える人になりたいなあ、って思うんです。

とにかく見るもの聞くもの、言ってることとやってることのギャップがあんまりにも大きすぎちゃって受け入れられなかったのかも知れません。
それで、自分もかなりいい加減な奴なので、出来るだけ気をつけて暮らして行かねば!、って思うようになったんだと思います。


人間であるという事は、ぴーちゃん達の様に全てにまっさらに生きる事は難しい。
だけれども「良心」と言うココロの羅針盤の存在だけは大事にしたいと思います。
仲良しのステキなスピリチュアリスト祐美haha様(この方は本物・ご安心あれ^^)がよくブログやHPでおっしゃってるのですが、羅針盤が指す場所に困難があっても、結果的に「愛の一番ある方向に」向かって歩んでいく勇気を選べる様に祈りたいと思うのです。

振り子時計と紫陽花

2009-05-25 | KOFUKU日記
最近、時間を見つけてはPCの前に座るのが日課となってまいりました。
うちには振り子時計がかかっていて、ぼーんぼーん、ちくたくちくたくといつも音が響いています。
静かに座っていると、ゆっくりと時間の流れを教えてくれて居る音楽を聴いているようで、そして音が流れているとだれかの傍に居るようで、心地いいモノです。

さて、ココのところ、いろいろな方が記事に寄せてメッセージをお届けくださいます。
本当に最初は数名だったご来訪も日記を更新するたびに、びっくりするほどの方がいらしてくださるようになりました。
皆様方に重ねて御礼申し上げます。ありがとう御座います。
ブログを書くたびに、ボンボン時計さんのように、皆様の存在を感じてます。

メッセージを頂いて一番嬉しいのは記事を読んで一緒に考えてます、と言うもの。
それぞれの生活の中での出来事と重ねてくださって、こう思ったよ、とか、私はこうだなーとか、考えてくださっている。それがとっても嬉しい。
考えるって言うのは、ものすごくステキな事だと思うんですよ。
天に向かって、ただひたすら時の流れに任せ、手を差し伸べて待つことも良いかも知れないけど、人として生まれたからには、その機能を余すところなく楽しみたい。
そして私もまた、皆様からのメッセージを読ませてもらって我が身を考える事が出来る。
なんかこういう関係を持つのはとってもいい感じで気持ちいいです。
こんな経験をさせてもらえることに本当に感謝がわいてきます。
感謝、感謝です。

昨日、ある方が記事を読んでメッセージを下さいました。
愛を私欲の為に偽るとか、家庭の中で自分を演じるといったような事を昨日書いたのですが、読まれた方がご自分のご主人さんとの会話の事を書いてくださっていました。
ご主人様から「上から目線」でモノを見るといわれたとの事。至らぬ自分を考えます、と。
もちろん、その方にはそんなつもりはなく、この謙虚な答えから解るように普段もとても道理の通ったステキな方なんですよ。
注意してもらえる、反対意見を言ってもらえるって、愛がある証拠ですね、とお返事したんですが、本当にそうだと思うんですよね。
このご夫婦の間には深い愛があるから、こんな会話も交わせると思うんです。
例えば昨日書いたお友達のお母さんとお父さんの関係は、病気で言ったら「末期」みたいな感じで、聞いてる方が悲しくなるものでした。
もちろん何も言わないで見守る愛もありますが、大体の人はどうでも善ければ何も言いませんからね。
だって本人に不満を言わず、他人に言うって、もう本当に終わってる感じがしますもんね。
喧嘩しても、嫌な思いしても、間違ってると言ってくれる間は、その人に対して思いがあるって事だと思います。
きっと、その言われた後って言うのが重要なんでしょうね。その流れによってはもう「何も言わなくなる」事もあるんでしょう。

そのメッセージを読んで、この前書いた「誤解」について再び考える機会を頂きました。
類にもれず、私も善くあるんですよね。上からものを見るとか、ものを言うとか言われること(^^;)
もちろん、そんなつもりは毛頭ないんです。
これはメッセージのお話とはちょっと違うとは思うんですが、以前も書いたんですけど、私が発信した内容を「アタシのことだわ」と誤解されるって事がよくあるんです。
もちろん、これも毛頭そんなつもりはないんですよ。
第一、今現在培っている親しい関係を壊すような事は書かないし、書くとしたらはっきりと本人にも伝えている、書けることを書くようにしています。
影でこそこそ書いたり、遠まわしにぐちぐち書いたりはいたしません。
もちろん、いやみを書いてるつもりもない。
そんなことをする位なら,直接言います。
だからこういうところに書く事は過去のお付き合いの中でのことや経験、最近の体験だけれど、親しい方との中でのことではないから書けるとも言えますね。
でも文章力欠如のせいか、今まで誰かに誤解されることも多し、、、。

そんなこと考えてたら私も「アタシのことだ」と思った忘れられない経験を思い出しました。
もう随分と若い頃の話なんですがー、当時お付き合いしていた彼がおりまして、その方はかなり自分の意見をはっきり言う人でした。
ただコトバは厳しくても嘘がないせいか、たくさんの友人がいらっしゃる人で。
ある時、その方の仲間と一緒にトークを楽しんでいたところ、彼がある話をしだしまして、内容を聞いていたら、これは暗にわたしのことを指しているんでわ、と思うことがあったのです。
それで、後で聞いてみようかな~と思っていたら、ある友人の女性がですね、「ちょっとそれアタシのことだよね?」と彼に向かって言いました。
そしたら彼が笑顔で
「は?何いってんの?私のことって、どれだけ自分にうぬぼれてるのよ?
お前は相当自分勝手な奴だなー。
どんだけ世界が自分中心に動いてるって思ってるわけ?」
とさらっと言ったんですね。
いや~、正直ドキッとしましたね~。私もそう思ってたから(汗)
言われた彼女も凄いさばけた女性だったので、「や~ん、言われて見ればそうだわねー。でもアタシの行動に思い当たることあったのよー」と答えてました。
そしたら、それを聞いていた年上の方がこう言いました。

「自分の事を言われてるって思うときあるよね。
でも自分にそう思い当たるって事はさ、実際そうなんだよな、自分も。
大事なのはその後。
言われたって思うって事は、相手から見た自分の視線を知るって事で自分の感覚からは離れてる。
ましてや、自分に取っちゃ嫌な意見なわけだ。
人間ってのは否定されることに弱い生き物だから、その後は凹むか、もしくは自分の正当性を打ち出すかどっちかだ。
自分の意見を言うとしたら、それが自分の信念であるものか、言われたから意固地になって反対意見を言うのかではものすごく違いがある。
自分のあり方が善いか悪いか決めるのは結局自分だから、そこでの向き合い方によっては、将来のあり方が随分違う結果になるんだろうなー」

若かった私は、自分の事だと思った出来事を、私はどう感じたのか考えつつも、とても恥ずかしくなり、「私ってなんてうぬぼれている奴だったんだろう、人様の意見を聞くときはもっと広い視野をもたねば」、と思ったものでした。
以来、元カレ曰く「うぬぼれた」耳でモノを捕らえないように気をつけています(笑)

って言うか、あの時、カレとそのご友人の方がいろいろと教えてくれなかったら、ずっと自惚れ根性で「この人はこう思ってたんだ」とか「アタシの事を否定した」と自分の観点だけから思い続けていたかもしれない。
私に向けたコトバでなくとも厳しいものではあったけど、そうやって「自分の事だ」と思わせてもらえ、またソコから自分はどう思うのか?それは単純に自惚れで、何も思わないものなのか(笑)なあんて事を考えられるようにしてもらえた事は本当にありがたいことだと思って居ます。
皆様も「アタシのことだわ」と思ったときは自惚れてないかどうか、自分の心に確かめて見て下さいませ(笑)

さて、他の方のメッセージからは「あんじゅさんの言うところの“愛や嘘や真実”って具体的にどんなものですか?“嘘がない”ってどういうことなんですか?」というご質問を頂きました。
ご質問、ありがとう御座います。
え~、真実、愛、嘘とまるで往年のXファイル並みの要素ばっかり書いている私ですが~(^。^;)

はい、あのですね、わたしの言うところの“嘘がない”とか「真実」って言うのは、“少しもやましいところがない”とか“愛だけで作られている感情”とかいう聖人ばりの感情って事ではないんですね。
上手く伝わるか解りませんが一番近いのは「そのまま」とか「ありのまま」っていう感じでしょうか。
答えもまたXファイル並みに確定的なものが出せずすみません~。

例えばですね、「だめだあ~」とか、「よし!うまくいったぞお!」とかその瞬間瞬間に突然生まれる感情ってありますね。
また日々の積み重ねの熟慮した感覚の上に生まれる感情もありますね。
そんな気持ちに正直にあるって事ですかね。
たとえば「この人って危ない人かも」って思いながら、仕事上は建前笑顔で対応するって事もありますでしょ?、それもまた嘘のない行動でもあるといえるんじゃないかと。

じゃあ、“嘘”って“偽り”って何ですか?っていいますと、自分の中に明らかに偽っている感情があることを認識しながら「私欲を満たす為に」相手や自分を騙している感情や行動のことって感じなんですね。
例えば解りやすいところで言うと、私が何かのセールスマンだったとして、仕事時間以外に仕事に使う道具を持ち出し、お給料とは関係なく、自分のお小遣いを稼ぐ為に「仕事なんです」と道具を使って売って、自分の利益を得る、といったような感じでしょうか?

お仕事や家庭の中ではいろんな事情の上“嘘”も必要な時がありますよね。
その嘘こそが愛であるときもあります。
それらは嘘であっても偽りの行為であるとは決して思ってないんです。

ただ仕事や生活の中の必要な嘘という中では一つ例外があると思ってます。
これは尊敬する霊能者であるソウルメイトやたくさんのスピリチュアリストや芸術家や教育者や聖職者さんやいろいろな人から学んだことでもあるのですが。
セラピストやカウンセラー、芸術家や教育家などなど「愛」そのものを生業としてお金を得る職業では、愛の純粋性は大きな意味があると思っています。
こういった職業では単純にお金を得る目的の為だけに、実際の答えとは違う相手の気持ちよい言葉を選んで伝えたり、自分のあり方を正直にせず、本当とは違うのに、相手にお金を出させる為の愛を見せる演出をするなどという事は「これは仕事だから、生活する為だから嘘をついても仕方ない」と言うのとは違うんじゃないかなと私は感じています。
ある意味、それは罪だと言うくらいの意識を持っいて、それだけはやっちゃ行けないな、と思う。
自分もクラフトを作ったり、芸術に携わったり、「愛」や「真実」をテーマに人とココロでお付き合いするお仕事を選んでいるので、ソコでだけは嘘をつきたくない、ということを大事にしています。
だからこそ、自分の中の真実や愛に覚悟をもって生きたいと言う気持ちとこだわりがこのブログの様なコトバを書かせるのだと思います。
Xファイルのモルダーやスカリーじゃないですが、自分の目の前にある真実に正直に居たいなあ、と思うのです。

ただ正直とか素直とかって基準は私には付けられないので、どこまでだったら嘘とか嘘じゃないとかも、実際はわからないんですが、ソコはココロで判断してます(かなりいい加減。。。^^;)
所詮、私だけの判断基準なので、皆様もご自分のなかで自分の真実や愛のあり方を探してみてくだされば、と思います。

例えば昨日のJDSの皆さんの事はですね、この人たちって本当に素直に生きてるなーと思ったので、嘘のない笑顔にあったなーって感じたって事なんです。
はい、本当にそよ風みたいに気持ちよかったです(^^)

このように、人はいろいろな感覚があるわけですがー。
今日は雨でしたね。いろいろ思い巡らしつつ買い物に出たら、小雨の中色づき始めたアジサイの花がきれいでした。
私、アジサイの花、大好きなんですよ~。
アジサイの色の移り変わりって、土壌や雨の成分で変るんだそうです。
皆さん知ってました?私は最近知りました(^^;)
なんか、それを知ったら、ますますアジサイの花が好きになりました。
だってまるで人間みたいじゃありませんか?
人も住む場所や取り巻く環境で感情も生き方も変って行きますもんね。
でも、雨に打たれても花びら傷むこともなく、その時々の色をしっかり出して咲いてる紫陽花を見ていたら人間の可能性と言うか希望的なものを感じました。
雨の中の紫陽花みたいに強く、そして雨上がりの紫陽花のようにおひさまに照らされて輝くように、正直に、美しく咲いていたいものです。