ぱ~ぽ~ぺ~ぱ~ぽぽ~、ぺぺ~れ~ぺ~れ~、ぺれぺれぺれぺれれ~ん……
あっ、失礼しました! どうも、そうだいです。
いや~、昨日観た映画のテーマ曲が、ずっと頭の中で流れ続けてるんですよね。まいっちゃったなぁ!
前回のブログにも書いた通り、私は昨日、池袋に行って何本かの映画を観てきたんですが、私の頭でエンドレスで流れているのはその中の一本、『惑星ソラリス』(監督・アンドレイ=タルコフスキー 1972年)の主題曲であるバッハのコラール前奏曲『イエスよ、われ主の名を呼ぶ』です。最初の一文だけでこの曲だとわかった人は、ちょっとおかしいです。たぶんなにか、前世で私と縁があったのでしょう。
音声で説明できないのが申し訳ないのですが、この曲は本当にせつないです。この曲を聴いている間、私の眼には苦悩している人の姿がありありと浮かんできて、やがてその苦悩が消えていくような希望の光がかすかに見えて、曲は終わります。
そして、この曲をテーマに選んだタルコフスキー監督の意図するところもそうなのか、『惑星ソラリス』は明らかに、何かの事情があって苦悩する人間しか登場しない物語なのです。人間どころか人間じゃないキャラクターまでも苦悩してるんだから徹底的ですね!
昨日はまとめて何本かのいい映画を観るというビッグイベントな日だったのですが、その中でも『惑星ソラリス』は、私にとっては特に思い入れのある作品だったんです。
私が初めて『惑星ソラリス』を観たのは18歳の時。千葉に住み始めて、東京でやっている単館上映や特集上映の映画を観に行くという楽しみをおぼえた頃のことでした。えっ、もう10年以上前なんだ、18歳って。あらま! ま、それはともかく、大森の映画館でこの映画を観終わったあと、私はショックのあまり帰り道で迷子になってしまいました。来る時はなんともなかったのに!
「なんて、SFであることに謙虚なSF映画なんだ!」
この映画の舞台はタイトルの通り、惑星ソラリスという遠く離れた宇宙のかなたにある星です。地球の海に似た液体に満たされたこの惑星に調査のための宇宙ステーションを建造した地球人は、優秀な研究者を送り込んで調査を開始しますが、宇宙ステーションでは予想だにしなかった異変が……というのがこの映画のあらすじ。
その異変というのは、宇宙ステーションに入った研究員それぞれの記憶に残っている人物が、なぜか次々とステーションの中に現れるというもの。それは、惑星ソラリスの海が宇宙ステーションの人間の脳波を感じ取って、それらの脳裏に強く刻み込まれたイメージを物質化してしまう生命スープだったために引き起こされていた現象だったのです!
とまぁ、ここまではSF的展開なんですが、ここからがさぁ大変。
主人公のケルヴィンが物質化させてしまったのは、数年前に自殺した自分の妻だったのです。ケルヴィンは自分のせいで彼女が自殺したのだと思いつめていたために、妻のイメージがなによりも強く記憶に残っていたのです。ケルヴィンは悩みます。
「こいつは明らかに本物の妻じゃない。でも、記憶のままの妻である以上、限りなく本物に近い。この妻と再び幸せな生活をやりなおせたら、どんなに素晴らしいだろう。しかし、しょせんこいつは人間でさえないんだ……」
さらに困ったことに、復元された妻は、自分が本物の妻であることになんの疑いも持っていません。それなのに、ケルヴィンと過ごしたはずの地球での生活のことを何一つおぼえていないということに自分で疑問を持ってしまうのです。
「私、なんでこんな所にいるのかしら……しかも、ケルヴィンの私を見る目がどうもおかしい。私はただ、彼を愛していたいだけなのに。」
二人は果たして、このすれ違いをどう乗り越えるのか。別れるしかないのか? それとも、すべての障害を超えた場所に愛を見つけるのか? ここがこの映画のテーマになってくるわけなんです。つまり、さわりだけSFの設定を借りて、あとはSFらしくないテーマをひたすら深く掘り下げる作品になっている。ただのSFじゃねぇ! ここが『惑星ソラリス』の、私の大好きなポイントなんです。
ケルヴィンは、ステーションに持ってきていた、昔の二人が仲良く映っているホームビデオを一緒に見ますが、そんな記憶の残っていない妻はなにも答えることができません。
思い悩むケルヴィンと、それを見守ることしかできない妻。寄り添う二人は無重力の空間に浮かびながら、ただお互いがここにいるという奇跡を確かめ合うことしかできません。でも、それ以上になにが必要だというのでしょうか。
そんなシーンのポイントポイントに流れてくるのが、例のバッハのオルガン曲なんですね。もう、哀れで哀れでホントにじーんときてしまいます。
出演者は皆さん素晴らしい演技を見せてくれるのですが、特にステキなのが、復元された妻役のナターリャ=ボンダルチュクさん! 当時22歳ながら、ミステリアスな表情とガラスのように繊細な感情をどちらも持ち合わせた役柄を見事にやりきっておられます。とにかく外見だけじゃなく美人、美人、美人~!
『惑星ソラリス』……昨日再確認しましたが、何十年たっても決して色あせることのない永遠の傑作です。伝説の首都高シーンやタルコフスキー印の水を使った撮影のオンパレードなど、見所のたくさんある作品ですので、2時間半以上というとんでもない長さではありますが、心が渇いてると思われた時には、ぜひともごらんになってみてください! 梅雨時には、ちょっと部屋がしめっぽくなっちゃうかも。
あっ、失礼しました! どうも、そうだいです。
いや~、昨日観た映画のテーマ曲が、ずっと頭の中で流れ続けてるんですよね。まいっちゃったなぁ!
前回のブログにも書いた通り、私は昨日、池袋に行って何本かの映画を観てきたんですが、私の頭でエンドレスで流れているのはその中の一本、『惑星ソラリス』(監督・アンドレイ=タルコフスキー 1972年)の主題曲であるバッハのコラール前奏曲『イエスよ、われ主の名を呼ぶ』です。最初の一文だけでこの曲だとわかった人は、ちょっとおかしいです。たぶんなにか、前世で私と縁があったのでしょう。
音声で説明できないのが申し訳ないのですが、この曲は本当にせつないです。この曲を聴いている間、私の眼には苦悩している人の姿がありありと浮かんできて、やがてその苦悩が消えていくような希望の光がかすかに見えて、曲は終わります。
そして、この曲をテーマに選んだタルコフスキー監督の意図するところもそうなのか、『惑星ソラリス』は明らかに、何かの事情があって苦悩する人間しか登場しない物語なのです。人間どころか人間じゃないキャラクターまでも苦悩してるんだから徹底的ですね!
昨日はまとめて何本かのいい映画を観るというビッグイベントな日だったのですが、その中でも『惑星ソラリス』は、私にとっては特に思い入れのある作品だったんです。
私が初めて『惑星ソラリス』を観たのは18歳の時。千葉に住み始めて、東京でやっている単館上映や特集上映の映画を観に行くという楽しみをおぼえた頃のことでした。えっ、もう10年以上前なんだ、18歳って。あらま! ま、それはともかく、大森の映画館でこの映画を観終わったあと、私はショックのあまり帰り道で迷子になってしまいました。来る時はなんともなかったのに!
「なんて、SFであることに謙虚なSF映画なんだ!」
この映画の舞台はタイトルの通り、惑星ソラリスという遠く離れた宇宙のかなたにある星です。地球の海に似た液体に満たされたこの惑星に調査のための宇宙ステーションを建造した地球人は、優秀な研究者を送り込んで調査を開始しますが、宇宙ステーションでは予想だにしなかった異変が……というのがこの映画のあらすじ。
その異変というのは、宇宙ステーションに入った研究員それぞれの記憶に残っている人物が、なぜか次々とステーションの中に現れるというもの。それは、惑星ソラリスの海が宇宙ステーションの人間の脳波を感じ取って、それらの脳裏に強く刻み込まれたイメージを物質化してしまう生命スープだったために引き起こされていた現象だったのです!
とまぁ、ここまではSF的展開なんですが、ここからがさぁ大変。
主人公のケルヴィンが物質化させてしまったのは、数年前に自殺した自分の妻だったのです。ケルヴィンは自分のせいで彼女が自殺したのだと思いつめていたために、妻のイメージがなによりも強く記憶に残っていたのです。ケルヴィンは悩みます。
「こいつは明らかに本物の妻じゃない。でも、記憶のままの妻である以上、限りなく本物に近い。この妻と再び幸せな生活をやりなおせたら、どんなに素晴らしいだろう。しかし、しょせんこいつは人間でさえないんだ……」
さらに困ったことに、復元された妻は、自分が本物の妻であることになんの疑いも持っていません。それなのに、ケルヴィンと過ごしたはずの地球での生活のことを何一つおぼえていないということに自分で疑問を持ってしまうのです。
「私、なんでこんな所にいるのかしら……しかも、ケルヴィンの私を見る目がどうもおかしい。私はただ、彼を愛していたいだけなのに。」
二人は果たして、このすれ違いをどう乗り越えるのか。別れるしかないのか? それとも、すべての障害を超えた場所に愛を見つけるのか? ここがこの映画のテーマになってくるわけなんです。つまり、さわりだけSFの設定を借りて、あとはSFらしくないテーマをひたすら深く掘り下げる作品になっている。ただのSFじゃねぇ! ここが『惑星ソラリス』の、私の大好きなポイントなんです。
ケルヴィンは、ステーションに持ってきていた、昔の二人が仲良く映っているホームビデオを一緒に見ますが、そんな記憶の残っていない妻はなにも答えることができません。
思い悩むケルヴィンと、それを見守ることしかできない妻。寄り添う二人は無重力の空間に浮かびながら、ただお互いがここにいるという奇跡を確かめ合うことしかできません。でも、それ以上になにが必要だというのでしょうか。
そんなシーンのポイントポイントに流れてくるのが、例のバッハのオルガン曲なんですね。もう、哀れで哀れでホントにじーんときてしまいます。
出演者は皆さん素晴らしい演技を見せてくれるのですが、特にステキなのが、復元された妻役のナターリャ=ボンダルチュクさん! 当時22歳ながら、ミステリアスな表情とガラスのように繊細な感情をどちらも持ち合わせた役柄を見事にやりきっておられます。とにかく外見だけじゃなく美人、美人、美人~!
『惑星ソラリス』……昨日再確認しましたが、何十年たっても決して色あせることのない永遠の傑作です。伝説の首都高シーンやタルコフスキー印の水を使った撮影のオンパレードなど、見所のたくさんある作品ですので、2時間半以上というとんでもない長さではありますが、心が渇いてると思われた時には、ぜひともごらんになってみてください! 梅雨時には、ちょっと部屋がしめっぽくなっちゃうかも。