岩手宮城内陸地震、山間地での被害の甚大さに驚愕の思いです。
土石流のすさまじさの前には無力なもの。
地震の前日、見に行ったのがこの「達谷の窟」。
被害が大きかった山間地に向かう国道からほど近い位置にあり、
1日違ったら、なんらかの被害に遭っていたかも知れないと思われます。
東北の歴史探訪をしてきて、
やはりこの達谷の窟は、欠かすことが出来ない体験ゾーンだと
だんだんと確信してきていたのですが
行ってみて、そういう思いが一層募ってきた次第です。
建物は自然の岩石を利用した洞穴に対して軒先を木造で継ぎ足した形。
創建者と伝えられる坂上田村麻呂が京都に残した清水寺と同様に
高く高楼を組み上げて造作されています。
歴史時間の前後はわかりませんが、
場合によっては、清水寺となんらかのつながりがあるのかも知れません。
作り手が同一人物、集団かもしれないと想像が湧きます。
この達谷の窟は、東北の征服戦争勝利者・坂上田村麻呂が
敗者・アテルイとその一統の鎮魂のために建てたと言うこと。
かれ自身の思いがどうであったかは別として、
状況としては、停戦合意のために京都に行ったのに
ヤマト朝廷権力にだまし討ちされたに等しいアテルイの
無念と恨みの心情を共有する現地住民に対して
こういうかたちの懐柔をしなければ、
たぶん現地に脚を入れられなかったのではないかと思われます。
そのように考えると、この場所はアテルイの根拠地であった気がします。
平泉までも5km程度とほど近く、
古代東北地方にとっての枢要の位置といえる地理環境。
後の藤原清衡の中尊寺創建時の「願文」に戦死者への鎮魂が語られていますが、
ふしぎと同じように、坂上田村麻呂によって
「神域・境内での殺傷禁止」の布令が敷かれています。
古代の東北で展開されたヤマト朝廷の側からの侵略戦争が
どのような思いを人の心に残したかを知らせてくれる気がします。
侵略と戦った側にしてみれば、その侵略に対して
その根拠になった中央集権的な国家意識というものは理解を超えていたと思われます。
建築としてのその異様さもあるのですが、
その背景に思いをいたすとき、深く鎮魂の思いを抱く次第です。
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