三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

日本式ZEH 否定はしないが不条理では?

2016年02月24日 05時42分43秒 | Weblog
不条理、というコトバがある。
Macのなかにある「辞書」を開いて見ると
① 筋が通らないこと。道理が立たないこと。また,そのさま。
② 〘哲〙〔フランス absurdité 〕実存主義の用語。
人生の、非合理で無意味な状況を示す語としてカミュによって用いられた。
・・・というように記されている。

わたしのブログで、鎌田紀彦ー前真之対論について
そのひとつのテーマとしてわたしが書いたたのがZEH論だったのですが、
その後、多くのみなさんから反響をいただきました。
国際的なゼロエネハウスについての動きが、地球温暖化対策のこともあって
最近になって、きわめて大きくダイナミックになってきている。
日本の経産省も、この方向で大きく舵を切ろうとしてきている。
東大・前先生の講演や、国の施策に関わっている複数の方からの情報では
諸外国がどちらかといえば、ZEH READY、
ようするに太陽光発電などの自然エネルギー活用型機器の
搭載「義務化」を前提とはせずに、駆体の性能で「準備」しておきましょう、
という住宅性能誘導施策を標準的に行ってきているのに対して、
日本では、誘導策というよりも、まず太陽光発電などの設備の
事実上の「義務化」が推進されてきている。
それがきわめて速いピッチで、十分な国民的議論を経ないで
国の補助金などの住宅施策に反映されてきている現実がある。

寒冷地に住む人間として
家の暖かさには「基本的人権」的なこだわりがある。
無暖房にはムダな部分も多く、コスト負担も割りにはあわない。
地球環境問題に危機感はあるけれど、原理主義にはなり得ない。
住宅は個人が自己責任原則で手に入れる資産。
それにあたって、国家が消費税まで取っていながら、
権力的立場から公共的な資産であると、あれこれ言ってくるのは
どうもというスタンスが民の側のホンネなのではないか。
家中の使用エネルギーを太陽光発電でキャンセルするという考え方について、
それは「暖かい家」のための技術開発努力が、
違う目的のためのものに利用され、それがある意味「強制」されてきていると
多くの方が感じているのだと思います。
このあたりの「不条理感」が大きいのではないか?
民が自主的に取り組んできたことが、ある日、違う目的と利用機器で
強制されてくるという部分に不条理感が強いのだと。

いろいろなみなさんの声を聞いて
このZEHをめぐってのモヤモヤ感が、ようやく少し前に進んだように
そんなふうに感じられてきております。
ただ、この動きは経産省と国交省の間でも温度差があるとされている。
国としての住宅施策はまだ、現在進行形なのだと思います。
そういった意味でも、民の側で論議するというのは
きわめて有意義なのではないかと思います。

コメント
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