花の名前は、ほんとうに知らない、恥ずかしい・・・。
でもこれはたぶん、クロッカスだろう。
関東以南ではもうすでに夏日にもなっているそうだけれど、
北海道も、順調に春の芽吹きが始まっている。
毎年、それぞれの春の進み方があると思う。
ことしは、冬はいろいろな表情を見せてくれたけれど、
おおむね健全な冬らしい冬だったように感じられた。
そこから、雪融け、春の芽吹きまで、一直線だったように思う。
年は経てきても、四季変化は変わることがなく移ろってくれる。
なによりのことだと、小さなよろこびに満たされる。
日本は、他の国、風土よりも
この四季変化が明瞭なのだろうか。
「日本の美意識」について、考えるとき、このことが一番大きい。
花鳥風月というくらいで、花の季節による移ろいに
非常に敏感な感受性を日本人は育ててきたのだと思う。
縄文の頃に大きく広がったとされる照葉樹林の森で
季節の変化にともなって、さまざまに移ろっていく花々の変化から
始まっただろう日本人の四季変化の概念が
花鳥風月の文化を生み出したように思う。
それからあとの農業社会的な、その農耕時期をあきらかにするための
時期を確定させるための四季変化という概念よりも
やはり直接的な、採集社会的な心理文化に、
われわれ日本人の感受性の有り様は、どうも近いのではないか。
イネの王としての天皇制度以降は、
弥生的な農業生産にあわせた四季変化の概念が導入されたけれど
どうもそれよりも先行する概念、感受性の方が大きい。
そう考えてくると
「日本」という民族概念にも、疑問が生じて来るかも知れない。
日本という国号には、やはりイネの王としての天皇制が
色濃く刻印されていて、
そういった歴史的な残滓から、どうしても呪縛を受けざるを得ない。
つづめて言えば、中国や朝鮮との歴史的軋轢は
このようなことの集積の結果でもあるからだと。
網野善彦さんが繰り返し言っていたように日本ではなく、
「東アジア弧状列島生息人類」とでも概念措定して
語らなければならないのかも知れない。
そのひとびとにとって、
花鳥風月とは、そのようにも民族的な精神文化なのだと思う。