ゆうわファミリーカウンセリング新潟 (じーじ臨床心理士・赤坂正人)     

こころと暮らしの困りごと・悩みごと相談で、じーじ臨床心理士が公園カウンセリングや訪問カウンセリングなどをやっています。

マスコミは「警察官」さま(?)か?あるいは「裁判官」さま(?)なのか?・その2-じーじのひとりごと

2024年11月15日 | ひとりごとを書く

 2022年11月のブログです

     *

 ニュースを見ていたら、またまたマスコミ「警察官」さま(?)か、あるいは「裁判官」さま(?)の映像を見てしまった。

 ところは、大阪のとある開かずの踏切。

 1時間に踏切が閉まっているのが54分というとんでもない踏切。

 そんな踏切を放置している行政や鉄道会社の責任はとてつもなく大きいと思うが、そこに出現したのがマスコミ「裁判官」さま(?)。

 以前も指摘をしたが、違反をしている人にインタヴューをする。

 警報機が鳴っているのに踏切に入る人に、「危ないと思いませんか」「なんで警報機が鳴っているのに入るのですか」と小学生でもするような幼稚なインタヴューをする。

 インタヴューをされたあるおじさんは「待つのがいやなんだ」「みんなやっている」と当然逆ギレ。

 気分の悪いニュースとなった。

 テレビ局の記者は「警察官」さま(?)か「裁判官」さま(?)なのか。

 高い競争率を突破して記者になったのに、そんな質問しかできないのは悲しい。

 ここはやはり、「歩道橋があると助かりますよね」とか「地下道があるといいですよね」と聞いてほしいし、「行政はいつになったら高架にするんでしょうね」と確認をしてほしい。

 そういう声が、行政や鉄道会社の改善の動きを加速させるかもしれない。

 それがマスコミの仕事ではないのだろうか。

 そしてよく考えると、要は聞き方だけでなく、マスコミが誰により添っているか、という心構えの問題ではないのだろうかとも思う。

 マスコミは「警察官」さま(?)や「裁判官」さま(?)ではなく、庶民により添った、弱い者の味方のマスコミになってほしいな。        (2022.11 記)

 

コメント

赤坂正人「家庭裁判所での別れた親子の試行的面会」2011・『遊戯療法学研究』10巻1号-面会交流を考える

2024年11月15日 | 「おとな」の親を考える

 たぶん2015年ころのブログです

     *

 じーじの二つ目に活字にしていただいた論文です。

 今から数年前のことです。

 一つ目の論文と同様,家庭裁判所での面会交流の試行の経験をもとにして考察をしました。

 紹介をさせていただいたケースは,(プライバシーの保護のために)いくつかのケースを合わせた架空のものですが、父母同席による面会交流の試行です。

 実家に戻ったお母さんが久しぶりに子どもさんに会えたものの,最初は声をかけても子どもさんに背を向けられてしまうのですが,3回目からやっと子どもさんと一緒に遊べるようになるという感動的な事例でした。

 遊ぶことのもつ力,遊ぶことに潜在している創造性,親子が二人でいてかつ一緒にいることの意味などについて,ウィニコットさんやオグデンさんなどを参考にしながら考えてみました。

 父母同席の面会交流は最初はなかなか苦労をしますが,うまくいくととても大きな変化をもたらすことが多いと思います。

 当時は全く気づいていなかったのですが,実は全国的には家庭裁判所での面会交流の試行は父母別席の形が多く,じーじの実践していた父母同席の面会交流の試行は独特な形だったようです。

 あとになってそのことに気づき、その理論化や言語化,周囲への説得に苦労をしたことを思い出します。

 いずれにせよ,父母同席による面会交流やその試行などについて,どのような配慮や工夫などが大切になるのか,これまでの経験を振り返り,考え,今後も思索を続けていきたいと思っています。         (2015?記)

     *

 2021年1月の追記です

 このケースも、前の論文のケースも、家庭裁判所での面会交流の試行を5回行なって、調停が成立し、その後はお父さんとお母さんだけで面会交流ができるようになりました。

 あとで知ったことですが、しかし、こんな例はまれで、普通、家庭裁判所での試行は1回きりが多いようで、お偉いさんからあきれられました。

 しかしながら、子どもにとっては、面会交流の試行はかなり緊張をしいられるできごとで、1回目から別れた親ごさんと遊べる子どももいれば、数回目でようやく遊べるようになる子どももいると思います。

 子どもの状態に応じた柔軟な臨床が大切になるのではないかと思います。         (2021. 1 記)

 

コメント