きのうご紹介した兵庫県福崎の「三木家住宅」続報です。
たっぷりと「取材」したので、いろいろなテーマが見えていました。
ふだんの住宅取材では気付かないような側面についても気付きが得られた。
それはたぶん、他人とは思えない建て主への思いが強く
普通はスルーするような点にもセンサーが働くのかも知れません。
そういう気付きの中のひとつが、住まいの「防犯」というか、
政治軍事的「安全保障」に関するポイントであります。
この家は江戸期の藩の「大庄屋」の邸宅であるワケです。
当時の社会にあっては、こういった階級的存在は経済運営の中核的権力。
経済に関する権力装置なので、一般庶民との接点が多く、
基本的には一般に「開かれた」関係性をもって構造されている。
ところが、経済的政治的危機が進行すると、
「打ち毀し」などの民衆反乱の武力対象になりやすい。
被支配階級からは悪の権化のようにみなされたり、
不正義な財の集積そのものとみなされることが多いだろうと思われます。
事実この家では、3枚目の写真のように「一揆による刀傷」まである。
この傷は、幕末の混乱さめやらぬ明治初年、全国で発生した一揆のときのもので、
この地方でも起こった「播但一揆」の戦争痕跡だそうです。
そんなことが見えて、平和な現代では普通そう大きなテーマにはならない、
防御性能、安全保障性能というものに気付かされた次第。
1枚目の写真はよくある床の間の様子ですが、
この家ではなんと、白壁が「和紙」で造作されている。
この部屋はきわめて公的な性格の強い貴賓室ともいえる場所で、
藩の大名本人が来たときなどに使う「間」なのです。
今日の平和な世とは違って、江戸期という社会は基本的には
権力はその「暴力性」で成立していた時代。
その権力者は常に身の安全を考えていたとされている。
万一、この家に逗留していたときに襲撃者がおそってきたとき、
この和紙の壁を突き破って、避難するルートを確保させる狙いを持っていた。
さらにこの家の他の場所には秘密の地下脱出通路などもあった。
建具などでも巧緻に施錠構造が考えられている(2枚目写真)。
なかなか現代人には想像しにくい役割、機能が住宅の目的にあったことが、
この家ではかなり濃厚に見て取れたのです。
そのように考えてきたとき、
日本の家屋文化発展が長く「いごこち」についての性能配慮をせずに、
ひたすら「開放性」を旨としてきたことについて、
こういった権力構造、支配構造が住宅技術進化に大きく影響したのではと気付いた。
江戸期の「住宅規制・制約」の影響が建築文化にも見えるのは周知のことでもある。
住宅の技術もまた、社会のニーズに即して発展を見せるもの。
家の寒さを「堪え忍んで」までも、身の安全を最優先させていたのかも。
まだ定かとは言えないけれど、このことはあり得べきことではと
ひとり想像を巡らせていた次第です。どうなんでしょうか?