ちょっと前、言葉は時に残酷で、無力だ。。。と、朝日新聞のCM「言葉のチカラ」なるものが話題になりましたが、ここんとこ「言葉」ってモノについてよく考えさせられることがあります。
と言うか、私はよくしゃべりますが、だからと言って「よく話せる」わけではありません。
人様とはすぐに仲良くなれますが、会話は超苦手です。特に自分の大切な事をしゃべることにかけては。
話すのは難しい上に恐怖感が伴います。
だからその恐怖感を回避する為に会話ないならないように一方的にしゃべっちゃったりします。
なぜ恐怖感が伴うかといいますと、わたくしボキャブラリィは少ない方ではないと思うのですが、真の意味でのコミュニケーション力が低いのか、伝達力に欠けるのです。
一生懸命話せば話すほど、闇にはまっちゃったり。。。つくづく「伝えるコトバを話す」ってのは難しいもんだなあ、と感じています。
ですからどちらかと言うと「書く」方が楽です。
コトバは一度口から放つと、その場で決定的な効力を持ってしまい、取り消すのは至難の業ですが、書き言葉は相手の目に届けるまでに書き直すと言う想いを巡らせる時間があるからだと思います。
でも~、やっぱり難しい、自分の思いを伝えるってのは。
会話って相手ありき、言葉を届ける人ありきだから、相手のコトバを受け止める器によっても、相手の見方によっても、その真意の伝わり具合が変ってくるからです。
出来るだけその人の事を考えながら文章を考え、理解してもらえる様に挑みますが、撃沈すること多しのアタシ(--;)
やっぱり、これは性格的に問題があるんだろうなあ。。。。と、最近は答えを出してますが…(悲しい・・)
問題点はワタシを伝えようとしてしまうところなんでしょう。
ううう、判っちゃ居るんだが、でも判って欲しいのよ、ソコは~、見たいな?(^。^;)
一番伝わらないのは、相手の意思とこちらの意志が違うものである場合です。
私は人が全員違うように、モノの考え方も感覚も違っていて当たりまえだと思ってますので、相手が自分と違う感覚を押し出してきても「ダメじゃん」とか「間違ってる」とかは思わないんです。
「うーん、アタシはやんない」とか「それはアタシには無理」と言う感覚ってだけの話です。
相手が自分が違うと思ったものを選ぶことを否定したりはしません。
それは相手しか選べない事だと思うからです。
そして、それを選んだ相手をそのまま受け入れたいと思う。
ただし、相手のしていることが自分の信念と違えば、ソコははっきり自分の考えを伝えて置きたいと思うんです。
お互いにとって、違うことを認めあうことはとっても大事なことだと感じているからなんですが。
けれど、大体8,9割の人は、違う意見を持っている、と伝えると「自分を否定された」と思ってしまうようなんです。
特に相手にこちらに対する善意があった場合は「自分の意志のせいで迷惑をかけた」とか「気分を害してしまって悪かった」とか謝られたり・・・・。
謝られても~(^^; ってか、なんで謝るの~。
私、責めてないし、否定もしてない。自分は違う意識もってるんですと言ってるだけだよぉ。
「そうじゃないんです~、ソレとコレは別なんですよー」、と説明してみても理解得られず。。。。
そして白髪が増えていく。。。
(私は悩むと鏡を見ているうちに髪がどんどん白髪に変色していくんです。化学実験してるみたひ・・・
気分は逃亡中のマリー・アントワネット・・・)
果てには、あなたがワタシを信じてたら同じことが出来るはずだ、信じてるとかいって出来ないのは信じてないから、とか真剣に言う人もおっしゃる。
そんなこと言ってたら世の中、自分と違う意識を持ってる人はみんな敵じゃないですか・・・
違うって事は罪になっちゃうじゃないですか・・・
肌の色も、コトバも、環境も、違うだけで戦争になっちゃうよ。。。
ああ、このままでは世界平和はこない(極端だってーー;)、、とシミジミしちゃったり。
って言うかね、いろいろ聞くとね、話をしてるお互いの相手の事を全然思いやってないコトバがドンどこ投げつけられるわけですよ。私にじゃないんですけど。
私は何よりもソレが苦手なんです。その相手を認めないって意識のボールが飛び交ってるのが。
まあまあ、私も自我の強い人間で、数年前までは本当に自分の世界観しか信じられなかったし、見えなかった。
だから人には言えないんだけど、大体そういう深い話をする人って言うのは信頼している大事なひとだから、誤解をされる事はかなり悲しいし、凹むのです・・・
今も私は頑固で短気ですが、本当にコレはほっといてはいけないって事以外の闘争心はかなり薄れてきた気がするんです。
もともとそうだったのだけど、生きていくには自分に嘘をついてでも恐れに強くいなければならない時期がありました。
が、それがなくなった時、私が一番怖かったのは「人の思い」でした。
わたしの持病のPTSDに伴うパニック症の原因は一般的な閉所恐怖とかではなく、人の特にマイナスな感情の波動を感じるからです。
マイナスの波動と言うのは、決して怒りとかだけで起こるものではないんです。
その人が善意を持っていても、相手を軽んじる意識があれば優越感となり、その波動は起こります。
私はそれを感じるのが、とても苦手なのです。特に争ってたりする波動を感じたら失神したり。
その頃は私にとって、外は戦場となんら変りませんでした。
そんなこと言ったら街歩けないじゃん、と言われそうですが、ええ、そうなの。
以前は全くあるけませんでした、街なんて。
そりゃ、もう見事に、撃沈でした(笑)
その頃に通わされたお医者さまの判断は「相当重度に心が傷ついておられるので、最低3年は仕事しないでくださいねー、無理すると死んじゃいますよぉ」と笑顔で(笑)
そしてヒッキー8ヶ月。
出かけたくても、恐怖と緊張から玄関で倒れてることもしばしばありました。
そんな私が何故、またこうして街を歩けるようになったのか。
これはあくまでも私に限ったことですが、私自身のココロに一つの学びがあったからです。
この数年で私が一番学んだ事は簡単に言うと、
「わたしの絶対は、誰かの絶対ではない」
「善悪は必ずしも分けられない」という事、
「光があって、闇があり、表があって、裏がある。それら二つが一つ」
「あなたはワタシ、ワタシはあなた」
という様な事でした。
これらはずーっと心の中にあったのに、結局ぜんぜん理解できてなかったんですよね、私。
今もソレが理解できているかって言われたら、どうなのかなーと思いますが、一つの答えは胸の中に存在していると思います。
私は今まで、自分が決めた事は何一つ後悔をしたことがありません。
やった事を後悔するくらいなら、最初からやらない。
だから何かを決める時は、死ぬ気でどんな結果も受け入れる覚悟を決めて行動にでます。
だから、決めたことをやるって時はものすごいパワーと信念をもって動いていると思うんです。
それは今も変りませんが、以前はそういう風に強い意志を持てるように敢えて自分を仕向けていました。
そういう風に自分を動かしている時は、何でも自分の意志とか感覚ってモノが最優先でした。
人間だから当たりまえでもあるのだけど、自分のフィルターを通してしか人も物事も見ていなかった。
だから自分と違うものは、全部間違っているように思えたし、自分は間違っていないと頑なに信じることが重要だと思っていました。
でもソレは変りました。
今も同じく、自分と言うフィルターを通して、モノを見、考えます。
ですが以前と大きく違うのは、目の前にあるものが必ずしも正しい姿ではない、ととらえるようになったことです。
「裏がある」と考えたりするのではなく、今、目の前に置かれている「結果」はどうしてそうなったのだろうか?と少なくとも想像できるようになったのです。
時には、まったくの悪に見えても、ソレが善から生まれたものであることもあります。
昔は「悪」の部分しか感じなかったので、間違っている所を責める一方でした。
わたしの絶対は宇宙の絶対だったのです。
けれども、いま大事にしている事は、間違っていると判断される事は確かに正すことが必要だけれど、ソレよりもその奥にあるその結果を生んだ理由を理解しようと勤めることだと思うようになりました。
例えば凄惨な殺人事件があり、人が殺されたとして、犯人が咎められるのは必定です。
けれども、もしその殺人に至る理由が、同じように家族を殺害された哀しみからであったなら、その悲しみの部分を手に取りたい、と思うようになりました。
それは、その犯人を許すこととは違うんです。でも、その人の悲しみを分かち合うことではあると思う。
分かち合うことで、その重みが軽くなっていくのではないか?
そうなれば、次にそういう事はなくなるのではないか?と感じるようになったわけです。
そして、ソレが全ての事に当てはまるといいなあ、と思うようになりました。
人も物事も光と闇の部分があってこそ一つなのだ、と思うようになったのです。
同じように、悲しみや苦しみの中から善なることを学ぶこともあると解りました。
悲しみは悲しみだけではないのだと。
暗闇は闇だけで出来ているわけでなく、光で織り成されているのだと。
それらは別れや死、たくさんの困難を通して感じたことです。
そして何より、その時々で目の前に立つ人に学んで来たのだと思います。
目の前に立つ人々は必ずしも自分に優しい人間ではありません。
時には本当に憎しみの対象ともあるときもあります。
けれど、そこにいるのは間違いなく、いつも「ワタシ」自身でした。
人は映し鏡となって目の前に立つのだ、と理解できるようになったのです。
シュタイナー学校にいた時、教師は子ども達にトラブルが起こると、何でこんなことするの?と言う前に「ワタシはこの子に対してどうだったのだろう?わたしの何がこの問題を起こしたのだろう?」と自分と向き合います。
そして、まずは自分を変えるのです。そうすると、子どもたちが変ってゆく。
この結果から、全ては繋がっていて、「どの人も私である」という事の証明に感じられました。
そうした神秘的とも言える経験が今の私を生んだのかもしれません。
同じように、この事から何かトラブルが起きたときは、自分にも、相手にも理由があるんだなと解ったんです。
噂しかり、中傷しかり。
世の中にはクレーマーと言う人もいるんでしょうが、普通に考えて、何もないのに文句を言う人はいませんよね?
何かがあるから、あったから、なにかの感情が生まれる訳です。
その理由を受け止める事で相手ならず、自分も理解することになるんだなあ、と。
だからこそ疑うことも大事なのだと知りました。
善意は時々、その疑いを見えなくしてしまいます。
善なる意志をもつ事は、ある意味で「楽」でもあるからです。
人はみーんないい人で、信じてあげれば、嫌な思いもしないし、そう思った人には悪い事は起こらない。
疑う事は心に痛いことです。信じられるまでは嫌な思いもします。
けれど、疑う事は相手をじっくり見つめる事でもあるし、自分を探ることでもある。
そして培った信頼はその分固く結ばれてほどけることがないのだ、とも解りました。
だから、それぞれの道を応援できるようになったんだな、と思います。
いろいろな考え方や生き方と言うものが、それぞれにとってとても大事だとわかりました。
だからこそ、自分にも大切なんだという事が。
でも、それは自分が相手の意見をそのままやる、と言うのとは違いますよね。
だから、ワタシは自分の意見をしっかりと伝えたい。自分の大事にしているものを。
人とちゃんと関わって、相手も自分も大切に生きて居たいからです。
相手の事を心底、愛したいからです。
それを伝える事は、自分を伝えることであって、相手の批判や差別では決してないのです。
それで、自分はこう思う、だけれどもあなたの意見もとても大事だし、選んだ人が育てて行けば善いと思う、とお話したくなるわけです。
が~~~、最初の部分に戻って、それがなかなか難しいので、時々凹んじゃったりするのでした。
最近は特にいろいろあったので、いろんな事を考えますが、よく話題にしているように、自分にとっての「富」と言うものをに付いてよく考えます。
安心とか不安とか、生きるとか、生活とか色々考えます。
やっぱり、今、一番に思いつく事は、「こころある暮らし」をしていきたいという事。
お金がなくちゃ出来ないことも一杯ある。
けれど、お金がなくても出来ることを、しないで生きていく人の方が多い世の中。
だったらワタシは今、この瞬間に出来る事をやっていける人になりたいと、今は強く思うのでした。
たくさんの人に出会いましたが、わたしの尊敬する人々は、心の豊かな人たちです。
そして、お金があろうとなかろうと、どの人も今の瞬間が平安に満ちています。
ワタシもそうでありたいなあと願っています。
そして少しでも、なにかのお役にたってこの世を去りたい。
さて、そんな真性ボンビーなワタシが一体何が出来るのか?
以前教えていただいた事を皆さんにシェアします。
仏教の教えに地位や財産がなくても、誰もがいつでも容易にできる布施の行,というものがあるそうです。
「無財の七施」といわれるものです。
1 眼 施 がんせ
慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。
2 和顔施 わげんせ
和顔悦色施ともいいます.いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。
3 愛語施 あいごせ
言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをいいます。
4 身 施 しんせ
捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。
身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。
5 心 施 しんせ
心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。
6 牀座施 しょうざせ
たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。
7 房舎施 ぼうしゃせ
風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける思いやりの行為など。
いかがでしょう?これの一つくらいは皆さんも頑張っちゃえるんじゃないでしょーか?(^^)
ワタシもせめてこのブログの中で愛語を語って行きたいモノです。
ちなみに、この七施を教えてくださった人はカトリックのシスターなんですよ。
魂に優しい生き方に壁はないんですね。
国境も人種も何もかも、分けられていることが喜びとなるように、思いやっていけたらと思います。
と言うか、私はよくしゃべりますが、だからと言って「よく話せる」わけではありません。
人様とはすぐに仲良くなれますが、会話は超苦手です。特に自分の大切な事をしゃべることにかけては。
話すのは難しい上に恐怖感が伴います。
だからその恐怖感を回避する為に会話ないならないように一方的にしゃべっちゃったりします。
なぜ恐怖感が伴うかといいますと、わたくしボキャブラリィは少ない方ではないと思うのですが、真の意味でのコミュニケーション力が低いのか、伝達力に欠けるのです。
一生懸命話せば話すほど、闇にはまっちゃったり。。。つくづく「伝えるコトバを話す」ってのは難しいもんだなあ、と感じています。
ですからどちらかと言うと「書く」方が楽です。
コトバは一度口から放つと、その場で決定的な効力を持ってしまい、取り消すのは至難の業ですが、書き言葉は相手の目に届けるまでに書き直すと言う想いを巡らせる時間があるからだと思います。
でも~、やっぱり難しい、自分の思いを伝えるってのは。
会話って相手ありき、言葉を届ける人ありきだから、相手のコトバを受け止める器によっても、相手の見方によっても、その真意の伝わり具合が変ってくるからです。
出来るだけその人の事を考えながら文章を考え、理解してもらえる様に挑みますが、撃沈すること多しのアタシ(--;)
やっぱり、これは性格的に問題があるんだろうなあ。。。。と、最近は答えを出してますが…(悲しい・・)
問題点はワタシを伝えようとしてしまうところなんでしょう。
ううう、判っちゃ居るんだが、でも判って欲しいのよ、ソコは~、見たいな?(^。^;)
一番伝わらないのは、相手の意思とこちらの意志が違うものである場合です。
私は人が全員違うように、モノの考え方も感覚も違っていて当たりまえだと思ってますので、相手が自分と違う感覚を押し出してきても「ダメじゃん」とか「間違ってる」とかは思わないんです。
「うーん、アタシはやんない」とか「それはアタシには無理」と言う感覚ってだけの話です。
相手が自分が違うと思ったものを選ぶことを否定したりはしません。
それは相手しか選べない事だと思うからです。
そして、それを選んだ相手をそのまま受け入れたいと思う。
ただし、相手のしていることが自分の信念と違えば、ソコははっきり自分の考えを伝えて置きたいと思うんです。
お互いにとって、違うことを認めあうことはとっても大事なことだと感じているからなんですが。
けれど、大体8,9割の人は、違う意見を持っている、と伝えると「自分を否定された」と思ってしまうようなんです。
特に相手にこちらに対する善意があった場合は「自分の意志のせいで迷惑をかけた」とか「気分を害してしまって悪かった」とか謝られたり・・・・。
謝られても~(^^; ってか、なんで謝るの~。
私、責めてないし、否定もしてない。自分は違う意識もってるんですと言ってるだけだよぉ。
「そうじゃないんです~、ソレとコレは別なんですよー」、と説明してみても理解得られず。。。。
そして白髪が増えていく。。。
(私は悩むと鏡を見ているうちに髪がどんどん白髪に変色していくんです。化学実験してるみたひ・・・
気分は逃亡中のマリー・アントワネット・・・)
果てには、あなたがワタシを信じてたら同じことが出来るはずだ、信じてるとかいって出来ないのは信じてないから、とか真剣に言う人もおっしゃる。
そんなこと言ってたら世の中、自分と違う意識を持ってる人はみんな敵じゃないですか・・・
違うって事は罪になっちゃうじゃないですか・・・
肌の色も、コトバも、環境も、違うだけで戦争になっちゃうよ。。。
ああ、このままでは世界平和はこない(極端だってーー;)、、とシミジミしちゃったり。
って言うかね、いろいろ聞くとね、話をしてるお互いの相手の事を全然思いやってないコトバがドンどこ投げつけられるわけですよ。私にじゃないんですけど。
私は何よりもソレが苦手なんです。その相手を認めないって意識のボールが飛び交ってるのが。
まあまあ、私も自我の強い人間で、数年前までは本当に自分の世界観しか信じられなかったし、見えなかった。
だから人には言えないんだけど、大体そういう深い話をする人って言うのは信頼している大事なひとだから、誤解をされる事はかなり悲しいし、凹むのです・・・
今も私は頑固で短気ですが、本当にコレはほっといてはいけないって事以外の闘争心はかなり薄れてきた気がするんです。
もともとそうだったのだけど、生きていくには自分に嘘をついてでも恐れに強くいなければならない時期がありました。
が、それがなくなった時、私が一番怖かったのは「人の思い」でした。
わたしの持病のPTSDに伴うパニック症の原因は一般的な閉所恐怖とかではなく、人の特にマイナスな感情の波動を感じるからです。
マイナスの波動と言うのは、決して怒りとかだけで起こるものではないんです。
その人が善意を持っていても、相手を軽んじる意識があれば優越感となり、その波動は起こります。
私はそれを感じるのが、とても苦手なのです。特に争ってたりする波動を感じたら失神したり。
その頃は私にとって、外は戦場となんら変りませんでした。
そんなこと言ったら街歩けないじゃん、と言われそうですが、ええ、そうなの。
以前は全くあるけませんでした、街なんて。
そりゃ、もう見事に、撃沈でした(笑)
その頃に通わされたお医者さまの判断は「相当重度に心が傷ついておられるので、最低3年は仕事しないでくださいねー、無理すると死んじゃいますよぉ」と笑顔で(笑)
そしてヒッキー8ヶ月。
出かけたくても、恐怖と緊張から玄関で倒れてることもしばしばありました。
そんな私が何故、またこうして街を歩けるようになったのか。
これはあくまでも私に限ったことですが、私自身のココロに一つの学びがあったからです。
この数年で私が一番学んだ事は簡単に言うと、
「わたしの絶対は、誰かの絶対ではない」
「善悪は必ずしも分けられない」という事、
「光があって、闇があり、表があって、裏がある。それら二つが一つ」
「あなたはワタシ、ワタシはあなた」
という様な事でした。
これらはずーっと心の中にあったのに、結局ぜんぜん理解できてなかったんですよね、私。
今もソレが理解できているかって言われたら、どうなのかなーと思いますが、一つの答えは胸の中に存在していると思います。
私は今まで、自分が決めた事は何一つ後悔をしたことがありません。
やった事を後悔するくらいなら、最初からやらない。
だから何かを決める時は、死ぬ気でどんな結果も受け入れる覚悟を決めて行動にでます。
だから、決めたことをやるって時はものすごいパワーと信念をもって動いていると思うんです。
それは今も変りませんが、以前はそういう風に強い意志を持てるように敢えて自分を仕向けていました。
そういう風に自分を動かしている時は、何でも自分の意志とか感覚ってモノが最優先でした。
人間だから当たりまえでもあるのだけど、自分のフィルターを通してしか人も物事も見ていなかった。
だから自分と違うものは、全部間違っているように思えたし、自分は間違っていないと頑なに信じることが重要だと思っていました。
でもソレは変りました。
今も同じく、自分と言うフィルターを通して、モノを見、考えます。
ですが以前と大きく違うのは、目の前にあるものが必ずしも正しい姿ではない、ととらえるようになったことです。
「裏がある」と考えたりするのではなく、今、目の前に置かれている「結果」はどうしてそうなったのだろうか?と少なくとも想像できるようになったのです。
時には、まったくの悪に見えても、ソレが善から生まれたものであることもあります。
昔は「悪」の部分しか感じなかったので、間違っている所を責める一方でした。
わたしの絶対は宇宙の絶対だったのです。
けれども、いま大事にしている事は、間違っていると判断される事は確かに正すことが必要だけれど、ソレよりもその奥にあるその結果を生んだ理由を理解しようと勤めることだと思うようになりました。
例えば凄惨な殺人事件があり、人が殺されたとして、犯人が咎められるのは必定です。
けれども、もしその殺人に至る理由が、同じように家族を殺害された哀しみからであったなら、その悲しみの部分を手に取りたい、と思うようになりました。
それは、その犯人を許すこととは違うんです。でも、その人の悲しみを分かち合うことではあると思う。
分かち合うことで、その重みが軽くなっていくのではないか?
そうなれば、次にそういう事はなくなるのではないか?と感じるようになったわけです。
そして、ソレが全ての事に当てはまるといいなあ、と思うようになりました。
人も物事も光と闇の部分があってこそ一つなのだ、と思うようになったのです。
同じように、悲しみや苦しみの中から善なることを学ぶこともあると解りました。
悲しみは悲しみだけではないのだと。
暗闇は闇だけで出来ているわけでなく、光で織り成されているのだと。
それらは別れや死、たくさんの困難を通して感じたことです。
そして何より、その時々で目の前に立つ人に学んで来たのだと思います。
目の前に立つ人々は必ずしも自分に優しい人間ではありません。
時には本当に憎しみの対象ともあるときもあります。
けれど、そこにいるのは間違いなく、いつも「ワタシ」自身でした。
人は映し鏡となって目の前に立つのだ、と理解できるようになったのです。
シュタイナー学校にいた時、教師は子ども達にトラブルが起こると、何でこんなことするの?と言う前に「ワタシはこの子に対してどうだったのだろう?わたしの何がこの問題を起こしたのだろう?」と自分と向き合います。
そして、まずは自分を変えるのです。そうすると、子どもたちが変ってゆく。
この結果から、全ては繋がっていて、「どの人も私である」という事の証明に感じられました。
そうした神秘的とも言える経験が今の私を生んだのかもしれません。
同じように、この事から何かトラブルが起きたときは、自分にも、相手にも理由があるんだなと解ったんです。
噂しかり、中傷しかり。
世の中にはクレーマーと言う人もいるんでしょうが、普通に考えて、何もないのに文句を言う人はいませんよね?
何かがあるから、あったから、なにかの感情が生まれる訳です。
その理由を受け止める事で相手ならず、自分も理解することになるんだなあ、と。
だからこそ疑うことも大事なのだと知りました。
善意は時々、その疑いを見えなくしてしまいます。
善なる意志をもつ事は、ある意味で「楽」でもあるからです。
人はみーんないい人で、信じてあげれば、嫌な思いもしないし、そう思った人には悪い事は起こらない。
疑う事は心に痛いことです。信じられるまでは嫌な思いもします。
けれど、疑う事は相手をじっくり見つめる事でもあるし、自分を探ることでもある。
そして培った信頼はその分固く結ばれてほどけることがないのだ、とも解りました。
だから、それぞれの道を応援できるようになったんだな、と思います。
いろいろな考え方や生き方と言うものが、それぞれにとってとても大事だとわかりました。
だからこそ、自分にも大切なんだという事が。
でも、それは自分が相手の意見をそのままやる、と言うのとは違いますよね。
だから、ワタシは自分の意見をしっかりと伝えたい。自分の大事にしているものを。
人とちゃんと関わって、相手も自分も大切に生きて居たいからです。
相手の事を心底、愛したいからです。
それを伝える事は、自分を伝えることであって、相手の批判や差別では決してないのです。
それで、自分はこう思う、だけれどもあなたの意見もとても大事だし、選んだ人が育てて行けば善いと思う、とお話したくなるわけです。
が~~~、最初の部分に戻って、それがなかなか難しいので、時々凹んじゃったりするのでした。
最近は特にいろいろあったので、いろんな事を考えますが、よく話題にしているように、自分にとっての「富」と言うものをに付いてよく考えます。
安心とか不安とか、生きるとか、生活とか色々考えます。
やっぱり、今、一番に思いつく事は、「こころある暮らし」をしていきたいという事。
お金がなくちゃ出来ないことも一杯ある。
けれど、お金がなくても出来ることを、しないで生きていく人の方が多い世の中。
だったらワタシは今、この瞬間に出来る事をやっていける人になりたいと、今は強く思うのでした。
たくさんの人に出会いましたが、わたしの尊敬する人々は、心の豊かな人たちです。
そして、お金があろうとなかろうと、どの人も今の瞬間が平安に満ちています。
ワタシもそうでありたいなあと願っています。
そして少しでも、なにかのお役にたってこの世を去りたい。
さて、そんな真性ボンビーなワタシが一体何が出来るのか?
以前教えていただいた事を皆さんにシェアします。
仏教の教えに地位や財産がなくても、誰もがいつでも容易にできる布施の行,というものがあるそうです。
「無財の七施」といわれるものです。
1 眼 施 がんせ
慈眼施ともいい、慈しみに満ちた優しいまなざしで、すべてに接することをいいます。温かい心は、自らの目を通して相手に伝わるのです。
2 和顔施 わげんせ
和顔悦色施ともいいます.いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接する行為です。喜びを素直に顔の表情にあらわしましょう。
3 愛語施 あいごせ
言辞施(ごんじせ)の別称もあります。文字通り優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わす行ないをいいます。
4 身 施 しんせ
捨身施ともいいます。自分の身体で奉仕をすること。
身体で示すことをさし自ら進んで他のために尽くす気持ちが大切です。
5 心 施 しんせ
心慮施。他のために心をくばり、心底から共に喜び共に悲しむことができ,他の痛みや苦しみを自らのものとして感じ取れる心持ち。
6 牀座施 しょうざせ
たとえば自分が疲れていても電車の中で喜んで席を譲る行為。また競争相手にさえも自分の地位を譲って悔いなく過ごせることをいいます。
7 房舎施 ぼうしゃせ
風や雨露をしのぐ所を与えること。自分が半身濡れながらも、相手に雨がかからないように傘を差し掛ける思いやりの行為など。
いかがでしょう?これの一つくらいは皆さんも頑張っちゃえるんじゃないでしょーか?(^^)
ワタシもせめてこのブログの中で愛語を語って行きたいモノです。
ちなみに、この七施を教えてくださった人はカトリックのシスターなんですよ。
魂に優しい生き方に壁はないんですね。
国境も人種も何もかも、分けられていることが喜びとなるように、思いやっていけたらと思います。