KOFUKUの家から

演劇的体質の自由人
大きな愛にいだかれて
チワワたち猫たち
南のちいさな森の家にて
芸術的田舎暮らし真っ最中

アルタバルの真珠

2009-05-17 | KOFUKU日記
早いもので五月ももう半ばを過ぎました。
お昼と夜の温度差に風邪やインフルエンザが流行っているようです。
お知り合いの方が住まわれる地域で豚インフルが発生した模様。
地域の皆様が心も身体も早い回復をなされることをお祈りいたします。
皆さんもどうぞお体にはお気をつけください。

本題に入る前にエールを一つ贈りたいです。
子ライオンになるべくオーディションに立ち向かう小さいお友達「王子くん」と、同じく頑張る、そして頑張ってきた仲間たちに舞台の神様の愛が降り注ぎますように


昨日、どういうわけかたくさんの方からメールを貰いました。
そして、なぜかどのメールにもブログのことが・・・(^^;)
わたしの超毒舌あーんど超自己中発言集「なんとか生きてます・お知らせブログ(笑)」も多くの方が気に留めてくださっている様でとても嬉しく思いました。
改めまして、この場にご訪問くださっている皆様に心から感謝申し上げます。
ありがとう御座います~。
頂いたメールを読みながら、ああ、こんな風に文字や言葉を交わせるっていいなあ、と。
ここんとこ愛や友情や信頼のあり方なんてのを考えたりしていましたが、メール読みつつ、それこそ信頼や思いやりがあればこそ成り立つものなのだなあ、と感じました。
ありがとうございます。感謝。

さて、その様に人の関わり方や、思いや、嗜好、生き方と言うものは、時に自分だけでなく、周りにも大きな影響を及ぼすものですね。
私はたぶん、自閉症に近い精神の幼少~青年期を送ったせいなのか、ひとり内側でいろいろな想いを巡らせるのが好きです。
23歳くらいまで人様とも殆ど関わらず、会話もしなかったので、しゃべるよりも文字で書くほうが、想いを素直に表現できるのです。
そのせいか、目や耳、感触、人間の持つべき感覚をすべて使って感じることに感銘を受けやすく、同じことで伝えようとするようです。
言葉や色なども音色や視覚から、意味を感じたり考えたりします。
こんなですから、心と体全部を使わなくては出来ない役者と言う職業を選び、また物書きやプロデュースをやっているんだと思います。

創作的な仕事をしていると、そこに現れるものに、自分の内面を見ることがしばしばです。
これは人間関係も同じですね。目の前にいる人に、今の自分が現れます。
向かい合う人は間違いなく、自分の映し鏡なのでしょう。
そうして、いろいろな経験を繰り返し、いろいろとやってるうちに、好きとか嫌いとかが見えてきた気がします。

このところならず、ずっとブログでも呟いているように、私は「善なる」感覚に強く惹かれてます。
という事は、自分自身はそうじゃないってことなんですがぁ(^。^;)
音楽も、文学も、芸術も、そして演劇も、絵画も、映画も、何もかもにそれは影響しています。
そういった感覚の中で生まれた、私が特に好きなものを今日はご紹介したいと思います。

女性は光物(宝石)が好きと言われますが、私は特にジュエリーには興味ないのですが、石(パワーストーン)や自然界の美しい産物には深い興味があります。
中でも好きなものをあげろと言われたら、間違いなく「真珠」と言うでしょう。

これはブログでも幾度か書きましたが、なぜ真珠が好きなのか?
もちろん見た目もとても美しいのですが、その出来あがっていく過程が何よりも美しいと感じるからなんです。

真珠は貝の中に入り込んだ異物が時を経てカタチを変えたもの。
ある日、貝の柔らかな身体のなかに、何か傷つけるものが入り込みます。
けれど貝はそれを吐き出さず、身体の中に傷ごと受け入れます。
そして自分の体内を流れるもので幾重にも包み込み、
ある日、その「異物」はそれはそれは美しい柔らかな「宝石」となるのです。
相手から付けられた傷を宝石にする過程は、傷つけられた魂を自ら浄化する作業にも似て美しいものだと感じます。
だから、私は真珠が好きなのです。

この「真珠」にまつわる、わたしの大好きな一つの伝説があります。
クリスマスになると、東方から来た3人の王(賢者)の話をよく耳にされると思いますが、あのイエス様に贈り物を捧げた賢者達です。
この賢者は3人と言われていますが、実は4人だったと言う話があるのです。
私はこの真珠にまつわる話が好きで、元の話をベースに脚色しお芝居にも書いた事があります。
その中から、あらすじをご紹介したいと思います。

4人目の賢者の名前を「アルタバル」と言いました。
アルタバルはある大きな町一番の権力者で医師であったと伝えられています。
彼は生まれ来る救い主の話を聞き、彼に逢って捧げものをしようと、「せっかくの財産を勿体無い」と皆が止めるのも聞かずに、彼は迷わず生まれ来る救い主の為に全財産全てを真珠に変え、持ちうるすべての名声を棄て、東に輝く大きな星に導かれ旅立ちます。

ところがアルタバルは旅行く先々で様々な苦しみに逢う人に出会います。
彼はその人々をほおっておくことが出来ず、「救い主よ、お許しください」と祈りながら、持っていた真珠をお金に買えたり、食べ物に換えたりして、その人々を助けます。
そしてとうとう真珠は全てなくなり、気がつけば彼は苦しむ人々を救う為に時間を使い、三十年以上が過ぎていました。

今や、貧しい余命僅かな一人の老人となったアルタバル。
自分自身が貧しい身の上になっても、キリストへの弾圧から人々にさげすまれようとも、彼は周りのものを助け続けました。
ただ心の中にはいつも、人を救う為とは言え、贈り物を漬かってしまい。キリストに捧げることが出来なかった救い主への後悔の気持ちがありました。

ある日、もう長い命ではないアルタバルの耳に入ってきたのは、救い主イエスがゴルゴダの丘で処刑されると言う話。
アルタバルは最後の力を振り絞って、十字架を背負い歩くキリストに逢いに行くのです。

今や囚人となって追われ、傷だらけとなり、十字架を背負い歩くイエス・キリスト。
アルタバルはその姿を見るや、キリストを侮蔑する周りの人にも恐れず、キリストの前に進み出ます。
そしてひざまずくとキリストに言いました。

「我が主よ。どうか私をお許しください。
私はあなたがお生まれになった時、贈り物を捧げようとあなたの元に旅立ちました。
けれど、あなたのものであった贈り物を、私は全て使ってしまいました。
今はもう捧げるものは何一つありませんが、この世の最後にあなたにお会いしてお詫びしたかったのです。」

すると、イエス・キリストが笑顔を浮かべながら口をひらきました。

「アルタバル、お前がこれまでの人生の間、貧しく苦しい小さなものにしてきた事は、全てこの私にしてくれたのだ。
お前の真珠の一粒一粒は、お前が誰かの為に使うたびに愛という名の宝石に変ったのだ。
私は間違いなく、お前の心からの贈り物を受け取ったのだよ。
美しい贈り物をありがとう。」

アルタバルがその言葉に顔をあげてイエス・キリストを見ると、傷だらけだった彼が光り輝き、アルタバルが捧げた真珠を身にまとっておられるのがアルタバルには解った。

アルタバルはまもなくこの世での生を終えたが、その顔は輝く真珠のように優しく美しい喜びに満ちていた。
と、言うお話です。


私はアルタバル自身が真珠となったこのお話がとても好きです。
そして、私もまたそうでありたいと思う。
いや、願っている、と言うのが本当かな。

人は傷つくものです。
個々の感情を持つがゆえに、どんな人も傷つけるし、傷つけられる。
それが人間。
けれど、この傷を癒すのもまた、その感情ある人であればこそ。
アルタバルは時間をかけて、我が身の傷を美しい宝石に変えた。
その努力も、苦しい想いも、並々ならぬものがあったのだと思います。
けれど、美しい真珠に変えた彼には、その傷も痛みもありませんでした。

私もこの世での生を終わる時、願わくばアルタバルのようでありたいと思っています。
自分の行う一つ一つの出来事を愛というものに変え、自分の中の憎しみも悲しみも苦しみも美しい真珠に変えて生きる人生を歩みたい。

大きな事も素晴らしいけれど、小さなことこそを忘れずに。

マザー・テレサが言うように、何をどれだけしたかでなく、どれだけ心をこめたかを大切に。

生きているこの瞬間こそが過去と現在と未来をつなぐのだからこそ、いま私に出来ることを大切に。

こうしてモノを考え、感情を持ち、人として人や自然と関わり生きていくように生まれてきたならば、それをありがたく受け止めて、精一杯、悩み、考え、自分と常に対話しながら生きたいと願います。

アルタバルの真珠は全ての人の中に眠っている。
わたしはそう想うのです。


すべての人へ・・・捧げます
《八木重吉の詩から》

「心よ」

こころよ
ではいっておいで
しかし
またもどっておいでね
やっぱり
ここがいいのだに
こころよ
では行っておいで


「ゆるし」

神のごとくゆるしたい
ひとが投ぐるにくしみをむねにあたため
花のようになったらば神のまえにささげたい


「ねがい」

きれいな気持ちでいよう
花のような気持ちでいよう
報いをもとめまい
いちばんうつくしくなっていよう


「桃子よ」

もも子よ
おまえがぐずってしかたないとき
わたしはおまえに げんこつをくれる
だが 桃子
お父さんの命が要るときがあったら
いつでもおまえにあげる


「明日」(最後の7行)

ほんとうに
自分の心に
いつも大きな花をもっていたいものだ
その花は他人を憎まなければ蝕まれはしない
他人を憎めば自ずとそこだけ腐れてゆく
この花を抱いて皆ねむりにつこう