皆さんこんばんは。今日はどんな一日でしたか? そうだいです。
前回のブログで本名を言っておきながら、また「そうだい」と名乗るのもおかしな話なのですが、せっかく使いはじめたのに一週間ほどで捨ててしまうのもナンなので、この「長岡京エイリアン」では、これからもそうだいでいかせていただきたいと思います。
ブログの第一回でも申しましたが、この「そうだい」とは、私が尊敬してやまない、さる人物のニックネームから勝手ながら拝借したものです。
その、さる人物とは……
戦国時代、あの織田信長までもが一目置いたという、畿内地方の戦国武将・松永久秀(まつなが ひさひで)!!
松永久秀、ご存じですか? おそらく、日本の歴史に詳しい方よりも、有名な歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』で遊んだことのある方のほうが、彼に関する印象を強く持っておられるのではないでしょうか。
『信長の野望』での松永久秀の人物評は、おおざっぱに言うと「超野心家」「しょっちゅう裏切る」「かなりの文化人」の三つに集約されます。
松永久秀(1510~1577)は、出身地もはっきりしない正体不明の武将です。これは実は、日本の戦国時代の有名人物としては珍しいことで、ほとんどの武将が血筋のはっきりした名門の出であるのに比べると、ミョーに目立ちます。戦国時代といえば、野心ある家来が主君を倒すという「下克上」のイメージが浮かんでくると思いますが、いくら「下」といっても、あくまで「上」から見たときの「下」なのであって、だいたい一つの町や市ぐらいの地域をまるごと支配できていたセレブ階級の人達が、下克上の「下」のほとんどだったのです。
そんな時代に、おそらく武士でもなかったと思われる階級からスタートした松永久秀のキャリアは、三好長慶(みよし ながよし)という有力戦国大名の執事になったあたりから爆発的なスピードで上昇してゆき、最終的には現在の奈良県のほとんどを支配する独立戦国大名、というところまでのぼりつめていったわけなんです。
そんな彼が、京都の朝廷から任じられた官職位が「弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)」でした。
当時、応仁の大乱以来の戦火のために荒廃しきった京都と困窮する天皇・朝廷ではありましたが、それらの持つ千年の伝統というものの権威は健在であり、むしろ荒れた世の中であればあるほど周囲からのニーズは高くなっていました。
出自や格式といった、目に見えない部分での自分の弱さを認識していたためか、久秀は非常な努力を重ねて京都の権威と対等にやりあうための教養を身につけていき、朝廷の信頼を得て「弾正少弼」の地位を手にしたのです。
「弾正少弼」とは、ざっくり言っちゃうと現在の「警察庁長官」にあたります。とはいえ、当時の日本は朝廷ではなく全国各地の戦国大名が支配する社会でしたから、実質的な権限はな~んにもありません。「権力」ではなく、「私が、天皇様からじきじきに弾正少弼の指名を受けた松永久秀です!」という「権威」を持つことが大事だったのです。
で、その「弾正少弼」の中国風の言い方が「霜台」、つまり「そうだい」だったんですよ!
すみません、「そうだい」までにかなり時間がかかってしまいましたが、ここからとったわけなんです。松永霜台久秀から。
じゃあなんでワザワザ中国語読みにすんの? と言いますと、当時はそれがナウかったからなんだそうです。ほら、まんま「弾正」って言っちゃうと、かたっくるしいし、おしゃれじゃないでしょ? 今で言うと、「企業最高責任者」じゃなくて「CEO」って言うみたいな感覚です。
余談ですが、TV時代劇の『水戸黄門』の「黄門」も、主人公の水戸光圀(みと みつくに)が朝廷からもらっていた官職「中納言(ちゅうなごん)」の中国語読みが「黄門」だったからなんです。「中納言」も、かなり高い階級です(今の大臣・長官クラス)。
まぁそんな感じで、成り上がって大名になった久秀さんなんですが、私が好きなのは彼の最期です。
戦国時代の日本人としては長生きしてると充分言える68歳になった久秀さんでしたが、なんとここで、これまでの全ての人生を賭けた大ばくちに挑んでしまいます。それが、当時すでに近畿・東海地方のほとんどを制する大大名となっていた織田信長への謀反です。
当時、20歳以上も年下だった信長の近畿進出に対して、そそくさと降伏して奈良県地域の支配を任せてもらうということに成功していた久秀だったのですが、約10年間の上下関係にピリオドをうった突然の反逆!
しかし、しょせんは一地方の大名。信長との大きくなりすぎた戦力差はもはやうめがたく、久秀は1577年の10月10日に、何万もの信長軍に包囲された自分の居城・信貴山城(しぎさんじょう)の中で自害します。
ところが! 「ただでは死なねぇ!」と言ったか言わずか、久秀の自害の方法はかなりキョーレツで、信長が「それくれたら許してやってもいいぎゃ」とまで言っていた、天下一の名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)の茶釜」に爆薬をつめて、城の天守閣の最上階ごと爆死するというものだったのです。
かっこいい……おじいちゃんなのに爆死! しかも自分の一番の宝物と一緒に!
地位や宝物や城、およそ70年間の人生をかけて積み上げてきた全ての久秀アイテムが一瞬にしてこなごなになり、宙に消えていった1577年10月10日のスターマイン。
その日、城を包囲していた何万という無名の兵士たちの目には、この花火はどのように映っていたのでしょうか。た~まや~。
前回のブログで本名を言っておきながら、また「そうだい」と名乗るのもおかしな話なのですが、せっかく使いはじめたのに一週間ほどで捨ててしまうのもナンなので、この「長岡京エイリアン」では、これからもそうだいでいかせていただきたいと思います。
ブログの第一回でも申しましたが、この「そうだい」とは、私が尊敬してやまない、さる人物のニックネームから勝手ながら拝借したものです。
その、さる人物とは……
戦国時代、あの織田信長までもが一目置いたという、畿内地方の戦国武将・松永久秀(まつなが ひさひで)!!
松永久秀、ご存じですか? おそらく、日本の歴史に詳しい方よりも、有名な歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』で遊んだことのある方のほうが、彼に関する印象を強く持っておられるのではないでしょうか。
『信長の野望』での松永久秀の人物評は、おおざっぱに言うと「超野心家」「しょっちゅう裏切る」「かなりの文化人」の三つに集約されます。
松永久秀(1510~1577)は、出身地もはっきりしない正体不明の武将です。これは実は、日本の戦国時代の有名人物としては珍しいことで、ほとんどの武将が血筋のはっきりした名門の出であるのに比べると、ミョーに目立ちます。戦国時代といえば、野心ある家来が主君を倒すという「下克上」のイメージが浮かんでくると思いますが、いくら「下」といっても、あくまで「上」から見たときの「下」なのであって、だいたい一つの町や市ぐらいの地域をまるごと支配できていたセレブ階級の人達が、下克上の「下」のほとんどだったのです。
そんな時代に、おそらく武士でもなかったと思われる階級からスタートした松永久秀のキャリアは、三好長慶(みよし ながよし)という有力戦国大名の執事になったあたりから爆発的なスピードで上昇してゆき、最終的には現在の奈良県のほとんどを支配する独立戦国大名、というところまでのぼりつめていったわけなんです。
そんな彼が、京都の朝廷から任じられた官職位が「弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)」でした。
当時、応仁の大乱以来の戦火のために荒廃しきった京都と困窮する天皇・朝廷ではありましたが、それらの持つ千年の伝統というものの権威は健在であり、むしろ荒れた世の中であればあるほど周囲からのニーズは高くなっていました。
出自や格式といった、目に見えない部分での自分の弱さを認識していたためか、久秀は非常な努力を重ねて京都の権威と対等にやりあうための教養を身につけていき、朝廷の信頼を得て「弾正少弼」の地位を手にしたのです。
「弾正少弼」とは、ざっくり言っちゃうと現在の「警察庁長官」にあたります。とはいえ、当時の日本は朝廷ではなく全国各地の戦国大名が支配する社会でしたから、実質的な権限はな~んにもありません。「権力」ではなく、「私が、天皇様からじきじきに弾正少弼の指名を受けた松永久秀です!」という「権威」を持つことが大事だったのです。
で、その「弾正少弼」の中国風の言い方が「霜台」、つまり「そうだい」だったんですよ!
すみません、「そうだい」までにかなり時間がかかってしまいましたが、ここからとったわけなんです。松永霜台久秀から。
じゃあなんでワザワザ中国語読みにすんの? と言いますと、当時はそれがナウかったからなんだそうです。ほら、まんま「弾正」って言っちゃうと、かたっくるしいし、おしゃれじゃないでしょ? 今で言うと、「企業最高責任者」じゃなくて「CEO」って言うみたいな感覚です。
余談ですが、TV時代劇の『水戸黄門』の「黄門」も、主人公の水戸光圀(みと みつくに)が朝廷からもらっていた官職「中納言(ちゅうなごん)」の中国語読みが「黄門」だったからなんです。「中納言」も、かなり高い階級です(今の大臣・長官クラス)。
まぁそんな感じで、成り上がって大名になった久秀さんなんですが、私が好きなのは彼の最期です。
戦国時代の日本人としては長生きしてると充分言える68歳になった久秀さんでしたが、なんとここで、これまでの全ての人生を賭けた大ばくちに挑んでしまいます。それが、当時すでに近畿・東海地方のほとんどを制する大大名となっていた織田信長への謀反です。
当時、20歳以上も年下だった信長の近畿進出に対して、そそくさと降伏して奈良県地域の支配を任せてもらうということに成功していた久秀だったのですが、約10年間の上下関係にピリオドをうった突然の反逆!
しかし、しょせんは一地方の大名。信長との大きくなりすぎた戦力差はもはやうめがたく、久秀は1577年の10月10日に、何万もの信長軍に包囲された自分の居城・信貴山城(しぎさんじょう)の中で自害します。
ところが! 「ただでは死なねぇ!」と言ったか言わずか、久秀の自害の方法はかなりキョーレツで、信長が「それくれたら許してやってもいいぎゃ」とまで言っていた、天下一の名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)の茶釜」に爆薬をつめて、城の天守閣の最上階ごと爆死するというものだったのです。
かっこいい……おじいちゃんなのに爆死! しかも自分の一番の宝物と一緒に!
地位や宝物や城、およそ70年間の人生をかけて積み上げてきた全ての久秀アイテムが一瞬にしてこなごなになり、宙に消えていった1577年10月10日のスターマイン。
その日、城を包囲していた何万という無名の兵士たちの目には、この花火はどのように映っていたのでしょうか。た~まや~。