きのうの続きであります。
瀬戸内海世界では、とくに本州側・山陽地区、近畿地区は
瀬戸内海に向かって河川が、水運が流れ込んでいる世界。
したがって、この河口地域を抑えれば、
必然的に経済の物流を抑えることが出来る。
そして、その要衝地には必然的に常設の「市」が立てられ、
繁盛するようになる。
写真は、播州平野の西の際に位置する「英賀」の周辺河川の様子。
たしか、「夢前川」というロマンチックな名前。
この周辺は、「英賀千軒」という名前も残されていた。
播州平野や後背の中国山地のさまざまな生産物資がこの川を下って
瀬戸内海に出て、そこから大阪・堺に運ばれていったルートが
見えてくるようです。
同様に、広島県の福山市周辺の「草戸千軒」遺跡も、
こうした河川の中州に営まれていたのです。
で、わが家の遠いご先祖さんたちは、
こういう世界に生きていた方たちだったようなのですね。
遠く北海道から訪れてみると、
その陽光の照り返しのまぶしさにくらくらとしてきます。
ヨーロッパの地中海世界に出自を持つひとが、遠くスカンジナビアに移住したような
そういうことに近かったのだろうなと思います。
しかし、考えてみると、
ごく近しい存在として、高田屋嘉平のことも聞こえてくるわけで、
こうした世界は、遠く蝦夷地との「北前船交易」とも太いつながりがあった。
高田屋嘉平の全盛期には、この瀬戸内海世界は
空前の好景気に沸いていた、というようにもいわれています。
尾道などでは、そういう好景気の商人たちが
サロンを形成し、頼 山陽などの知識人を囲んでいたといわれます。
そういう雰囲気の中で、次第に「尊皇攘夷」という
アルコール純度の高いイデオロギーが形成されて、
幕末の動乱に繋がっていったのだと思います。
経済が人の世を作り、雰囲気を決定づけていく中から、
動乱が発酵していく、そんな夢想が沸き起こってきます。