ある温泉街で古い写真に出会った。
セピア色に彩られた写真で、昭和の初期ころなんだろうか、
その温泉街の佇まいが写し取られている。
ふしぎに味があって、目から離れられなくなった。
って、べつにこの写真に既視体験のようなものを感ずる、
とかいうわけではありません。
デジカメとかが一般的になって、
大量の画像データが日々、飛び交って情報の総量は
昔と比べると驚異的に増えてきているのだけれど、
昔のこういう写真表現の陰影感には
言葉にできにくい奥行きを感じざるを得ません。
まだ、舗装もされていない道路の質感が
思い起こされたり、並木道は人の歩くスピードで
やすらぎをもたらせてくれていたんだ、とか、
その木陰で待ちざまにしている人影にも、
時間がゆったりと流れている感覚がある。
ようするに、時間の感覚が現代はあまりにも急ぎすぎ。
デジタル時代になって、それが極限まで加速している気がします。
わたしの仕事はDTPで雑誌を造っていく仕事なので、
仕事はすべてパソコン上のデータとして扱う。
確かに便利だし、これがなければ仕事にはならないのだけれど、
たとえば最近の「迷惑メール」の増加ぶりはすごいですね。
IT関係の人に聞いたら、いまや飛び交っているメールのうち、
9割近くは迷惑メールなんだそうです。
しかし、一方で役所関係なんかも届け出が
メールで可能になったりする流れは強まっていく。
こんなのでいいのだろうか、破綻しないのか?
たぶん、みなさん、メールについてはフィルタリングを使っているでしょうが、
それを突破する方法も、この手の手合いは一生懸命やるだろうし。
まぁ、いたちごっこ。
この写真のような牧歌的な時代に戻れるわけもないけれど、
どうも、ルネッサンスのように、人間性の復権とかが今後あるとすれば、
デジタル機器に対する人間社会のルールが決まることなのかも知れませんね。
そして、無法に対する的確な処罰が可能になる必要もある。
そのようなことが起こらなければ、
現代人の疲労感は、なかなかレベル低下することはないのではないでしょうか。